第29話 墓前の宣言
王都の第一地区にある、冷たい石造りの豪邸。
かつて「氷の城」と呼ばれ、静寂と冷気だけが支配していたその場所に、今は温かい湯気と芳醇な香りが満ちていた。
朝のキッチン。
ベルン・ガーランドは、エプロン姿でフライパンを揺すっていた。
厚切りのベーコンが脂を弾かせ、卵が半熟に固まっていく。隣のコンロでは、昨夜から煮込んだポトフがコトコトと音を立て、野菜の甘い香りを漂わせている。
「……よし。こんなもんか」
ベルンが皿に盛り付けようとした、その時だった。
ドサッ。
背後から、重たい何かがのし掛かってきた。
腰に細い腕が回され、背中に額が押し付けられる。
「……団長。重いです」
「……うるさい。充電中だ」
背中の主は、寝起きで髪を爆発させた家主、クラウス・フェン・アルゼインだった。
事件解決後、ベルンは「体調管理とリハビリ」という名目で、再びこの屋敷に連れ戻されていた。
そして、この「朝の充電」が日課となっていた。
「まだ完成しないので、もう少し寝てていいですよ」
「……駄目だ。貴様の匂いが薄れると、目が覚める」
クラウスはベルンの背中に顔を埋め、スースーと深呼吸を繰り返す。
干し草と、出汁と、少しの汗の匂い。
それを肺いっぱいに吸い込むことで、クラウスの身体機能は「戦闘モード」へと切り替わっていくらしい。
「……動くな。卵など焦がしておけ」
「貴方がくっついているから火加減が見えないんですよ」
「……私の世話と卵、どっちが大事なんだ」
「卵です」
「即答するな!」
クラウスは不満げにベルンの脇腹をつねったが、腕の力は緩めない。むしろ、逃がさないと言わんばかりに強く抱きしめてくる。
その体温は高く、背中越しに伝わる心音は穏やかだ。
ヴァルデングという呪縛から解き放たれた彼は、まるで甘え方を知ったばかりの猫のように、ベルンにべったりだった。
「……ベルン」
「はい」
「……今日のポトフ、人参は入っているか?」
「入ってますよ。ちゃんと食べてくださいね」
「……チッ。貴様が口移ししてくれるなら考えてやる」
「寝言は寝てるときに言ってください」
軽口を叩き合いながら、ベルンは苦笑した。
幸せな朝だ。
弟を殺され、復讐に燃えていた半年間には想像もしなかった、穏やかな光景。
けれど、胸のポケットには、一通の封筒が入っていた。
『辞表』。
その重みが、ベルンの心に小さな棘のように刺さっていた。
+++
王都の空は、抜けるような青だった。
連日の雨が嘘のように上がり、水溜まりが太陽を反射してキラキラと輝いている。
共同墓地の外れ。
ベルンは、弟エミル・ガーランドの墓石の前に立っていた。
手には、事件の顛末が記された新聞記事と、エミルが好きだった安酒。
そして、復讐のために振るい続けた、刃こぼれした剣。
「……終わったよ、エミル」
ベルンは墓石に水をかけ、静かに語りかけた。
「ヴァルデングは捕まった。過去の余罪も次々と暴かれて、一生陽の目を見ることはないだろう。……お前の無念は、晴らしたぞ」
風が吹き抜け、墓地の木々を揺らす。
ベルンは酒を一口含み、残りを墓前に撒いた。
「……でも、不思議だな。もっと胸がすくかと思ったが……ただ、静かだ」
復讐こそが生きる糧だった。
その燃料が燃え尽きた今、心の中には広大な空洞が広がっているようだった。
ベルンは腰から剣を外し、墓石の横にそっと置いた。
「もう、これは必要ないな。……俺の手は、誰かを傷つけるためじゃなく、美味いものを作るためにあるんだ」
ベルンは自分の掌を見つめた。
剣ダコの下に、かつての包丁ダコがまだ残っている。
クラウスの側にいれば、自分はまた剣を握ることになるだろう。彼は英雄で、戦いの中に生きる人だ。
復讐を終えた自分が、彼の光ある未来に影を落とすわけにはいかない。
「……そろそろ、潮時か」
ベルンが立ち上がろうとした、その時だった。
「――待たせたな、ベルン」
背後から、不機嫌そうな、しかしどこか弾んだ声がした。
振り返ると、そこには場違いなほど煌びやかな男が立っていた。
純白の礼服に身を包み、勲章をジャラジャラと下げた、正装のクラウスだ。
そしてその腕には、墓石が埋まりそうなほど巨大な、白百合の豪華な花束が抱えられている。
「だ、団長? なぜここに」
「貴様の匂いをたどったらここへ来た。……それに、部下の家族に挨拶するのは、上官の務めだ」
クラウスはズカズカと歩み寄ると、エミルの墓前にドサッと花束を供えた。
そして、背筋を伸ばし、真剣な表情で敬礼した。
「初めまして、エミル・ガーランド殿。……クラウス・フェン・アルゼインだ」
墓に向かって自己紹介を始めた。
ベルンは慌てて止めようとしたが、クラウスは構わず続けた。
「貴方の兄上には、多大なる世話になっている。……私の胃袋と、睡眠と、精神安定のすべてを彼に握られていると言っても過言ではない」
「ちょ、団長! 故人に何を言いつけてるんですか!」
「黙っていろ。重要な話の最中だ」
クラウスはベルンを一瞥し、再び墓石に向き直った。
その瞳は、いつになく真摯で、熱を帯びていた。
「……彼は復讐を終え、生きる目的を見失っているかもしれない。だが、安心してくれ。……貴方の兄上は、私が預かる」
風が止まった気がした。
ベルンは目を見開いた。
「彼は私が守る。彼の作るスープも、その背中も、老後の面倒まで含めて……私が全責任を持つ。だから、貴方は安心して眠ってくれ」
「……っ」
まるで、結婚の挨拶のような口上だった。
ベルンの顔がカッと熱くなる。
クラウスは満足げに頷くと、ベルンの方を向いた。
「……済んだぞ。帰るぞ、ベルン。腹が減った」
「……あの、団長。預かるって何ですか、預かるって」
「言葉通りの意味だ。……不服か?」
「不服というか……重いです、愛が」
「フン。光栄に思え」
クラウスはマントを翻して歩き出した。
その背中を見送りながら、ベルンは懐の辞表を握りしめた。
こんな風に言われてしまっては、決意が揺らぐ。
だが、だからこそ――ケジメをつけなければならないとも思った。




