第27話 痛みさえも愛おしく
再び降り出した豪雨が、ヴァルデング邸の石造りのテラスを叩きつけていた。
雷鳴が轟くたび、闇の中に無数の「歪み」が浮かび上がる。
カチ、カチ、カチ……。
耳障りな顎の音が、雨音に混じってサラウンドで響く。
透明魔獣。
その数は三十、いや五十か。
完全に包囲されている。
ヴァルデングは、テラスの奥にある安全圏で、優雅に腕を広げていた。
「さあ、始めようかクラウス。私の最高傑作である君が、どれほどの舞を見せてくれるのか」
狂気じみた慈愛の笑み。
クラウスは、ゆっくりと瞼を閉じた。
自身の青い瞳――「氷の処刑人」としての視覚を、自ら遮断する。
「……ベルン」
心の奥底に、声を落とす。
(……聞こえていますよ、団長)
脳内に、男の声が直接響いた。
太く、低く、そして温かい声。
同時に、閉ざしたはずの視界が、ぐわりと開かれた。
見える。
雨の粒、風の流れ、そして空間に溶け込んだ魔獣の輪郭までもが、サーモグラフィーのように鮮明に浮かび上がっている。
それは、遠く離れた場所にいるベルン・ガーランドの「観察眼」が捉えた世界だった。
「私の命を預ける。……貴様の目で、私を導いてくれ」
(ええ、私が全部捉えてみせます。貴方の剣が迷わぬように)
カッ!
クラウスが開いた左目は、いつもの青色ではなく、陽だまりのような榛色に輝いていた。
魔法契約「双眸連結」。
二人の魂を繋ぐ、禁断の秘術。
シュッ!
風切り音と共に、見えない鎌がクラウスの首を狙う。
だが、クラウスはそれを見ることなく、紙一重で首を傾けて回避した。
(右、3体! 低い!)
ベルンの指示が思考よりも速く脳髄に届く。
クラウスの体は、まるで糸で操られる人形のように――否、完璧なパートナーとダンスを踊るように、流麗に回転した。
「――凍てつけ!」
旋回と同時に放たれた冷気が、襲いかかる3体の魔獣を一瞬で氷像へと変える。
砕け散る氷の破片。
(後ろだ! 跳んでっ!)
「ハァッ!」
クラウスが跳躍する。その直下を、巨大な顎が空振る。
空中で体勢を入れ替え、脳内に映る「赤いマーカー(ベルンが敵だと認識した箇所)」を目掛けて剣を突き立てる。
断末魔。
緑色の体液が雨に混じって飛散する。
「……素晴らしい」
ヴァルデングが感嘆の声を漏らした。
「目が見えていないはずなのに、まるで背中に目がついているようだ。……これが、君の新しい力か?」
ヴァルデングが指を鳴らす。
魔獣たちの動きが変わった。
個別の攻撃ではない。波状攻撃。
前後左右、上下。全方位からの同時飽和攻撃。
(くっ……数が多い! 団長、防御を!)
ベルンの焦りが、ダイレクトな感情として流れ込んでくる。
クラウスは氷の障壁を展開するが、防ぎきれない。
ザシュッ!
「ぐっ……!」
死角からの一撃が、クラウスの左脇腹を浅く切り裂いた。
鋭い痛みが走る。
さらに、その瞬間。
(うぐっ……!)
脳内で、ベルンの苦悶の声が響いた。
リンクしているベルンにも、同じ痛みが伝播したのだ。
「ベルンッ!?」
(気にしないで! 大丈夫です……それより、次が来ます!)
視界が揺れる。
ベルンが痛みに耐えながら、必死に焦点を合わせ直しているのが分かる。
脂汗を流し、歯を食いしばるベルンの顔が、まるで自分のことのようにリアルに感じられる。
「……痛いだろう?」
ヴァルデングが、冷ややかに笑った。
「君は繋がっている男と、痛みを分かち合っているのか。……愚かだねえ。自分一人なら、痛みなど切り捨てて戦えるのに。他人の痛みまで背負い込んで、君の剣は鈍る一方だ」
ヴァルデングの手から、どす黒い魔力の波動が放たれた。
それは魔獣たちを狂暴化させ、さらに執拗にクラウスを追い詰める。
「君の両親を処理した時もそうだった。彼らは君を愛していると言いながら、君の才能を『普通の幸せ』という枠に閉じ込めようとした。だから私が解放してあげたんだよ。……君という完璧な剣を作るためにね」
雨の中で、ヴァルデングの声が呪いのように響く。
「邪魔な兄も消した。君の心を乱す不純物は、すべて私が排除してきた。……それなのに、君はまた、そんな薄汚い中年男を『弱点』として選ぶのか?」
ドクン。
クラウスの心臓が跳ねた。
親殺し。
兄の死。
すべては、私のために?
私が、この男に愛される「完璧な人形」であるために、大切な人たちが殺されたというのか。
(……ふざけるな)
脳内に、怒りの声が響いた。
クラウスの声ではない。
ベルンの声だ。
(団長。……耳を貸していけません。そいつの言葉は、全てノイズだ)
視界のリンクを通して、ベルンの体温が、鼓動が、そして魂の熱が流れ込んでくる。
それは恐怖や痛みを押しのけ、クラウスの凍えそうな心を内側から温める。
(貴方は人形じゃない。……私が作ったスープを美味いと笑った、ただの人間だ! 痛みを感じるのも、苦しむのも、貴方が生きている証拠だ!)
ベルンの叫びが、クラウスの迷いを焼き払った。
そうだ。
私は痛みを感じる。
脇腹の傷も、ベルンと共有しているこの熱も、すべて私が「ここ」にいる証明だ。
「……黙れ、ヴァルデング」
クラウスは顔を上げた。
その左目――榛色の瞳が、かつてないほど強く輝く。
「私が選んだのは弱点ではない。……私の生きる『糧』だ!」
クラウスが地を蹴った。
泥を巻き上げ、魔獣の群れへと突っ込む。
(私が目になる! 3時の方角、低い! そこが突破口だ!)
ベルンの声が導く。
クラウスの剣が、雷光のような速度で閃く。
一閃。二閃。
迫りくる透明な鎌を、見ることなく弾き返し、カウンターで首を刎ねる。
「なッ……!?」
ヴァルデングが目を見開いた。
速い。
以前よりも、さらに研ぎ澄まされている。
一人の視界では捉えきれない死角を、もう一人の目がカバーし、完璧な防御と攻撃を成立させている。
一心同体。
二人の呼吸が完全にシンクロし、戦場を支配していく。
「馬鹿な……不純物が混ざれば、濁るはずだ! なぜだ、なぜより鋭くなる!」
「貴様には分からんさ! 一人で完璧であろうとする貴様にはな!」
魔獣の壁が崩れた。
クラウスの目前に、ヴァルデングの姿が露出する。
(今だッ!! 行けぇえええッ!!)




