第26話 双眸連結
契約の儀式は、簡素だが濃密なものだった。
「動くな。目を合わせろ」
クラウスがベルンの顔を両手で挟み込む。
冷たい指先が、ベルンの無精髭のある頬に触れる。
ぐっと顔を近づけ、額と額を合わせた。
互いの吐息がかかる距離。
睫毛の数まで数えられそうな至近距離で、青い瞳と榛色の瞳が絡み合う。
クラウスが、吐息が混ざり合う距離で、古代語の詩を紡ぐ。
「……閉ざされた瞼の裏に、汝の灯火を。 凍てつく虚無に、命の温もりを」
ベルンの視界がぐらりと揺れ、脳髄に熱が走る。
「――我が視界は汝の庭。全てを委ねん……『双眸連結』」
脳の奥に、熱い杭を打ち込まれたような衝撃。
カッ!
二人の瞳が、同時に青白く発光した。
次の瞬間。
ベルンの脳内に、奇妙な映像が飛び込んできた。
それは「ベルン自身の顔」だった。
だが、鏡で見る顔とは違う。
どこか輪郭が柔らかく、周囲がキラキラと補正がかかっているように見える。
そして何より、その眼差しには、呆れるほどの親愛と、甘い執着が満ちていた。
(……へえ。団長の目には、俺ってこんな風に見えてるのか)
ベルンが内心で驚き、少し照れくささを感じた、その時だった。
「……んッ!?」
クラウスがビクリと体を震わせ、顔を赤らめて飛び退いた。
額を押さえ、荒い息を吐いている。
「団長? どうしました」
「な、なんだ今のは! 貴様から……とてつもなく『甘ったるい感情』が流れ込んできたぞ! 胸が焼けるかと思った!」
「え? ああ、すみません。団長に見つめられて、つい『可愛い人だな』と思ってしまって」
「う、うるさいッ! 邪念を混ぜるな! 術式が乱れるだろうが!」
クラウスは耳まで真っ赤にして怒鳴った。
ベルンは自分の左肩の痛みを意識してみた。すると、クラウスも「っ!」と左肩を押さえて顔をしかめる。
「……ふむ。痛みも、感情も、筒抜けですね」
「最悪だ……。これじゃあ、戦闘中に貴様が腹を空かせたら、私も空腹になるじゃないか」
「それはそれで、息が合っていいでしょう」
クラウスは大きくため息をつき、乱れた呼吸を整えた。
だが、その顔にはもう、孤独な戦士の悲壮感はなかった。
繋がっている。
その確かな感覚が、彼を強くしていた。
+++
隠れ家の出口。
ここからは別行動だ。
ベルンは、クラウスから教えられた「唯一信用できる人物」――治安維持局の監査室長の元へ向かう。彼はヴァルデングの長年の政敵であり、法の番人として知られる堅物だ。彼に証拠を渡し、彼直轄の騎士団を動かしてもらう。
そしてクラウスは、単身ヴァルデングの元へ向かう。
「後で会おう。……夕食のメニューを考えておけ」
「了解です、団長」
ベルンは背を向けようとして、ふと思い出したようにポケットを探った。
取り出したのは、一本の小さなスプーンだった。
いつも調理中に味見をするために使っている、使い込まれた銀のスプーン。
「……団長。これ、持っていてください」
ベルンはそれをクラウスの手に握らせた。
「味見用のスプーンです。……それを無くしたら、二度とスープの味見はさせませんからね」
「……なんだそれは。脅迫か」
クラウスは苦笑し、その小さなスプーンを宝物のように指でなぞった。
そして、自分の軍服の肩に飾られた飾緒を引きちぎった。
代々アルゼイン家の当主に伝わる、名誉ある装飾品。その先端についている、家紋が刻まれた銀の金具を外す。
「……ならば、これをお前に預ける」
クラウスは金具をベルンに放った。
「我が家の家宝の一部だ。……これを返してもらう時までに、必ず戻ってこい。さもなくば、給金は永久に凍結だ」
「……はは。厳しい担保ですね」
ベルンは金具を強く握りしめた。
日常の象徴であるスプーンと、誇りの象徴である金具。
二人は互いの「一番大切なもの」を交換し、頷き合った。
「しかと務めよ」
「どうかご武運を」
二人は背中合わせになり、逆方向へと走り出した。
+++
雨上がりの王都。
クラウスは疾走していた。
目指すは第4倉庫。
だが、到着した時には、そこはもぬけの殻だった。
魔獣の気配も、ヴァルデングの姿もない。戦闘の痕跡すら綺麗に消されている。
逃げられたか。
いや、違う。
「……屋敷か」
招かれているのだ。
ヴァルデングは、自分の「城」で、最高の舞台を整えて待っているつもりだろう。
クラウスは踵を返し、第一地区の高級住宅街へと向かった。
走っている最中、脳裏にノイズが走った。
ザザッ……と映像が重なる。
それは、ベルンが見ている景色だった。
薄暗い路地裏。息を切らして走る視点。時折、振り返って追っ手を警戒する動き。
ベルンも戦っている。
その感覚が、クラウスの恐怖を拭い去っていく。
一人じゃない。
私の目は、あいつの目だ。私の痛みは、あいつの痛みだ。
「……見ているか、ベルン。これは上から見た王都の景色だ。経験なかろう」
クラウスは屋根の上を飛び越えながら、心の中で語りかけた。
(ええ、見えてますよ。あなたと一緒に……少し揺れすぎて酔いそうですが)
脳内に、ベルンの呆れたような声が響いた。
+++
ヴァルデング邸。
壮麗な鉄柵に囲まれたその屋敷は、重苦しい静寂に包まれていた。
門番はいない。
ただ、門が半開きになって、来訪者を誘っている。
クラウスは門をくぐり、庭園を抜けて、正面玄関の巨大な扉の前に立った。
かつては「実家」のように慕い、何度も通った扉。
だが今は、魔王の城の入り口にしか見えない。
深呼吸を一つ。
肺いっぱいに吸い込んだ空気には、微かに懐かしい干し草の匂い――ベルンと共有している感覚――が混じっていた。
バンッ!!
クラウスは魔力で扉を押し開けた。
広大なエントランスホール。
その中央に、優雅な椅子に腰掛け、紅茶を啜るヴァルデングがいた。
相変わらずの、慈愛に満ちた笑顔。
だが、その周囲の空間は異常に歪んでいた。
カチ、カチ……という硬質な音。
数十、いや百に近い透明魔獣の気配が、広間全体を埋め尽くしている。
「おかえり、クラウス」
ヴァルデングがカップを置いた。
カチャン、という音がやけに大きく響く。
「早かったね。……壊れたおもちゃは、修理してあげようと思っていたんだ」
「……修理は不要だ」
クラウスは一歩、踏み出した。
その足取りに迷いはない。
「私は壊れてなどいない。……貴方が作った『人形』が壊れただけだ。ここにいるのは、自分の意志で立つ騎士だ」
ジャキンッ!
クラウスは愛剣を抜いた。
切っ先を、かつての父に向ける。
「父上……いや、大罪人ヴァルデング! 貴方を討つ!」
叫びと共に、クラウスの魔力が解放された。
カッ!
彼の右目は、冷徹な氷の色をした青。
そして左目は――温かな陽だまりのような、ベルンの瞳の色である榛色に輝き始めた。
「ほう。……『双眸連結』か」
ヴァルデングが面白そうに目を細めた。
彼はゆっくりと立ち上がり、指を鳴らした。
「いいだろう。最高傑作の性能テストだ。……合格したら、また愛してあげよう」
空間が割れる。
見えない殺意の嵐が、クラウスに襲いかかった。
最後の戦いが、幕を開ける。




