第23話 胃袋が叫ぶ真実
王立騎士団、特別捜査局・第零班の執務室。
主を失ったキッチンは冷え切り、いつも漂っていた出汁の香りは、微かな残り香となって消えかけていた。
騎士団長クラウス・フェン・アルゼインは、自身のデスクで冷めたクリームシチューを前にしていた。
ベルンすれ違った直後。
側にいたギルバート一等兵は気を遣って「温め直しましょうか?」と聞いたが、クラウスは首を横に振った。
冷めていても、味が変わるわけではない。
スプーンで一口、液体を口に運ぶ。
舌の上で広がる、野菜の甘みとミルクのコク。
そして、隠し味に使われているであろう、微かな味噌の風味。
「……あいつ、また勝手なことを」
クラウスは独りごちた。
口では文句を言いながらも、胃袋が、内臓が、歓喜の声を上げて弛緩していくのが分かる。
怒りで張り詰めていた神経が、この一杯のスープで強制的に解かされていく。
どんな名医の薬よりも効く、魔法のような味。
「……こんな優しい味を作る男が、嘘をつくわけがないだろう」
自分の声が、静寂な部屋に響いた。
認めたくなかった。
父と慕うヴァルデングを疑うことも、ベルンが自分を裏切っていないと認めることも、どちらも怖かった。
その時だった。
バンッ!
執務室の扉が勢いよく開かれ、伝令兵が飛び込んできた。
「失礼します! 治安維持局より、クラウス団長へ至急の親展です!」
手渡されたのは、豪奢な封蝋が施された一通の手紙。
差出人は、ヴァルデング。
クラウスは震える手で封を切った。
『親愛なる息子、クラウスへ。
悲しい知らせがある。調査の結果、ベルン・ガーランドは反政府組織のスパイであることが判明した。
彼が君に近づいたのは、騎士団を内部から崩壊させるためだ。弟の死も、そのための狂言に過ぎない。
彼は今夜、我が国の法に基づき極秘裏に処分される。
君は彼のことを忘れなさい。汚れた交友関係は、君の輝かしい経歴の汚点となる』
文字の羅列が、意味を持った塊として脳に突き刺さる。
スパイ?
処分?
忘れろ?
「……嘘だ」
クラウスの手から手紙が滑り落ちた。
違う。あの男は、そんな器用な真似ができる人間じゃない。
剣術や戦術は未熟で、ただ美味い飯を作り、私の背中をさすって寝かしつけるだけの、不器用な男だ。
「団長……これ」
凍りついた空気の中、ギルバートの声がした。
彼はベルンのデスク――片付けられず、そのままになっていた机の上で、手紙を見つけていた。
『廃棄区画・第4倉庫にて待つ。 ヴァルデング』
「……第4倉庫だと?」
クラウスが顔を上げる。
そこは王都の外れ。行方不明者が多発していると噂される危険地帯だ。
事情聴取をするような場所ではない。
おそらく、処刑場だ。
「団長、これって……」
「……捨て置け」
クラウスは声を絞り出した。
父の言葉が、呪いのように頭を縛り付ける。『忘れなさい』。
逆らえば、私は父を失う。
「スパイなのだろう。……ならば、自業自得だ」
クラウスは椅子に座り直し、再びスプーンを握ろうとした。
だが、その手は激しく震えて、食器のカチャカチャという音を立てるばかりだった。
ダンッ!!
ギルバートが、クラウスの机を両手で叩いた。
普段は飄々としている彼の顔が、かつてないほどの怒りで真っ赤に染まっていた。
「いい加減にしてくださいよ、団長ッ!!」
「……ギルバート?」
「僕は馬鹿ですけどね! ベルンさんがスパイだなんて、絶対に信じませんよ! だってそうでしょう!? あの人が作るあったかいご飯に、嘘の味なんてしなかったッスよ!」
ギルバートは涙目で叫んだ。
「毎日毎日、団長の体調を考えて、俺たちのことを考えて作ってくれた飯! 嘘つきがあんな優しい味、作れるわけないです! 団長だって、舌では分かってるくせに、なんで頭で否定するんスか! 団長の大事な大事な『補佐官』でしょうが!!」
その一喝は、雷のようにクラウスを貫いた。
そうだ。
理屈じゃない。証拠でもない。
私の舌が、胃袋が、そしてあの温もりを知っている肌が、真実を叫んでいる。
――ベルンを信じろ。
クラウスは立ち上がった。椅子が倒れる音が響く。
「……ギルバート。馬を用意しろ」
「え?」
「最速の馬だ! 第4倉庫へ向かう! ……私の特級補佐官を、みすみす殺させてたまるかッ!!」
+++
王都の外れ、廃棄区画。
降り始めた雨が、錆びついた倉庫の屋根を叩いていた。
第4倉庫の中は、死のような静寂に包まれていた。
ベルン・ガーランドは、倉庫の中央で剣を構え、油断なく周囲を警戒していた。
肩で息をしている。
左肩の軍服が切り裂かれ、そこから滲んだ血が、袖を伝ってポタポタと地面に落ちていた。
「……やってくれますね、判事殿」
ベルンが睨みつける先。
倉庫の二階にあるキャットウォークから、ヴァルデングが見下ろしていた。
その周囲には、空間が歪むような気配――数十体の透明魔獣が蠢いている。
「しぶといね、ガーランド君。今の攻撃で首を刎ねたつもりだったのだが」
ヴァルデングは残念そうに肩をすくめた。
ベルンの肩の傷は、浅くはないが致命傷ではない。
最初の一撃。背後からの不可視の刃を、ベルンは紙一重で回避していた。
呼び出しを受けた時点で、罠だと確信していたからだ。
「……こんな夜遅くに呼び出しとは、随分と熱烈な歓迎だと思っていましたよ。おかげで目が冴えました」
ベルンは軽口を叩きながら、左手で懐を探った。
そこには、「閃光弾」がある。
もしもの時のために持ってきたが、まさか本当に使うことになるとは。
「無駄口はそこまでだ。……君は知りすぎた。弟君と同じ場所へ送ってあげよう」
ヴァルデングが指を鳴らす。
カチ、カチ……。
無数の顎が鳴る音が、四方八方から迫る。
見えない死神の包囲網。
ベルンは剣を握り直した。肩の傷が熱く痛む。
(……ここで終わるのか)
死の刃が、ベルンの首めがけて振り下ろされた、その瞬間。
「――その薄汚い刃を、私の大切な部下へ向けるなァアアッ!!」
ドォォォォン!!
倉庫の壁が、爆発したかのように粉砕された。
突風と共に吹き荒れる、絶対零度の冷気。
迫っていた透明魔獣たちが、一瞬にして氷の彫像へと変わり、砕け散る。
氷煙の向こうから、白銀の髪をなびかせた鬼神が現れた。
クラウス・フェン・アルゼイン。
「……だ、団長」
ベルンが呆気にとられて呟くと、クラウスはベルンの前に立ち、背中で語った。
「……遅い」
「は?」
「夕食の準備が遅いと言っている! サボるな、この給料泥棒!」
滅茶苦茶な言い分だった。
だが、その声は微かに震えていた。
クラウスはベルンを一瞥もしない。だが、その左手が、背後にあるベルンの軍服の裾を、強く、強く掴んでいた。
「……生きてたな、ベルン」
「ええ。肩を少しかすっただけです。……来てくれると、信じていましたよ」
「勘違いするな。置いていったシチューの温め直しを命令しに来た」




