第21話 届かない言葉、届く味
王立騎士団、特別捜査局・第零班の執務室は、ここ数日、かつてないほどの「氷河期」を迎えていた。
室温の話ではない。人間関係の話だ。
部屋の空気は重く、澱んでいる。
書類をめくる乾いた音と、ペンが走る音だけが響く。
普段なら聞こえるはずの「おいベルン、茶」「はいはい、団長」というやり取りは、一切ない。
原因は明白だ。
騎士団長クラウスと、補佐官ベルンの決裂。
弟を殺した黒幕はヴァルデング判事だと告発したベルンに対し、判事を父と慕うクラウスが激昂し、ベルンを私邸から追い出したあの日から、二人の間には分厚い氷の壁が立ちはだかっていた。
「……(息が詰まる)」
同僚のギルバート一等兵は、自分のデスクで小さくなっていた。
この数日、彼は生きた心地がしなかった。
ベルンは業務に必要な最低限のことしか喋らず、クラウスは常に不機嫌なオーラを撒き散らしている。
完全なる冷戦状態。
だが、奇妙なのは――。
カチャ。
昼時。ベルンが無言で立ち上がり、手に持っていたバスケットをクラウスのデスクに置いた。
中身は、今朝ベルンが官舎の共同キッチンで作ってきた弁当だ。
彩り豊かな野菜のピクルス、厚焼きの卵、そして鶏肉のハーブ焼き。
喧嘩中だろうが、追放中だろうが、ベルンはクラウスの食事管理だけは放棄していなかった。
「…………」
クラウスもまた、無言だった。
書類から目を離さず、しかし拒否することなくバスケットを引き寄せる。
そして、黙々と食べ始めた。
カチャ、カチャという食器の音だけが、静寂の部屋に響く。
完食だった。米粒一つ残っていない。
クラウスはナプキンで口元を拭うと、空になったバスケットをデスクの端に押しやった。
そして、くるりと椅子を回転させ、3メートル離れたギルバートの方を向いた。
ベルンは、その中間に立っているのに、だ。
「おい、ギルバート」
「ひっ、はい!? なんでしょう団長!」
「……今日の鶏肉は、焼き加減が良かったと伝えろ。……あと、ピクルスの酸味が少し足りないともな」
ギルバートは目を白黒させた。
伝えるって、誰に。目の前に本人がいるじゃないか。
「え、あ、あの……ベルンさんに、ですか?」
「他に誰がいる。早く言え」
「は、はい……。えーと、ベルンさん? 団長が『鶏肉ウマかった、でもピクルスもっと酸っぱくして』って言ってます」
ギルバートは恐る恐る、すぐ隣にいるベルンに伝言した。
ベルンは表情一つ変えず、淡々とギルバートに向かって答えた。
「ギルバート一等兵。団長に伝えてください。『酸味が足りないのは、貴方の疲労が溜まっている証拠です。これ以上酸っぱくすると胃が荒れます』と」
「ええ……。あー、団長? ベルンさんが『お疲れだから胃に優しい味付けにしたんだよ』って言ってます」
「……フン。余計なお世話だと伝えろ」
「……は、はあ……」
ギルバートは天を仰ぎたくなった。
なんだ、この茶番は。
直接話せばいいのに、意地を張って一言も口をきかない。
けれど、胃袋だけはガッチリと掴まれているし、掴んでいる。
この歪な絆が、今の二人を繋ぎ止める唯一の蜘蛛の糸だった。
+++
午後。
クラウスは重い足取りで、王都の中心にある治安判事局を訪れていた。
豪奢な執務室の扉を開けると、そこにはいつものように温和な笑顔を浮かべたヴァルデングがいた。
「やあ、クラウス。どうしたんだい? 顔色が優れないようだが」
「……ヴァルデング様」
クラウスは帽子を胸に当て、深く一礼した。
目の前にいるこの人は、自分を息子と呼び、剣を与え、居場所をくれた恩人だ。
ベルンの告発など、信じたくない。信じるわけにはいかない。
だが、ベルンのあの悲痛な目――嘘をつく人間には決してできない、あの真剣な眼差しが、脳裏から離れないのだ。
確かめなければならない。
自分の正義のために。そして何より、ベルンとの関係を修復するために。
「……父上。折り入ってお伺いしたいことがあります」
「なんだい? 何でも言ってごらん」
「……十年前の、『嘆きの聖女事件』についてです」
ピクリ。
ヴァルデングが書類をめくる手が、一瞬だけ止まった。
だが、すぐにその顔には「困った子供を見るような」慈愛に満ちた色が浮かんだ。
「懐かしい事件だね。悲しい出来事だった。……それがどうかしたのかい?」
「あ、いえ……。最近、妙な噂を耳にしまして。……その、真犯人は別にいて、貴方がそれを庇ったのではないか、と……」
言いながら、クラウスは自分の言葉が酷く愚かに思えた。
こんな高潔な人物に向かって、なんという無礼を。
ヴァルデングは怒らなかった。ただ、悲しそうに眉を下げた。
「……そうか。私のことを、そんな風に疑う者がいるのか」
「い、いえ! 私は信じておりません! ただ、部下が妙な証拠を持っていると言い張るもので……その誤解を解きたくて……!」
「部下?」
ヴァルデングが顔を上げた。
その瞳は穏やかだが、奥底には底知れぬ闇が広がっている。
「誰だい? そんな悪質なデマを、君に吹き込んだのは」
優しい声だった。
だからこそ、クラウスは焦ってしまった。
早く潔白を証明して、この気まずい空気を払拭したい。
ベルンの誤解だと、笑って済ませてもらいたい。
「……ベルン・ガーランドです。私の補佐官です」
その名が出た瞬間。
部屋の空気が、ふわりと変わった。
ヴァルデングは数秒間沈黙し、それから「ああ」と納得したように頷いた。
「ガーランド……。ああ、あの食堂の。……そうか、彼はまだ、そんなことを言っているのか」
「ご存知なのですか?」
「ああ。彼の弟がね、少し精神を患っていて……あることないこと妄想を広げていたんだよ。気の毒なことだ」
ヴァルデングは立ち上がり、クラウスの肩に手を置いた。
「心配ないよ、クラウス。君の部下の誤解は、私が解いてあげよう。……彼も、弟を失って混乱しているのだろう」
「……ありがとうございます! やはり、父上は慈悲深い方だ」
クラウスは安堵に顔を綻ばせた。
よかった。これで全て解決する。
ベルンもきっと、ヴァルデング様の言葉を聞けば納得してくれるはずだ。
そう信じて、クラウスは一礼して部屋を出て行った。
残されたヴァルデングは、扉が閉まるのを見届けると、ゆっくりと窓辺へ歩み寄った。
その口元から、慈愛の笑みが剥がれ落ちる。
後に残ったのは、爬虫類のような冷徹な無表情だった。
「……ガーランド。あの時の口封じした者の兄か」
ヴァルデングは窓ガラスに映る自分の顔を見て、冷ややかに嗤った。
「兄弟揃って、鼻が利くようだね。……あの時、弟と一緒に始末しておけばよかった」
クラウスは純粋すぎる。
私の与えた正義を疑うことを知らない、美しい人形だ。
だが、その人形に「疑念」という泥を塗る不純物がいるなら――取り除かねばならない。
「……すべては、可愛い息子のためだ」
ヴァルデングは机上の呼び鈴を鳴らした。
現れた影のような従者に、短く命じた。
「公式な聴取として、ベルン・ガーランドを呼び出したまえ。……場所は『処理場(廃棄区画)』だ。……手厚く葬ってやる」




