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「あなた、まだ卵を持ってるわね」
突然声をかけられて、俺は顔を上げた。
女と、男。
どちらも見覚えはない。
だが、なぜかその一言がやけに引っかかった。
「…なんの話ですか」
警戒しながら答える。
正直、関わらない方がいいタイプの人間だと直感した。
だが、男の方がじっとこちらを見ている。
値踏みするような目。
――不快だ。
「才能の卵だよ」
女があっさりと言った。
その瞬間、胸の奥が妙にざわついた。
知らないはずの言葉なのに、なぜか知っている気がする。
「ほとんどの人は、そのまま腐らせる」
男が続ける。
「でもお前は違う」
「何を根拠に」
少し強めに返す。
すると、男はわずかに笑った。
「見ればわかる」
その言い方が、妙に癪に障った。
「勝手なこと言うなよ」
立ち去ろうとした、その時。
女が静かに言った。
「このままで、いいの?」
足が止まった。
⸻
「毎日同じ仕事して、なんとなく飯食って、なんとなく寝て」
女の声は淡々としていた。
「不満はない。でも満足もない」
図星だった。
何も言い返せない。
「それ、“まだ選んでないだけ”だよ」
「…選ぶ?」
「卵を孵すかどうか」
沈黙が落ちた。
正直、頭がおかしい話だと思う。
だが――
なぜか、無視できなかった。
「もし本当だとして」
ゆっくりと口を開く。
「孵したらどうなる」
男が答えた。
「戻れなくなる」
即答だった。
迷いがない。
「でも」
女が続ける。
「自分が何者かは、はっきりする」
⸻
俺はしばらく考えた。
長い時間じゃない。
数秒くらいだったと思う。
でも、その中で妙にいろんなことを考えた。
今の仕事。
これからの人生。
何者にもなれないまま終わる可能性。
そして――
変わってしまう怖さ。
「…一つ聞いていいか」
「なんだ」
「二人は、後悔してるか?」
少しの間があった。
先に答えたのは、男だった。
「してない」
即答だった。
だが、その目は少しだけ濁っていた。
次に、女。
「半分だけ」
正直すぎる答えだった。
⸻
「…そうか」
俺は息を吐いた。
そして、言った。
「やるよ」
自分でも驚くほど、あっさりと。
⸻
卵は、黒くも白くもなかった。
透明だった。
手に乗せると、かすかに脈打っているのがわかる。
「握って」
女が言う。
「強く」
俺は言われた通りにした。
「自分の才能を知りたい、って思いながら」
――本当に、これでいいのか?
一瞬だけ迷いがよぎる。
だが、もう遅い。
ぐっと力を込めた。
⸻
壊れる感触はなかった。
代わりに、何かが“広がった”。
頭の中じゃない。
もっと外側。
世界そのものに、手が触れたような感覚。
音が消える。
時間が薄くなる。
そして――
理解した。
「……は?」
思わず声が漏れた。
ありえない。
そんなはずがない。
「どうした」
男が覗き込む。
俺はゆっくりと顔を上げた。
「これ…」
言葉がうまく出ない。
「俺の才能――」
⸻
「“選択”だ」
⸻
空気が、止まった。
「…選択?」
女が眉をひそめる。
「どういう意味だ」
男も珍しく動揺していた。
俺はゆっくりと説明した。
「分岐が見える」
「分岐?」
「この先の可能性。選んだ場合と選ばなかった場合」
言いながら、自分でも信じられなかった。
だが、確信がある。
「しかも」
喉が少し乾く。
「どっちが“良い結果になるか”も、なんとなくわかる」
⸻
沈黙。
数秒。
いや、もっと長かったかもしれない。
最初に口を開いたのは、男だった。
「…それは」
言葉を選ぶように、ゆっくりと。
「最悪だな」
⸻
「は?」
思わず聞き返す。
「なんでだよ」
女が代わりに答えた。
「だってそれ、全部“正解”を選べるってことでしょ?」
「まあ…そうなる」
「じゃあ、間違えられない」
その言葉に、背筋が冷えた。
⸻
間違えられない。
失敗できない。
遠回りできない。
常に最適解を選び続ける。
「それって」
女は静かに言った。
「人生じゃなくて、“作業”だよ」
⸻
頭の中で、何かが軋んだ。
さっきまで感じていた“可能性”が、急に重くなる。
「でもよ」
俺は必死に言い返す。
「成功できるんだろ?」
「富も、名声も」
男が短く答えた。
「できるだろうね」
「じゃあいいじゃねえか!」
思わず声が大きくなる。
すると、男はじっとこちらを見て言った。
「それで満足できるならな」
⸻
その言葉は、妙に刺さった。
⸻
三人で、しばらく無言になった。
ホームは静かで、電灯の明かりだけがやけに眩しい。
やがて、女がぽつりと呟いた。
「揃っちゃったね」
「何が」
「観察と、遮断と、選択」
確かにそうだ。
役割が、綺麗に分かれている。
見る者。
切る者。
選ぶ者。
「ねえ」
女がこちらを見る。
「試してみようよ」
「何を」
「この三つで、どこまでいけるか」
⸻
男は少し考えてから、笑った。
「面白い」
俺も、気づけば笑っていた。
不安もある。
怖さもある。
でもそれ以上に――
「やってみるか」
⸻
その選択が、どれほどの結果を生むのか。
この時の俺たちは、まだ知らなかった。




