第7話「潮見表の夜」
ビー玉が、勝手に転がっていく。
三階の廊下。氷見斎がノートの端に描いた潮位グラフの横で、澪たちは半信半疑の顔をしていた。氷見がポケットから取り出した小さなビー玉を、廊下の真ん中にそっと置く。
ころ……ころ……
ビー玉は、誰も触っていないのに、じわじわと動き始めた。教室側ではなく、海に面した窓側へ。ほんのわずかな速度。でも、はっきりと「傾斜」を示すには十分だった。
「ほらね」
氷見が潮位ノートを掲げる。グラフの一番上に、今日の日付と、赤い丸印がついていた。
「今夜が一番の大潮。潮位も最大、地盤沈降もピークに近い。校舎全体が、ちょっとだけ海側へ傾き始めてる」
冗談で言っている口調ではなかった。
「三階でこれなら、一階どうなってんだよ……」
矢代空が顔を引きつらせる。
「一階はもう、プール。二階の半分も、そろそろ水没域だね」
氷見はあっさりと言った。
その軽さが逆に、現実味を増してくる。
廊下の窓の外では、海が校舎の窓ぎりぎりまで来ていた。波が打ち寄せるたび、ガラス越しに水の筋が走る。空も海も同じ色で、境目が分からない。
「……長良先生、大丈夫かな」
澪は、廊下の反対側にある、応急の保健室を振り返った。三階の空き教室を仕切って作ったそこには、長良教頭が寝かされている。
「さっきつぐみが様子見てたけど、あんまりよくはないみたい」
真帆が、小声で答えた。
「熱もあるし、咳もひどくなってるって」
澪は、勇気を振り絞って保健室の戸をノックした。
「……どうぞ」
弱々しい声が返ってくる。
教室の中は、薬品と消毒液の匂いがしていた。窓は少しだけ開けられ、湿った風がカーテンを揺らしている。長良教頭は、額に冷却シートを貼られ、うつ伏せに近い体勢で寝ていた。
「三崎か」
掠れた声が、布団の隙間から洩れる。
「潮は、どうだ」
「……さっき、ビー玉が転がってました。氷見くんが言うには、今夜が一番危ないって」
正直に言うと、長良はふっと笑った。
「ビー玉で潮を見るか。……今の子らしいな」
笑いはすぐに咳に変わる。つぐみが背中をさすり、薬を飲ませる。少し落ち着いたところで、長良は澪の方を見た。
「点呼は、守れ」
短く、はっきりとした言葉だった。
「……え?」
「どんな形でもいい。数字でも、名前でも。毎日、誰がそこにいるか、確かめる儀式を続けろ。それが、最後まで残る秩序だ」
長良の目は赤く充血していたが、その奥は澄んでいる。
「点呼は……人を守るものだと、思ってました。今までは」
澪は、口の中で言葉を探しながら続けた。
「でも今は、点呼を取るたびに、誰かが“欠席”にされていく。呼べない名前が増えていく。……それって、本当に守ってるって言えるんでしょうか」
長良は少しだけ目を閉じた。
カーテンの隙間から入る風が、冷却シートの端を揺らす。
「どっちを守ってるかは、点呼する側が決めるんだよ」
しばらくしてから、彼はそう言った。
「人を守る点呼もある。海を守る点呼もある。数字だけを守る点呼だってある。……お前は、どれを守るつもりだ」
澪は、答えられなかった。
長良は、咳の合間に続ける。
「忘れられるのが、一番怖い。死ぬことより、消えることの方がな。……点呼は、忘れないための儀式だ。そこを間違えるな」
それが、長良教頭の、その夜の最後の長い言葉になった。
◆
「逆流?」
夕方の作戦会議で、山城拓が眉を上げた。
三階の仮図書室には、澪たち主要メンバーが集まっている。窓の外は早くも薄暗く、大潮前の海が重たい音を立てていた。
「そう。こっちから“声の流れ”を断つ」
律が、手書きの配線図を広げる。
「テープレコーダから放送設備へ向かってる信号のラインに、絶縁をかける。床下の回路で、海水を導体にして閉回路になってる部分を、一旦切り離す。そうすれば、少なくともテープの出力は遮断できるはず」
「そんなこと、できるの?」
空が顔をしかめる。
「電気、危なくない?」
「危ない」
律はあっさり認めた。
「工業用の手袋も、ちゃんとした絶縁テープも、ここにはない。あるのは、ビニール袋と紙テープと……」
「ラミネートフィルム」
百瀬真帆が、図書室の隅に積まれた紙の山を指さした。
「古いプリントにかけられてたラミネート。はがせば薄いプラスチックの膜がたくさん取れる。完全じゃないけど、ないよりマシな絶縁になる」
「それ、全部はがすの大変だろ」
空が言うと、真帆は笑った。
「紙仕事は得意だから。こういう地味なの、わりと好き」
「俺は、ロープの用意をする」
空が腕を組んだ。
「水泳部の倉庫から持ってきたやつ、まだ残ってる。床下に潜るやつ全員、腰にロープ巻いておく。もし何かあっても、上から引き上げられるように」
「床下の海水が一気に入ってくる可能性もあるからな」
氷見斎が、潮位ノートをめくる。
「今夜の満潮は、前夜よりさらに二十センチは高くなる。床下スペースまで水が上がってきてもおかしくない」
「じゃあ、こっちはこっちで“儀式”を強化する」
山城が黒板用のチョークを握りしめる。
「昨日までは名前を書くだけだったけど、今日からは、全員で声に出して自分の名を読む。出席番号順に、一人ずつ。……名を呼ぶことは、生きていることの確認だ」
「読み上げた声も、海に届くかもしれない」
つぐみが言った。
「なら、ちゃんと届くように、ちゃんと“聞こえるように”言おう。自分の声で、自分の名前を」
全員の視線が、自然と澪に向いた。
「澪は……床下?」
空が尋ねる。
澪は、少しだけ迷ってから、うなずいた。
「放送に一番近いところに行きたい。ここまできたら、逃げてばっかりいられないし。……それに、あの声の中には、私の声も混ざってる。だったら、責任取るべきは私だと思う」
「責任って言葉、便利だよね」
つぐみが苦笑した。
「でも、その責任の取り方なら、私は応援する。……戻ってきてから、また一緒に出席とろ」
「お前がいなくなったら、出席の“全員”にならないからな」
空が笑う。
その笑いに、澪は少しだけ力をもらった。
◆
夜が、校舎を呑み込んでいく。
窓の外は真っ暗で、月も星も雲に隠れている。海の音だけが近く、遠い。時刻は二十三時を回り、潮はさらに満ちていた。
体育館では、山城の指示で黒板の前に列が作られている。
「出席番号一番から順に、自分の名前を読み上げる。大きな声でだ」
チョークで書かれた名前を、ひとりずつなぞるように読む。
「三年一組、出席番号一番──」
最初の生徒が名を告げる。
それに続いて、次々と名前が体育館の空気を満たしていく。
名前の列は、呪文のようでもあり、祈りのようでもあった。
その頃、三階の床下点検口では、別の準備が進んでいた。
「ラミネート、こんなもんで足りる?」
真帆が、はがしたフィルムを重ねた束を律に渡す。
透明な膜が、薄くカサカサと音を立てる。
「足りない部分はビニール袋で補うしかないな。……あとは、工業用手袋の代わりに、ゴム手袋二重にして」
律は、手元の簡易工具とフィルムの束をチェックする。
「ロープ、結んだ」
空が澪の腰に巻いたロープをもう一度引き締める。
「痛くない?」
「大丈夫。……むしろ安心する」
腰に食い込むロープの感覚が、現実につながっている証のように思えた。
氷見は、潮位ノートと懐中電灯を片手に構えている。
「今の潮位、ぐんぐん上がってる。床下の水深、たぶん膝下くらい。でも、さっきより速い」
「時間がないってことか」
律が短く言った。
「放送予定時刻のちょっと前までに、絶縁を終わらせたい。……途中で鳴らされると厄介だ」
「始めよう」
澪は、息を呑んで点検口の縁に足をかけた。
暗闇が、下からじっと見上げているような気がした。
懐中電灯の光が、その暗闇を切り裂く。
鉄の梯子を下りると、床下の空気が肌にまとわりついた。湿り気と塩の匂い。足元には、冷たい水が薄く溜まっている。
「澪、ロープゆるかったら言えよ」
上から空の声が降ってくる。
「うん」
澪は返事をし、懐中電灯を前方に向けた。
ケーブルの束が、壁から壁へと這っている。昨日見つけたテープレコーダのあたりから、太い線が何本も伸びていた。
「この黄色いのが、例のラインだ」
律が足元のケーブルを指差す。
「ここで海水に触れて、体育館と放送室と防災無線が全部つながってる。……ここの接続部に、絶縁を巻く」
澪はラミネートフィルムの束を受け取り、ケーブルの接続部を包むように巻きつけた。
パキパキと、硬いフィルムが折れる音がする。
その上からさらにビニールを重ね、紙テープで固定する。
「こんなんで、本当に効くのかな」
「完璧じゃなくても、少しは抵抗になる。信号が弱まれば、声も弱まる」
律は、自分の手にもゴム手袋を二重にしてはめた。
「問題は、最後の一本だ。この端子を絶縁した時点で、回路が一瞬“浮く”。そこで逆流が起きるかもしれない」
「逆流?」
「こっちから遮断しようとしたエネルギーが、逆にこっちへ噛みついてくるってこと」
さらっと言われているが、内容はぞっとする。
「でも、それをやらなきゃ、何も変わらない」
澪は、自分に言い聞かせるように呟いた。
遠くから、かすかに名前の読み上げる声が聞こえてきた。
体育館での儀式が続いているのだろう。
「……そろそろだ」
氷見の声が、上から落ちてきた。
「潮位、ピークに近い。放送の時間も近い」
律は大きく息を吐いた。
「一気にやるぞ。澪、手伝ってくれ」
「うん」
二人は並んでケーブルの接続部に向き合った。
最後にむき出しになっている端子が、たった一本。
そこに、ラミネートとビニールを巻き付ける。
「触るのは、俺がやる」
律が言う。
「もし感電したら、ロープで引き上げてもらえ」
「それでも、私も一緒にやる」
澪は、その手を掴んだ。
「あの声の“元”を作ったのは、私の声でもあるから。自分の声のけじめくらい、自分で取る」
律はしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「……ほんと、お前は面倒なやつだな」
「褒め言葉として受け取っておく」
薄暗い床下で、二人は同時に端子に手を伸ばした。
その瞬間だった。
ザザザッ、と耳の奥をかき回すようなノイズが、突然、世界を満たした。
「来るぞ!」
氷見の叫びが、上から落ちてくる。
床下の水面が、一瞬だけ静まり、次の瞬間には激しく揺れた。
見えない波が、狭い空間を駆け抜ける。
『──本日の欠席者は──』
声が、頭上と足元から同時に響いた。
体育館のスピーカから。
天井の配線から。
床下のケーブルから。
そして、澪たちの足下に広がる海水そのものから。
「律、手を引いて!」
百瀬の叫びが遠くに聞こえる。
律は反射的に手を引こうとした。
その瞬間、澪の指先が、濡れた金属に触れた。
じんっ……!
全身が、内側から白く爆ぜた。
目の前が真っ白になる。
耳鳴りが世界を塗りつぶす。
指先から腕へ、胸へ、頭へ。何かが一瞬で駆け抜けていく。
閃光のように、過去の記憶が流れ込んできた。
放送室。
まだ一階の窓の外に、普通の校庭が広がっていた頃。
「マイクは、こう。距離はこぶし一個分」
神野琴葉が、笑いながら澪の手を取る。
「声、いいんだからさ。もっと自信持って」
マイクに向かって、澪はたどたどしく言う。
『本日の放送を、始めます』
琴葉が拍手して笑う。
「うん、いいじゃん。“声は橋”だからさ。三崎の声なら、どこにだって届くよ」
『橋?』
「そう。向こう側とこっち側をつなぐもの。教室と体育館。教室と家。今と未来」
琴葉は、冗談とも本気ともつかない顔で続ける。
「もしさ、いつか私がいなくなったとしてもさ。三崎の声がマイク通れば、私、ちゃんと“出席”したことになるじゃん?」
『そんなの、ずるいです』
『じゃあ約束。私が向こうに行くとき、最後にこの言葉、三崎に託す。“声は橋──あなたが向こうへ行くための”』
言葉が、遠くで響いた気がした。
「……琴葉、先輩……」
名前を呼ぼうとした瞬間、痺れがぱたりと途切れた。
誰かが、ロープを一気に引き上げたのだろう。
澪の身体は、床下の水から引き剥がされるようにして、梯子の方へ引き戻される。
「澪!」
空の声が近くなる。
冷たい鉄の縁が背中に当たる。
「大丈夫か! しびれてない!?」
「……ちょっと、ビリビリするけど、生きてる」
澪は、かすれた声で答えた。
床下では、律がケーブルから手を離し、膝をついていた。
火花を散らした配電盤から、白い煙が細く立ち上っている。
『──欠席者は──』
声は、まだ続いていた。
◆
体育館の黒板の前では、別の“揺れ”が起きていた。
「おい、これ……」
氷見が指差した場所。
黒板の一角で、ひとつの名前の字が、じわじわとぼやけていく。
「また……?」
空が顔をしかめる。
だが、さっきまでのように粉が上から降ってくる気配はない。
まるで、誰かが目をこすっているうちに、じわじわと視界の端が薄れていくような消え方だ。
「誰の名前……?」
誰かが呟く。
そこには確かに、数分前まで、誰かの名前が書かれていた。
でも今は、チョークの輪郭が少し残っているだけで、字の形が掴めない。
「三年……? 二年……?」
「さっきまでここにいたよね? ほら、あの……あれ?」
記憶が、霧のように指の間から逃げていく。
『本日の欠席者は──』
天井のスピーカから、あの声が落ちてきた。
「一名」
その瞬間、体育館の空気が揺れた。
「誰なんだよ、その“一名”って!」
誰かが叫ぶ。
誰かが周囲を見回す。
誰かが隣の布団をめくる。
「さっきまで、ここにいた……よね?」
「誰が?」
「だから、その……」
言葉が続かない。
顔は思い出せない。
声も、仕草も、何もかも。
ただ、「ここに誰かがいた」という“空席の形”だけが、やけに鮮明だ。
「落ち着け!」
山城が声を張り上げる。
「今、誰かの名前を無理やり捻り出そうとするな。それこそ、あいつの思うつぼだ」
「あいつって、誰だよ!」
「放送だ」
山城の声は、いつになく荒かった。
「海だ。回線だ。何でもいい。とにかく、“思い出せない名前”を探してパニックになるのはやめろ」
そのとき、体育館の扉が開いた。
濡れた足音。
床に水が滴る音。
「……ただいま」
澪が、息を切らしながら立っていた。
髪は汗と湿気で肌に貼りつき、頬にはうっすらと塩の白い筋がついている。指先はまだ痺れていて、足元もふらつく。それでも、彼女の目はまっすぐだった。
「澪!」
空が駆け寄る。
「大丈夫か。さっき、床下で倒れたって……!」
「平気。ちょっと感電しただけ」
さらっと言うと、体育館のあちこちから「ちょっとじゃないだろ」という声が上がった。
でも、誰も本気で怒れなかった。澪がここにいる、それだけで、さっきまでのざわめきが少しだけ収まっていく。
「放送、まだ、続いてる?」
澪は天井を見上げた。
ザザザ……。
ノイズが、まだ耳の奥で渦巻いている。
「間に合うかもしれない」
律が、額の汗をぬぐいながら体育館に入ってきた。
顔は真っ青だが、目だけは冴えていた。
「配電盤、部分的に死んだけど、まだ非常回線は生きてる。……多分、あと一回だけ、声を乗せられる」
「じゃあ」
澪は、歩き出していた。
放送室ではない。床下のテープでもない。
体育館の隅にある、古いワイヤレスマイク。
避難訓練のときに使われていたのを、誰かがここまで持ってきていた。
「これ、まだ使える?」
「電池は替えた。さっきテストしたときは、ちゃんと音出た」
律が頷く。
「ただし、さっきの逆流のせいで、どことどう繋がってるかは分からない。体育館のスピーカだけかもしれないし、海を通じて全部のスピーカかもしれない」
「どっちでもいい」
澪は、マイクを握りしめた。
「私は、私の声で、私の名前を言う。それだけ」
山城が皆に合図を送る。
「静かにしろ。三崎が何か言う」
体育館のざわめきが、すっと引いた。
「……」
澪は、一度目を閉じた。
長良教頭の「点呼は守れ」という言葉。
琴葉の「声は橋」という笑い声。
青い栞。
名簿の端にこびりついた青い粉。
すべてを胸の中で一度かき混ぜてから、ゆっくりと息を吸った。
マイクのスイッチを入れる。
赤いランプが点る。
「──三崎澪、出席」
体育館の天井が、少しだけ震えた気がした。
スピーカから、自分の声が返ってくる。
「三崎澪、出席」
その響きは、思っていたよりもはっきりしていた。
床にたまった水面が、わずかにさざ波を立てる。
その半拍あと。
本日の欠席者は──一名。
あの声が、重なるように戻ってきた。
空気がねじれたような感覚。
澪の背筋に、冷たいものが走る。
今度こそ、「三崎」と呼ばれる覚悟をしていた。
だが、続く言葉は、なかった。
『欠席者は、一名』
すぐあとに続くはずの名前が、最後まで告げられない。
体育館の誰もが、息を止めて天井を見上げる。
「……今、止まった?」
空が、小声で聞いた。
「いや」
真帆が、黒板を見て固まる。
「消えてる」
黒板の一角。
さっきとは別の場所で、また一つ、名前がぼやけはじめていた。
今度は、最初から、その名前を読むのが難しかった。
筆跡は見覚えがあるのに、誰が書いたのか思い出せない。
「誰の名前?」
誰かが問う。
「……分かんない。さっきまで、ここにいた……はずなんだけど」
澪は、自分の胸に手を当てた。
さっき、はっきりと自分で言った。
「三崎澪、出席」と。
その感触は、ここに残っている。
でも今、あの声が告げた「欠席者一名」に、自分の名前は含まれていなかった。
代わりに。
誰か一人の名前が、ふっと人々の意識から外れていった。
「誰かが、代わりに“向こう側”へ行った……?」
澪の口から、そんな言葉が零れそうになったとき。
「もうやめろ」
山城が、はっきりと言った。
「今、無理に名前を掘り出そうとするな。形だけ思い出した名前を誰かに押し付ければ、それはそれで“新しい欠席”になる」
体育館は、ひどく静かになった。
ただ、誰も知らない「誰か」のために沈黙するしかない時間が、全員の上に重く乗る。
◆
朝。
窓の外の海は、ほんの少しだけ引いていた。
だが、それで安心できるほど、状況は甘くない。
「……四階の階段の一番下まで、水来てた」
空が報告する。
「三階の廊下、もう半分くらい浸かってる。屋上、マジで現実的な避難先になってきたな」
山城は無言でうなずいた。
「とりあえず今日一日は、三階と四階でやり過ごす。屋上に上がるルートも確認しておく。……その前に、名簿」
澪たちは、三階の仮図書室に集まった。
乾かした名簿のページをめくる。
青い薄紙を挟んだ紙は、昨日よりも少しだけ波打っている。
「あった」
真帆が指差した。
また一行、消えていた。
昨日までの欠損のすぐ近く。
名簿の心臓に近い場所。
「……」
誰も、その行に誰の名前があったのかを言えない。
もう、脳の方が先に諦めている。
ただ、その周囲には、これまでになく濃い「青」が残っていた。
「見える?」
真帆が、ライトを当てる。
剥がれた行の縁をぐるりと囲むように、青い粉の輪が残っている。青い薄紙の繊維と、チョークの粉が混ざったような、微妙な色。
「昨日より、濃い」
氷見が呟く。
「澪の声、黒板の声、ラミネートの膜……全部混ざったみたいだ」
「だからって、欠落を完全に止められたわけじゃない」
律の声は冷静だったが、悲観一色ではなかった。
「けど、“上書きが完全に無力じゃない”ってことも分かった。この輪、放っといたらきっと何も残らない。……でも今は、目に見える形で、何かが踏ん張ってる」
澪は、その青い輪に指先を近づけた。
触れるのが怖くて、ぎりぎりで止める。
「誰の名前かは思い出せない。でも、“誰かがここにいた”って形だけは、残ってる」
その形を、誰かが見ている限り。
その輪を、誰かが覚えている限り。
点呼は、完全に負けてはいないのかもしれない。
「屋上に移動する準備もしなきゃね」
つぐみが静かに言った。
「でも、どこにいても出席はとる。屋上でも、四階でも。……たとえ、名簿が全部海に沈んでも」
澪は、長良の言葉を思い出す。
点呼は、人を守るのか。
海を守るのか。
数字だけを守るのか。
「私は、人を守る点呼がいい」
誰にともなく呟く。
「海に持っていかれた名前の代わりに、ここにいる全員を、何度でも呼ぶ。……そのために声があるなら、まだ橋は、こっちのものだと思いたい」
窓の外で、波が校舎の壁を叩いた。
ビー玉は、今も廊下の海側へ向かって、少しずつ転がり続けている。
それでも、まだ完全には落ちていない。
あと一段、あと一階分。
詰められた余白の中で、澪たちは、次の点呼の言葉を探していた。




