第6話「声の橋」
テープレコーダは、拍子抜けするほどあっさりと動いた。
「……いくぞ」
早乙女律が、床下から持ち上げてきた小さな箱に、錆びた乾電池を押し込む。三階の仮図書室兼作戦本部。窓の外は相変わらずの鉛色の海で、潮の匂いがガラス越しに入り込んでくる。
カチ、と、小さなスイッチの音がした。
機械の中で、ギアが噛み合う微かな震え。
ぎゅる、とテープが巻き取られ、再生ヘッドがくぐもった音を立てる。
「……動いた」
矢代空が小声で言った。
それだけで、教室の空気が固く締まる。
続いて、声が出た。
『……本日の、出席者は──』
懐かしいような、遠いような、澄んだ女の声。
神野琴葉の声だ。
「やっぱり、先輩……」
澪の指が、膝の上でぎゅっと握りしめられる。
テープの中の琴葉は、落ち着いた調子で出席の数を読み上げていた。
『三年、三十二名』『二年、三十一名』『一年、三十四名』。
その合間に、小さくクスクスと笑う音や、誰かが紙をめくる音が混ざる。
「これ、出席報告か?」
山城拓が眉をひそめる。
「でも、名前じゃなくて“人数”だ」
『本日の欠席者は──ゼロです』
テープの中の琴葉が、そう結んだ瞬間、教室の誰かが息を呑んだ。
ゼロ。それは、今この島で一番口にしづらい数字だ。
再生ヘッドの摩擦音の奥で、ザザ……ザァ……というノイズが鳴った。
耳障りなだけの雑音のはずなのに、澪の耳には、それがはっきりと潮騒として聞こえる。
「海のノイズ、だよね」
百瀬真帆が囁く。
律はうなずき、テープレコーダの横に置いた簡易スピーカと、床に伸びる仮配線を示した。
「さっき床下で見た異常配線と同じパターンだ。非常回線が、床下で海水を導体にして閉回路を作ってる。つまり、海そのものが回路の一部になってる」
「海が……回路?」
空が、頭の上で手をぐるぐるさせる。
「だから、島じゅうの放送設備が“ひとつの喉”として束ねられてるんだと思う。体育館も教室も、放送室も、防災無線も。本来なら別々の系統のはずが、全部、同じ海水に触れてショートしてる」
律の言葉は淡々としているが、内容は十分に気味が悪い。
「ひとつの喉……。じゃあ、その喉で喋ってるのは、誰?」
久遠つぐみが問いかける。
律はテープレコーダを指差した。
「少なくとも、琴葉先輩の声が、パターンの元になってるのは間違いない。でも──」
そのときだった。
『本日の欠席者は──一名』
突然、音が変わった。
テープが一瞬巻き戻り、別の日の録音に飛んだような感覚。
教室の空気が、同時に凍りつく。
「……え?」
澪の背筋に冷たいものが走る。
今の一文だけ、明らかに、最近の放送と同じイントネーションだった。
これまで聞いてきた“あの声”と、まったく同じ。
しかも。
「今の……あたしの声に、似てなかった?」
思わず、そう零していた。
「え?」
空が振り返る。
澪は、自分の喉を手で押さえた。
放送委員としての発声練習。
「三崎です」「本日の放送を始めます」。
何度も何度も繰り返してきたイントネーション。その癖が、今の一文の中に、確かに混ざっていた。
『欠席者は──一名』
「……こっちも、聞いてみろ」
律が、テープを少し巻き戻し、再生を繰り返す。
同じ言葉が、少し違うリズムで何度も流れた。
最初は琴葉の声。
次は、別の女の子の声。
その次は、少しだけ低くて、まだ未熟なイントネーションの声。
「これ、澪だ」
空がぽつりと言った。
「ほら、一年のときに“放送ごっこ”してただろ。琴葉先輩の真似して、放送室で台本読んでたときの声。そのとき録ったやつじゃねえか?」
澪の喉が、ひゅっと狭くなる。
忘れていた記憶が、唐突に引きずり出された。
琴葉にマイクの前に立たされて、「ほら三崎、言ってみな」と笑われた日。
「出席は救い」「欠席は危険」と冗談半分で読み上げたあの日。
そのときの声が、テープの中に残っている。
それだけなら、ただの思い出だ。
だが、今夜の放送と同じ文句で、同じイントネーションで、録音されているとなると──。
「海が、回路になってるってことは」
律が、テープレコーダと天井のスピーカを交互に見ながら言う。
「ここにある古い音源が、海を通して今のスピーカに届く構造になってる。逆に言えば、今俺たちがここで話した声も、条件が揃えばどこかのスピーカから流れる可能性がある」
「つまり、喉はひとつで、声は混ざるってこと?」
真帆がノートに線を引きながらまとめる。
「誰の声でも、橋に乗れば“放送”になる。琴葉先輩の声、澪の声、もっと昔の誰かの声、今の誰かの声……全部、海に混ざってる」
海が、喉。
島じゅうのスピーカを貫く、一本の声の橋。
そこに乗る声を、誰が選んでいるのか。
神野琴葉なのか。
それとも、もっと別の“何か”なのか。
◆
百瀬真帆は、その日の昼、図書室の奥で古い新聞の束を引っ張り出していた。
「ねえ、ちょっとこれ見て」
三階の窓際の机に、黄ばんだ紙を広げる。
日付は、何十年も前。戦争の終わりと、その少し前後の記事だ。
『◯◯県・離島の学校 空襲下でも“出席”途絶えず』
活字の見出しを、氷見斎が読み上げる。
「空襲の日も、連絡の取れない日も、学校は無線で“本日の出席数”を毎日上へ報告した、って書いてある。『出席の数は安心の数。欠席は失いを認める数』……」
真帆は、指で記事の一節をなぞる。
「ほら、この島の名前、出てる。昔から、ここって“数”で生き死にを整えてきたんだよ」
「……嫌な伝統だな」
空が顔をしかめる。
「でも、ちょっと分かる」
つぐみが静かに言う。
「誰が生きてて、誰が行方不明で、誰が死んだか。分からないまま怯えてるより、“出席”って形に置き直した方が耐えられるって感覚。数字に変えれば、心が耐えられる」
「今だって、出席を黒板に書かせてるの、似たようなもんだしね」
真帆はため息をつく。
「人数や名前を数えるのって、本当は安心するための儀式なんだよ。……本当は、ね」
「でも今は、その数え方が、誰かを沈める方に働いてる」
澪は窓の外を見た。
波の高さが、昨日より少しだけ増している気がする。
大潮。氷見が予告したとおり、海はこれからさらに満ちてくる。
「だから、声を変えなきゃいけないんだと思う」
自分で口にして、胸がざわつく。
数え方を変える。
出席を、欠席を、呼び方から変える。
それが、橋に乗る声を奪い返す唯一の方法かもしれない。
◆
その夜、放送は少し違う顔で現れた。
体育館の黒板は、昼間のうちに新しい名前で埋め尽くされていた。
「三年」の欄、「二年」の欄、「一年」の欄。
白いチョークの線が、ぎっしりと並んでいる。
澪は、自分の名前の位置を確認する。
「二年 三崎 澪」。
隣には「矢代 空」、その下に「久遠 つぐみ」「百瀬 真帆」「氷見 斎」。
視界の端で、山城が片隅に「山城 拓」と書き足しているのが見えた。
「……名前、消えないといいけど」
誰かが呟いたそのとき。
ザザ、と天井スピーカが鳴った。
本日の欠席者は──一名。
いつもと同じ文句。
だが、そのあとの空気が、明らかにいつもと違った。
ノイズが、少し長く続く。
ザザ……ザァ……。
それが収まる直前、声が僅かに変調した。
『……一名。──三崎』
「え?」
耳が、現実を拒んだ。
はっきりと、「三崎」と聞こえた気がした。
けれど、次の瞬間にはもうノイズにかき消されている。
自分だけの幻聴かもしれない。そう思いたかった。
しかし、黒板の前に立っていた一年の男子が、顔を引きつらせて叫んだ。
「ここ……!」
指差された場所。
「二年 三崎 澪」と書かれたチョークの文字の上に、またしても粉雪のような白い粒子が舞い始めていた。
「うそ……」
澪の足元から、血の気が引いていく。
粉は、黒板の上部からじわじわと降り、澪の名前の輪郭だけをなぞるように崩していく。線が途切れ、字画が薄くなり、やがて、そこには白い輪郭だけがぼんやり残った。
「やめてよ!」
誰かが叫び、誰かが立ち上がる。
体育館の空気が、一瞬で熱に変わる。
「本当に“名指し”したじゃん……!」
「次、三崎が消えるってこと?」
「そんなの、おかしいだろ!」
言葉が飛ぶ。
矛先は、黒板に向いているようでいて、その実、澪に向かいかけている。
視線が刺さる。
「どうして」「何をした」と言われている気がして、息が詰まりそうになる。
「違う」
澪は、喉の奥からひねり出すように言った。
「名指ししたのは、あの声であって、あたしじゃない。あたしはずっとここにいたし、何も……」
「でも、澪ちゃん、鍵持ってるし」
ぽつりと誰かが言う。
「放送室の鍵、持ってるの三崎さんじゃん。あの声と一番近いのも、三崎さんの声なんでしょ?」
その一言で、空気がさらにざわりと波立つ。
「待てよ」
空が前に出た。
「落ち着けって。名前が黒板で薄くなっただけで、澪が犯人にされる筋合いないだろ」
「でも、実際に黒板の名前は消されてるし……!」
誰かが黒板を指差す。
そこには、輪郭だけになった「三崎」の文字。
まるで海に削られた岸壁のような形。
「名前は、人じゃない」
空の声が、体育館に響いた。
「チョークの線だ。粉だ。黒板の粉が水吸って落ちただけだ。澪は、粉じゃない。人だ。ここにいる」
言葉としては、少し変な比喩だ。
けれど、その一言には、確かな怒りと祈りが込められていた。
「粉なら、書き直せる。何度でも」
空はそう言って、黒板の前に歩み寄る。
まだ震えが残る指先で、白いチョークを握り直し、「三崎」と上からなぞった。
ぽたり。
そのとき、黒板の下を伝っていた白い筋から、水滴がひとつ落ちた。
床に染みを作り、じわじわと広がっていく。
「……群れは粉じゃない」
久遠つぐみが、小さく呟いた。
「一人が『粉だ』って言っても、みんなが一緒に粉になるわけじゃない。固まるほど、重くなる。重くなればなるほど、誰かを押し潰す」
群衆は、粉ではない。
粉は風で散るが、群れは熱で固まる。
澪は、自分の名前の上に載った新しい白い線を見つめながら、決意を固めた。
◆
「……行く」
体育館の隅で、鍵束を握りしめながら澪が言った。
「どこに」
律が問う。
「放送室。あの声に、上書きする。出席の数え方を、声の言葉から変える。……このまま黙ってたら、あたしたちは、あの声に“決められるだけ”になる」
山城は、しばらく黙って澪を見ていた。
やがて、うなずいた。
「行け。俺も一緒に行く」
「俺も」
空が即答する。
「名指しされたやつを、放っておけるかよ」
律も続く。
「電源系統、俺が見ておく。……ただし、あいつは俺たちの声も利用してくる。気をつけろ」
封鎖された放送室の扉の前。
南京錠に、澪の震える指が触れる。
「澪」
背後からつぐみが声を掛けた。
「もし、何かあっても、自分を責めすぎないで。今さら誰も完全な正解なんて出せない。だからせめて、自分の声だけは、自分で選んで」
「……うん」
澪は、小さく返事をした。
鍵を差し込み、錠前を外す。
針金をほどき、ベニヤ板をずらす。
扉のノブを回すと、固まっていた蝶番がきしりと鳴いた。
放送室の中は、湿っていた。
海の匂いと、古い機械の匂い。
ミキサの上には、青い栞が置かれている。
澪はマイクの前に立った。
コードを追い、非常回線のスイッチを探す。
律が隣で配線を確認し、小さくうなずいた。
「今、体育館のスピーカに直結されてる。海を介して、全部の喉がつながってる。……だからこそ、乗せるなら今だ」
澪は、マイクを握った。
冷たい金属の感触。
湿り気で、グリップが少し滑る。
「本当に、やるぞ?」
空が確認する。
澪はうなずいた。
スイッチを押す。
カチ、と小さな音。
放送ランプが、じんわりと赤く光る。
体育館では、皆が天井を見上げているだろう。
出席の儀式を待つ、あの静けさ。
その静けさに、今度は自分の声を落とす番だ。
澪は、深く息を吸った。
「本日の──」
自分の声が、マイクの中で震える。
喉が渇く。
舌がうまく動かない。
それでも、言葉を続ける。
「本日の出席者は──全員」
放送室の空気が、一瞬で変わった。
天井の蛍光灯が、じわりと揺れる。
床の下から、小さな振動が伝わってくる。
体育館の方角から、どよめきが返ってきた。
誰かが息を呑み、誰かが泣き出しそうな声を上げる気配が、海を通して逆流してくる。
「繰り返します。本日の出席者は──全員」
澪は、もう一度言った。
言いながら、全員の顔が浮かんだ。
黒板に名前を書いた、あの白い線一本一本。
消されかけた自分の名前。
名簿を乾かそうと必死になってくれた百瀬。
床下で箱を拾ってくれた空。
潮位ノートに波を記録し続けている氷見。
告発ボックスを抱えて、海に投げようとしたつぐみ。
責任という言葉に縛られながら、それでも皆を守ろうとする山城。
「全員、いる。ここに」
小さくそうつけ加えた瞬間だった。
海風が、吹き込んできた。
放送室の小さな窓が、ガタリと鳴り、隙間風が一気に吹き込む。
海の匂いを含んだ風が、ミキサ卓の上をなで、青い栞をめくった。
同じ頃、体育館でも風が吹いた。
誰かがあとでそう証言した。
閉め切ったはずの窓の隙間から、潮の風が吹き込み、天井のスピーカの紙を震わせた。
床にたまった水面に、小さなさざ波が立つ。
黒板の前を通る風が、チョークの粉を少しだけ散らす。
「……やったのか?」
律が呟いた。
「分からない。でも、何か、届いた」
澪の指は、まだマイクを握りしめている。
放送ランプは、赤く灯ったままだ。
そのとき、天井スピーカがまた鳴った。
ザザ……ザァ……。
本日の欠席者は──一名。
あの声だ。
琴葉の声でもあり、澪の声でもあり、それなのに誰の声でもないあの声。
海の奥から、重ねるように戻ってきた。
「ちょ、待て……」
空が唇を噛む。
『出席者は全員』という澪の言葉を、押し返すように。
海の喉が、元の文句を名乗り上げる。
「……片道、か」
律の呟きは、半分ため息だった。
「橋は、こっちからあっちには渡れるけど、あっちからこっちには戻せない。海が回路になってる限り、“元の信号”が強すぎる」
澪は、マイクから手を離した。
膝が、少し震えている。
上書きは、完全には成功しなかった。
あの声は、相変わらず「欠席者は一名」と告げる。
それでも。
「全然、届いてないってわけでもない」
つぐみの声が、廊下から聞こえた。
「体育館で、皆が泣いてた。『全員』って言葉を聞いて、少しだけ顔が変わってた。……その分だけでも、橋は片道じゃないのかもしれない」
澪は、深く深呼吸をした。
喉の奥に残る自分の声の余韻を、噛みしめる。
◆
翌朝。
名簿は、やはり一行を失っていた。
青い薄紙で補強したページの真ん中あたり。
紙が剥がれた痕が、新たにひとつ増えている。
「止められなかった、か」
山城が低く言う。
誰も反論できない。
放送は、澪の上書きにも関わらず、いつもどおり「欠席者は一名」と告げた。その結果がここにある。
ただ。
「……ちょっと、待って」
百瀬真帆が、ページの端に顔を近づけた。
「ここ、見て」
澪も顔を近づける。
剥がれた行の縁。
そこに、かすかに、青い粉のようなものが付着していた。
「チョーク?」
空が言う。
「いや、それだけじゃない。青い薄紙の繊維が、細かくなって混じってる。……昨日、澪が“全員”って言ったとき、黒板の粉、少し飛んだんだって」
氷見が思い出したように言った。
「風が吹いて、黒板の前で粉が舞った。あれ、多分、紙の方にも飛んでる」
「紙の縁だけ、少し色が違う」
真帆は、そっと指で撫でた。
「完全に剥がされてるわけじゃない。ぎりぎりのところで、“なにか”が残ってる感じがする。……昨日までの消え方と、ちょっと違う」
澪は、自分の喉の奥が熱くなるのを感じた。
「じゃあ、あたしの声、紙のどこかには届いてたってこと?」
「紙は、声も吸うから」
真帆が笑う。
「本だって、誰かの声を紙に閉じ込めたものだしね」
名簿の端にこびりついた、ほんの少しの青。
それは、橋の向こう側に落とした、小さな石ころの跡みたいだった。
出席は救い。
欠席は海。
声は橋。
橋は、きっと完全な片道ではない。
そう思えたことが、この朝、唯一の救いだった。
澪はそっと、青く染まった紙の縁に指を当てた。
そこにまだ、誰かの名前の形が、微かに残っているような気がした。




