第1話「点呼の海」
海が割れるような音だった。
その一撃が島全体を揺らし、三崎澪は机の脚につかまりながら天井のきしみ音を聞いていた。地震というより、島そのものが海底に沈もうとしている気配。窓の外では防波堤が波に噛まれ、桟橋が折れ、海水が噴き上がる白い霧になって沈んでいった。
避難訓練の放送が鳴ったのは、そのほんの一分前だ。訓練はいつも形ばかりで、生徒たちは面倒だと文句を言っていた。だが今日、あの号令は命綱だった。非常階段を駆け下り、校庭の亀裂を避け、体育館へ向かう生徒たちの顔は、訓練のときとはまるで違っていた。
体育館の非常灯が緑色の輪郭を床に落とす。
携帯は圏外。発電機は燃料切れ寸前。
百名あまりの生徒と教職員が、柵で仕切られた体育館内に詰め込まれている。
そんな混乱の中、澪はひとつの異常に気づいた。
放送室の鍵束がない。
教務室の施錠棚に入っているはずのものだ。生徒指導の鍵、音響室の鍵、そしてあの放送室の鍵まで、まとめてひとつの金属リングに通されている。
「先生、鍵……」
そのとき運ばれてきた担架の上で、長良教頭がかすれ声で澪を呼んだ。彼の額は血で濡れ、呼吸は浅い。だが、その掌には冷たい金属の重み。
——鍵束。
「鍵は……お前に……預けたはず、だ……」
澪は言葉を失い、手のひらにある鍵束を見つめる。
どうして? いつ渡された?
地震のあと、教頭と会話した覚えすらない。
記憶が丸ごと一片、削り取られている。
胸の奥にざらつく違和感が沈殿する。
◆
夜。
ブルーシートの海が体育館いっぱいに広がる。班ごとに固まり、毛布をかぶり、ガスマットを丸めて枕にする。強い余震で天井の骨組みが鳴るたび、誰かが小さく叫ぶ。
幼なじみの矢代空が横からひょいと顔を出した。
「なあ澪。明日、授業ないの、最高じゃない?」
場の空気を軽くしようとするいつもの悪ふざけだが、今日は少し無理があった。空の笑顔の裏に、震えた呼吸が隠れているのがわかった。
「空、あんま騒ぐなよ……」
「うん。わかってるけどさ」
その隣では、早乙女律が携帯バッテリやポータブル電源を集め、最低限の照明を確保しようと奮闘していた。
「みんな、ここに並べて。順番に充電するから」
整った顔立ちに似合わず、律の声ははっきりしていて頼もしい。誰よりも早く冷静さを取り戻し、照明計画まで立てている。
体育館の中央では、三年生の山城拓が濡れて波打った名簿を持ち、出席確認を始めていた。
「混乱を防ぐためだ」
彼の独特の落ち着きは、いまの状況にこそ必要だった。
だが、名簿の最後尾にある一つの名前が澪の心を刺す。
——神野琴葉。
かつての放送委員長で、澪が一年の頃ずっと背中を追い続けた先輩。
地震の直後の混乱で姿を見失ったまま、まだ戻ってきていない。
◆
零時過ぎ。
波音が体育館の外から響く。島全体が呼吸を乱しているようだった。そのざわめきを切り裂くように、校内放送が流れた。
本日の欠席者は、一名。
ざらり、と体育館の空気が凍りつく。
誰もが顔を上げた。
具体名は告げられない。だが声の主は明らかに、今日のために用意されたような、澄んだ女性の声だった。プロの声優か、あるいは精巧な合成音かと思うほど滑らかで、ミキサのコンデンサマイクを通したような艶。
「放送室だ……」律が呟いた。
山城と澪、律の三人は走り、放送室へ向かう。
廊下は懐中電灯の光で細く照らされ、壁の災害標識が緑に光る。
放送室の扉を押し開けると、空気はひんやりと落ちていた。
ブレーカーは落ちている。
ミキサの電源ランプだけがかすかに点り、VUメータがゆっくりとゼロに戻っていく。
人影はない。
窓は内側から施錠されている。
卓上には薄い埃の線が走り、その真ん中に……ひと粒の海水。
澪は息を呑んだ。
どうやって海水がここに?
床に濡れ跡はなく、窓も壁も乾いている。ただ一滴だけ、誰かの涙のように。
◆
朝。
避難者全員を前に、山城が再び名簿を開いた。だが、次の瞬間。
「……一行、ない」
眉間に深い皺を刻みながら呟いた。
三年の名簿ページ。紙の罫線一行分だけ繊維が削れ、紙が薄く凹み、もともとそこに書かれていた文字が、まるで“剥ぎ取られた”かのように消えている。
「誰の名前だった?」
律が言う。
しかし誰も思い出せない。
確かにいたはずの誰かを、思い出せない。
空席がひとつあることを、「最初からそうだった」かのように受け入れてしまう怖さ。
澪はページの端を指でなぞり、“剥がされた層”の痕跡を探る。
——おかしい。
その名前を書いていたときの、あの独特の字の形を、澪は確かに覚えていたはずなのに。
保健室から久遠つぐみがやってきて、小さく言った。
「誰かが、大事な名前を捨てたのよ。きっと」
彼女の声は震えていた。
山城は名簿管理を強化し、放送室は封鎖するよう指示を出した。夜間巡回も増やす。
だが、夜は必ず来る。
潮位は階段の五段目に達し、理科室の標本には白い塩が噴き出し始めた。
◆
その日の夕方、澪は探し物の途中で体育館の倉庫を開き、古い学籍簿に挟まれていた一本の青い栞を見つけた。湿気を吸った紙は重く、墨の染みが波紋のように広がっている。
そこには、たった一文の筆跡。
——出席は救い。
筆跡は細く、癖のある角度。
澪は、喉の奥が詰まるような感覚に襲われた。
その字は、神野琴葉のものに似ていた。
海のざわめきが、体育館の壁の向こうで高くなる。
夜はまた近づいてくる。
そしてきっと、今夜も“誰か”が欠席になる。
澪は青い栞を胸に抱き、ゆっくりと目を閉じた。
それは、海に浮かぶ一点の灯りのように、静かに彼女を誘っていた。




