Ⅳ-3 薬室
南下を開始して五日目の朝。アブトマットの軍勢がシェリダー川の双子城を視界に捉えたのは、まだ霧の残る早暁のことだった。
ヘッケラー城とコッホ城。シェリダー川を挟んで南北に向かい合うその二つの城郭は、遠目には「城壁の重なり」にしか見えなかった。
近づくにつれ、その意味が分かってくる。城門から城に向かって、街そのものが階段状に積み上がっているのだ。最下層の城壁を突破しても、その先には民家と倉庫が密集した区画があり、そこを抜ければ次の石壁、また次の石壁——城にたどり着くまでに、何十もの「壁」を越えなければならない構造になっていた。街が城壁であり、城壁が街であるような、異様な要塞都市。
アブトマットは丘の上から、黒い法衣に冷たい朝風を受けながら、その光景を長い時間、黙って眺めていた。
「……閣下。使者が戻りました」
傍らに控えていたペッター・モーゼルの声に、アブトマットは視線を動かさないまま応じた。
「ゲドラはなんと言っていた」
「……使者は城門の前で馬から引きずり下ろされ、靴を脱がされた上で、徒歩で返されました。言葉は一言——『飢えた犬に与える飯はない』と」
アブトマットは、それを聞いてもなお、表情を動かさなかった。沈黙の間、その瞳には侮辱への怒りではなく、ただ冷たい計算だけが宿っていた。
侮辱として受け取るには、あまりにも正確な評価だった。
だが——と、アブトマットの胸の奥で何かが軋む。自分たちは「飢えた犬」ではない。現国王ウィリアム・フォン・バーテルバーグを擁する、正統な王政府だ。ニニオの臨時政府こそが、王の不在を利用した簒奪者の側にいる。その大義名分を掲げていながら、城一つ、商人一人を動かせない。その事実が、どんな侮辱よりも重く、内臓に沈んでいた。
「……ゲドラ・ザイデル。なるほど、商人らしい男だ」
彼は再び城下に目を向ける。
この構造は、事前の調査で把握していた。城門から城に向かって街が階段状に積み上がり、一段破られるたびに次の石積みが新たな城壁となる。正面からの攻略など、最初から選択肢にない。兵力があっても、飢えていなくても、あの城は力押しでは落とせない。
問題は別のところにあった。
一段。また一段。あの石積みは、外から崩すには膨大な時間と消耗が必要だ。だが内側から崩すなら話が違う。通路を塞ぐ石積みも、積み上げる前に潜り込んでいた者が内側から押し崩せば、一段が瞬く間に通路に変わる。少数の手練れを事前に城下へ潜り込ませ、住民に紛れて各区画に散らす。合図と同時に石積みを内側から崩し、本隊が一気に押し込む。
理屈の上では成立する。だが——アブトマットは眉を寄せた。城下の住人はすでに避難している。人の気配がない。見知らぬ者が紛れ込めば、すぐに察知される。内部に協力者でもいない限り、事前潜入は机上の空論だ。
アブトマットは踵を返した。
気持ちとしては攻めたかった。あの城を力で踏み潰し、飢えた兵に食わせてやりたかった。兵たちの腹が鳴る音が夜ごとに大きくなっている。それを聞くたびに、焦燥が内臓を焦がす。だが感情で軍を動かすのは、かつてのクーガーと同じ末路だ。
それだけは、何としても避けなければならなかった。
「……引き上げる。野営地に戻れ」
ペッターは何かを言いかけたが、黙って頭を下げた。アブトマットの背後で、兵たちが重い足音を立てて撤収し始める。その足音に、空腹の響きが混じっていた。
†
本陣の天幕に戻ると、見慣れない人間が縛られて地面に座っていた。
年は二十そこそこか。身なりは商人風だが、高価な素材と安物が無頓着に混在しており、どこか胡散臭い。外套の裾は上質な絹だが、その下に覗く靴は底が擦り切れている。腰の革袋は金で膨らんでいるくせに、帯は市場で二束三文で売っていそうな代物だ。金回りが良いのか悪いのか、あるいはそういった区別に頓着しないのか、どれとも判断がつかない。
縛られているにもかかわらず、その目には恐怖の色がなく、むしろ好奇心に近い光が宿っていた。珍しいものを見るような目で、アブトマットをじろじろと眺めている。
「食糧を売りに来た商人と名乗り、野営地に近づいてきたところを。怪しい動きをしていたため、連れてまいりました」
報告する兵に、アブトマットは男を一瞥した。
「名は」
「チャンバーと申します。商人です、閣下」
臆した様子もなく、縛られたまま軽い口調で答える。アブトマットは無言でその顔を見つめた。兵士であれば今頃、視線だけで竦んでいるはずだ。だがこの男は、品定めされる家畜のように落ち着き払っている。
「……何者だ」
「ですから、商人です。情報を売り買いする商人。……ただ、今日は売りに来たわけじゃなくて」
チャンバーは縛られた両手を持ち上げ、首を傾けた。まるで、縄など最初からなかったかのような自然な仕草だった。
「閣下に、会わせたい人がいるんですよ。川の向こうに。シェリダー川を南へ渡った先に」
アブトマットの目が細くなる。
「……南岸に、何がある」
「閣下の力を必要としている方がいる。……その方も、今の臨時政府とは折り合いが悪くてね。閣下と利害が一致すると踏んでいるようです」
臨時政府、という言葉にアブトマットの目が僅かに動く。本来ならば、臨時政府と折り合いが悪いのは自分たちの方ではない。現国王を奉じる自分たちこそが正規の政府であり、ニニオたちこそが非正規の存在であるはずだ。だが現実は逆転している。その歪みを、チャンバーという男はどこまで理解した上で話しているのか。
「……貴様が案内するというのか」
「ええ。渡し船の手配もこちらでやります。閣下と、お連れの方、十名ほどであれば」
チャンバーはにやりと笑った。
「ただ——タダじゃないですよ。当然ですが」
アブトマットは少しの間、黙ってその男を見下ろした。
罠である可能性は十分にある。だが、選択肢というものは、なくなって初めてその重さが分かる。今の自分に、他の手がどれほど残っているか。
「……その人物の名を言え」
「それは会ってからのお楽しみということで。……ただ一つだけ言えるのは、閣下が今一番必要としているものを、その方は持っている」
チャンバーは目を細め、あっけらかんと言い放った。
「食糧ですよ、閣下。たんまりと」
†
その夜、アブトマットは決断した。
軍を解体する。
八万という数は、もはや武器ではなく重荷だった。食わせられない、動かせない、隠せない。この数を抱えたまま動けば、どこへ行っても尻尾を掴まれる。ならば捨てる——捨てるのではなく、散らす。
「精鋭二百を選べ。平民の服に着替えさせ、城下に紛れ込ませる。武器は隠し持つ程度に留め、三人以上で固まって動くな」
ペッターが静かに頷いた。
「残りは?」
「三手に分けて別ルートへ散らせ。王都方向は避ける。南部へ、東へ、山へ——ばらばらに動けば追いきれん。合流地点は追って知らせる」
「……閣下はどうなさいます」
「私も城下に潜る。渡河の準備が整い次第、川を渡る」
ペッターはしばらく黙っていた。
「城下の精鋭の指揮は、私が取ります」
「ああ。頼む」
アブトマットはそこで一度言葉を切り、チャンバーの方を見た。男はすでに縄を解かれ、地図を広げて船着き場の位置を確かめている。その横顔に、仕事に集中する者の真剣さがあった。
「チャンバー」
「はい、閣下」
「討伐軍の動きを把握しておけ。あの連中がいつここに到着するか、常に耳に入れてくれ」
チャンバーは地図から顔を上げ、軽く肩をすくめた。
「そのくらいは込みですよ。追加料金なしで」




