Ⅲ-43 敗走
カイツール坂。かつて「白銀の王」が凱旋を夢見たその地は、いまや歴史上類を見ない巨大な掃き溜めと化していた。
「――急げ!立ち止まるな!王国軍が追い付いてくるぞ!」
霧の立ち込める切通しの脇、断崖を縫うような獣道を、一隊の軍勢が這いずるように進んでいた。コルト家、スミス家、そしてウェッソン家。カイツールで王国軍に文字通り磨り潰されたベルテルブルグ軍の成れの果てである。
彼らは、クーガー・ベルテルブルグが泥の中で組み伏せられたあの瞬間、迷うことなく背を向けた。主君を助けるという選択肢は、彼らの中に一分も存在しなかった。
「……クソッ、泥が、泥が足に纏わりつきやがる!」
ダニエル・ウェッソンは泥まみれの軍靴を引きずりながら、背後の切通しを振り返り、呪わしげに唾を吐いた。かつては気品を保っていたその顔は、いまや敗北の屈辱と憎悪に歪んでいる。バイカル家は全滅し、マカロフは死に、グラッチも捕らえられた。自分たちも「王都の敵」として、処刑されるのは日を見るより明らかだった。
「ダニエル殿、無駄口を叩く暇があるなら足を動かせ。サンダラー殿はすでに行列の先頭だ」
スミス家の生き残りが、冷淡に言い放つ。三家の間にあった偽りの連帯感は、もはや影も形もない。そこにあるのは、誰が先に南部へ辿り着けるかという、醜い生存競争だけであった。
彼らが選んだ道は北ではなく、険峻な山々を越えて南壁へと至る隠れ道であった。兵士たちの足取りは重い。一歩進むごとに脱落した兵士が泥の中に沈み、それを顧みる者など一人もいない。
「……サンダラー殿。本当に、あそこへ行くつもりか」
山道の頂で、ダニエルがようやく先頭のサンダラー・コルトに追いついた。
サンダラーは泥に汚れたマントを翻して南の地平を見つめていた。その先には、王国南部の防衛拠点でありながら、いまや「逆賊」の手によって陥落した城郭――ゾーン城が聳えていた。
「他にどこへ行くというのだ。我らは王都に刃を向けた。今さらニニオに首を差し出しても、待っているのは断頭台だけだ」
サンダラーの声は、絶望を通り越して、ある種の開き直りに満ちていた。
「……アブトマット。奴は現王ウィリアムをその手に持っている。我々が生き延びるための唯一のカードは、あいつだ。……奴が『本物』であろうと『偽物』であろうと最早関係ない。我々はそれに縋るしかないのだ」
「……逆賊から逆賊への鞍替えか。救えないな、我らも」
「ふん。死体で橋を作ったクーガーとどちらがマシかという議論に、今更意味があると思うか?」
数日間の強行軍の果て。三家の敗残兵――わずか数千にまで減り、幽霊のようになった彼らの前に、ゾーン城の巨大な影が姿を現した。城壁には、王国軍の旗が逆さまに掲げられ、その周囲には不気味なほどの静寂が漂っている。
「――止まれ! 何者だ!」
城門から現れたのは、王国の制服を纏いながらも、その瞳から生気が失われた兵士たち。そして、その背後から、黒い法衣を纏った一人の男が、滑るような足取りで現れた。
アブトマット。
ウィリアム王を拉致し、南部の防衛線を崩壊させた張本人。彼の周囲には、目に見えるほどの「冷気」が漂っていた。
「……アブトマットか」
サンダラー・コルトが馬を降り、屈辱に震えながら地面に膝を突いた。それに続くように、ダニエルも、スミスも、泥まみれの身体を投げ出した。
「余計な事は言いますまい。どうか、我らを受け入れていただきたい」
アブトマットは、跪く三家の当主たちを、まるで見本市の家畜を見るような、無機質な視線で見下ろした。
「……ベルテルブルグは、負けたか」
アブトマットの声は、感情の起伏が一切ない、平坦な響きであった。
「……無能だな。十万もの兵士を無駄遣いしおって、まずもって王都へ攻め上ろうと考えるのが間違いだ。あの一族には、最初から勝ち筋が見えていなかったのだろう」
「閣下、どうか城内へ……」
ダニエルが顔を上げた。
「まぁいい、貴殿らを迎え入れよう。数にして五千名くらいか」
サンダラーがすかさず声を上げた。
「我らは先遣。後にも兵が続きます。総勢三万程度にはなるかと」
「うむ。我が陣営も日に日に細っていたところだ。泥舟だろうと縋りたいのなら受け入れよう」
城門が開かれた。
カイツールで捕らえられた者達は残らず処刑されるだろう。生き延びる可能性が僅かでもあるのであれば、臨時政府側よりも同じ逆賊であり、兵力を欲しているであろうアブトマットに付く。かつて名門と呼ばれた三家の姑息さを感じ取りながらも、アブトマットはやせ細っていく自陣営の為に、この申し出を飲まざるを得なかった。
「これでは完全に烏合の衆だな……。統率が取りづらくなる……」
ため息混じりのアブトマットの囁きを聞くものは、もういない。
後の世に『簒奪戦争』と呼ばれるカイツール坂の戦いが臨時政府側の勝利で幕切れし、ベルテルブルグ家の不当性と首謀者クーガーの悪名が王国内に響き渡った頃、人類を魔王軍から守るべき巨大な盾のすぐ側で、王国を裏切った者たちの歪な「再編」が始まった。
だが、その再編は希望とは程遠いものだった。
王都による交易制限を掛けられたゾーン城は、すでに飢えつつあったのだ。コルト家を初めとする三家が持ち込んだ兵力を合わせると、城内の軍勢は八万弱。その巨大な胃袋を支えるだけの食糧は、すでに底が見えていた。
その窮状は、影の中に潜む『蛇』を通じて、大僧正カルカノ、そして臨時政府の耳に刻一刻と届けられている。
腹を空かせた八万の軍勢。逃げ場を失い、食糧を失ったアブトマットが、生き残るために次に何をすべきか。
「……死にたくなければ、奪うしかないだろう?」
王都は確信していた。
アブトマットが動き出すのは、もう時間の問題であることを。
【 次回更新予定 】 4月29日(水) 20:50
毎週 水・金 の週2回更新
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