Ⅲ-39 嚥下
カイツール坂という巨大な喉笛は、ついに「異物」を飲み込もうとして、その内壁を激しく悶えさせていた。
雨は止んでいたが、湿った空気は粘り気を帯び、兵士たちの肺に重くのしかかる。霧の向こう側から聞こえてくるのは、もはや軍勢の足音ではなかった。それは、巨大な肉の塊が、無理やり細い管の中を押し通される時のような、湿った、不快な「音」であった。
「……あいつら、本当にやりやがったな」
第二土嚢帯、最前線の迷宮の只中。ショーンベルガーは、自らの槍の柄を、指が白くなるほどに強く握りしめた。
彼の視線の先。第一関門跡地から第二土嚢帯へと続く、底知れぬ泥の沼。そこには今、異様な「道」が形成されていた。
それは、石でも木材でもない。
昨夜のうちに病没し、あるいは動けぬとして切り捨てられた、ベルテルブルグ軍兵士たちの「肉」であった。数千という遺体が泥の中に投げ込まれ、その上にさらに泥が、そして新たな死体が積み上げられる。
クーガーの非道な命令は、実行された。
ベルテルブルグ軍の兵たちは、自らの戦友だったものを踏みつけ、その柔らかい感触に吐き気を催しながらも、泥の地獄を乗り越えて王国軍の喉元へと迫っていた。
そしてその「肉の橋」の先頭を、黒い影が爆走していた。
「――グ、ル、ゥ、ァァァァァァァ!!」
泥と血を撒き散らしながら、四つん這いに近い姿勢で迫りくる影。マカロフ・バイカルである。
彼はもはや剣を構えてすらいなかった。折れた剣を短槍のように逆手に持ち、空いた左手で泥を、あるいは転がっている肉を掴んで推進力に変えている。
その速度は、泥濘の中にあって異常だった。彼を狙うゾロターンの弩も、この霧と変則的な動きの前には狙いを定めることができない。
「ゾロターン! 撃て! あいつを、あの化け物を止めるんだ!」
「駄目だ、兄上! 狙いが追いつかない! ――あ、あいつ、土嚢を登って……!」
衝撃が走った。
マカロフは、正面からぶつかるのではなく、第二土嚢帯の入り口にある高さ二メートルの壁を、その垂直な面を泥まみれの爪で掴み、一気に跳ね上がったのである。
土嚢の天辺に立ったマカロフの姿が、逆光の中に黒いシルエットとして浮かび上がる。
その口から、泥混じりの黒い唾液が垂れ、眼窩の中の燐光が、眼下のショーンベルガーを捉えた。
「――殺ス。王都、殺ス。……オ前、……殺、スッ!!」
マカロフは叫ぶなり、土嚢の上からショーンベルガーへと飛びかかった。
ショーンベルガーは、とっさに槍を突き出す。かつてのライバル、マカロフ・バイカルの心臓を、寸分違わず貫くはずの、魂を込めた一突き。
だが、マカロフはその槍の穂先を、自らの左肩で強引に受け止めた。
肉が裂ける音。骨が砕ける音。だがマカロフは表情一つ変えず、槍を自身の肉に深く沈めさせることで、ショーンベルガーとの距離をゼロにした。
「――ッ!? 正気か、マカロフ!」
ショーンベルガーの驚愕の声を、マカロフの頭突きが遮った。
鈍い衝撃。マカロフの、泥で固まった額がショーンベルガーの兜を叩き割り、その鼻腔に死臭と泥の臭いを叩き込む。
マカロフの突入を合図に、死体の上を歩いてきたベルテルブルグ軍の「狂軍」が、決壊した第二土嚢帯へと雪崩れ込んだ。
彼らは人間としての恐怖を、マカロフという「具現化した狂気」に預けていた。仲間を踏みつけ、泥を啜り、ただ「前へ」というクーガーの呪縛に従うだけの肉の塊。
「――押し返せッ! 栓を詰めろ! フランキ、どこだ!!」
ショーンベルガーが、マカロフの執拗な組み付きを振り払いながら叫ぶ。
そこへ、第二の「栓」として温存されていたフランキの中央予備隊が、泥を撥ね上げて突入した。
「……これほどまでに醜いものは、近衛の剣を汚すにふさわしくない」
フランキの重厚な長剣が、マカロフに続いて土嚢を越えてきた敵兵の胴を、鎧ごと真っ二つに断ち切った。
だが、切られた敵兵さえも、自らの内臓を泥の中に撒き散らしながら、フランキの脚に縋り付こうとした。
「――生ケ……。王都、ニ、生ケ……ッ!」
病と狂気に冒された兵士の力は、死の間際にあってなお異常だった。
第二土嚢帯は、今や巨大な「胃袋」の内部と化していた。
入り込んだベルテルブルグ軍という肉を、ショーンベルガーの槍とフランキの剣という「歯」が噛み砕こうとする。だが、飲み込まれる肉の量があまりにも多すぎた。
死体で埋められた通路。足元の安定を失った王国軍は、これまでのように秩序ある交代を行うことができない。
カールグスタフの「算式」が、物理的な死体の質量によって、ついに狂い始めていた。
「……ボーチャード様。計算外です。……敵は、軍であることを完全に放棄しました」
第四の指揮所。カールグスタフが、初めてその眼鏡の奥に、焦燥に似た光を宿した。
「……彼らは勝利しようとしているのではない。ただ、この坂を自らの死体で平坦な道に変えようとしている。……このままでは、第二土嚢帯が物理的に『埋まります』」
ボーチャードは、その言葉を静かに受け止めた。
彼の視線の先。第二土嚢帯の迷宮の中で、マカロフという黒い影が、ショーンベルガーとフランキの二人を同時に相手取り、狂乱の舞を演じている。
その光景は、戦いというよりは、巨大な「泥の化け物」が王国の盾を少しずつ削り取っているかのようであった。
「……俺が行きます、オリバー卿」
傍らに立つエンフィールドが、短槍の柄を軋ませた。
彼の瞳は、かつてピダーセンの館で下男として怯えていた少年のものではない。泥の中に沈められ、それでも王の血を誇り、友と民のために牙を剥く、新たな「支配者」のそれであった。
「エンフィールド様、……あいつは、マカロフはもはや人間ではありません」
「分かっています。……だから、俺が『終わらせる』」
エンフィールドは、第四の線を飛び出した。
彼は正面からマカロフへ向かうのではなく、迷路と化した土嚢の「壁の上」を走った。
不安定な足場。だが、下男として屋根の上や狭い梁を走り回っていた彼にとって、それはむしろ有利な地形であった。
エンフィールドは、フランキの剣を強引に受け流し、ショーンベルガーに噛みつこうとしていたマカロフの「真上」に到達した。
「――マカロフ・バイカルッ!!」
その咆哮と共に、エンフィールドは垂直に落下した。
短槍が、雨上がりの湿った空気を切り裂き、マカロフの背後、首の付け根へと一直線に走る。
バリスタの如き、直線的な刺突。
「――ガ、ァ、……ァ……ッ!?」
マカロフの動きが、一瞬だけ止まった。
短槍の穂先が、泥と肉を突き抜け、脊髄の隙間を完璧に捉えていた。
マカロフは、自らの身体を突き抜けた槍の感触に、数日ぶりに「冷気」ではない「痛み」という人間的な感覚を取り戻したかのように、その燐光を揺らした。
泥まみれの顔が、ゆっくりと、真上にいるエンフィールドを見上げる。
「……オ、……マエ……。……王、……カ……?」
「……いいや。俺は、お前が飲み込もうとしたこの坂の、『栓』だ」
エンフィールドは短槍を力任せに捻り、さらに深く押し込んだ。
マカロフの口から、どろりとした黒い泥が大量に溢れ出す。それは彼が四日間、泥の底で生存するために啜り続けてきた、怨念の残り香であった。
マカロフの絶叫が、カイツール坂の空を貫いた。
それは、ベルテルブルグ軍という巨大な怪物が、最後に上げた断末魔のようであった。
先頭に立つ「狂犬」が崩れ落ちたことで、背後に続いていたベルテルブルグ軍の兵たちの動きが、目に見えて鈍った。彼らを突き動かしていたのは、マカロフという異常な熱量への心酔と恐怖だったからだ。
「――今だ! 押し返せ!!」
ショーンベルガーとフランキが、好機を逃さず吠えた。
マカロフという異物を吐き出そうとするかのように、第二土嚢帯の守備兵たちが、一斉に逆襲に転じる。
死体の橋を渡って流れ込んできた敵兵たちは、自らが作った「肉の壁」に阻まれ、今度は自分たちがその橋の下へと突き落とされていく。
カイツール坂は、ついに「嚥下」を止めた。
喉の奥に刺さった一本の槍――エンフィールドの短槍が、マカロフという毒を封じ込め、怪物の食道を物理的に塞ぎ止めたのである。
七日目の夕刻。
泥と肉で埋まった第二土嚢帯の中で、エンフィールドは、動かなくなったマカロフの骸からゆっくりと槍を引き抜いた。
その横顔には、初陣の勝利に酔うような甘さはなかった。
「……終わったのか、エンフィールド様」
近づいてきたショーンベルガーが、血まみれの顔で問う。
「……いいえ。あそこに、まだ『元凶』がいます」
エンフィールドは、坂の下。
依然として白銀の甲冑を輝かせ、自軍の壊滅を冷徹に見つめている男、クーガーの本陣を見据えた。
七日目の日が落ちる。
カイツール坂は、今や巨大な肉の墓場であったが、その深淵で、王国の正統なる牙は、かつてないほど鋭く研ぎ澄まされていた。
【 次回更新予定 】 4月15日(水) 20:50
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