Ⅲ-38 断絶
七日目の朝、カイツール坂はもはや「戦場」という言葉では記述不可能な、名もなき地獄へと変貌していた。
空を覆う厚い雲は、陽光を拒む重い蓋となり、滞留する霧には死臭とアンモニア臭、そして内臓が腐りゆく甘ったるい毒気が凝縮されている。五日間に及ぶ豪雨がようやく小康状態を得たことで、皮肉にも、それまで水に流されていた「不浄」がすべて泥の中に定着し、発酵を始めていたのである。
坂の下、ベルテルブルグ軍の野営地はカールグスタフの言う通り、屠殺場と化していた。
「――助けてくれ。腹が、腹が焼ける」
泥の中にうずくまり、自身の排泄物と戦友の血が混じった汚水に顔を浸したまま動かぬ兵士。赤痢の激痛に耐えかね、己の腹をナイフで掻き毟る狂乱。軍紀は霧散し、十万という軍勢を繋ぎ止めていたのは、もはや「ベルテルブルグの光」への忠誠ではなく、動けば死ぬ、留まっても死ぬという、逃げ場のない動物的な絶望だけであった。
その絶望の震源地は、第一関門の跡地――かつて破城槌が閂を砕き、バリスタが胸壁を消し飛ばした、あの「穴」の周辺であった。
そこは今、激しい砲撃と豪雨によって地形が完全に崩壊し、数百の兵士と軍馬、そして粉砕された木材が入り混じった「泥の深淵」と化している。
四日前。マカロフ・バイカルが、王国軍の落石によって泥の中に沈んだのは、まさにこの場所であった。
泥の底、陽光も届かぬ三メートルの暗闇。そこには、物理的な窒息と、冷気、そして圧倒的な「重圧」が支配する世界があった。
常人であれば、数分と持たずに肺を泥で満たし、意識を失うはずの場所。だが、マカロフ・バイカルという男を構成していたのは、人間としての生存本能ではなく、一族を蔑み、王国を憎み、自らを「狂犬」としてのみ定義することでしか維持できない、あまりにも歪んだ執念であった。
彼は泥の中で生きていた。
瓦礫が偶然にも作り出した僅かな隙間。死体と死体が重なり合い、その間に溜まった僅かな空気を、マカロフは自身の肺から漏れる気泡さえも啜り取るようにして呼吸した。
体温は奪われ、四肢の感覚はとうに消えていた。皮膚は汚水に浸かり続けてふやけ、筋肉は冷気で凝固し、心臓の鼓動は極限まで遅滞している。
だが、彼の脳裏では、ただ一つの光景だけが鮮明に燃え盛っていた。
――自分をこの地獄へと置き去りにした、白銀の主君。
マカロフは、泥の中に混じる他者の血を啜り、腐敗した馬の肉を指先で探り当てては口に運び、ただ心臓を動かすためだけの「燃料」とした。
彼は人間であることをやめた。
泥の中で蠢く虫のように。あるいは死体に群がる地を這う獣のように。
彼は三日間をかけて、泥を掘り、骨を退け、他者の死骸を足場にして、垂直な「地獄の壁」を這い上がり続けたのである。
同じ頃、ベルテルブルグ軍本陣の天幕では、決定的な「断絶」の瞬間が訪れていた。
「……閣下、これ以上の進軍は全滅を意味します」
サンダラー・コルトが、その誇り高き髭を泥で汚したまま、絞り出すような声で言った。
彼の背後には、ダニエル・ウェッソンとスミス家の残党たちが、幽霊のような顔で立ち並んでいる。彼らの軍勢は、戦闘による死者よりも、病と飢えによる脱落者の方が多くなっていた。
「食糧の供給は止まり、兵たちの間では疫病が蔓延しています。……もはや、戦うための足場さえありません。一面が泥と死体なのです」
クーガーは、手にした美しい銀の杯を弄びながら、諸侯たちの訴えを「汚物を見るような目」で眺めていた。
彼の纏う白銀の甲冑だけが、この泥濘の世界で異常なほどに輝いている。だが、その瞳に宿っているのは、もはや理性の光ではなく、自身の正しさを守るためなら世界をも焼き尽くす、透き通った狂気であった。
「……足場がない、だと?」
クーガーの声は、ひび割れた氷のように美しく、そして冷酷だった。
「道がないなら、作ればよい。……サンダラー、貴公の足元にあるのは何だ。泥か? 違う。……それは、我が光のために命を捧げた、尊き『礎』だ」
クーガーは立ち上がり、地図を指で強く叩いた。
「病で死んだ者、動けぬ者。それらをすべて切通しの入り口から第二土嚢帯の前まで運べ。それらを積み上げ、泥の上に『肉の橋』を架けるのだ。その上を、動ける兵たちが駆け抜けろ」
「――な、何を……!?」
ダニエル・ウェッソンが、絶句して後退った。
「味方の、病死した味方の死体で道を埋めろとおっしゃるのか!? それは、禁忌だ! カルカノたちが見れば、破門さえ免れぬ暴挙ですぞ!」
「破門? 私が光そのものであるというのに、誰が私を裁くのか」
クーガーは、無邪気ですらある微笑を浮かべた。
「これは救済だ。泥の中で無駄に腐る命を、勝利のための石畳に変えてやる。これ以上の名誉があるか。……明日までに、第二土嚢帯の前に十万の骸を敷き詰めろ。それができないというなら、諸侯、貴公らの首を最初の石材として提供してもらう」
天幕の隅で、グラッチはその言葉を聞いていた。
諸侯たちが息を呑み、剣の柄を握る。その震えが、空気を通して伝わってくる。
その時であった。
天幕の外で、それまでの病兵の呻きとは明らかに異質な、悲鳴と怒号が沸き起こった。
「――出た! 泥の中から出たぞ!」
「化け物だ! 呪いだ、カイツール坂の呪いだッ!」
切通しの最前方、第一関門の跡地。
停滞する泥の沼が、突如として激しく泡立ち、内側から「肉の塊」を押し上げた。
逃亡を企てていたバイカル勢の兵士たちが、腰を抜かして這いずり回る。その目の前で、赤黒い泥の塊が、ゆっくりと、しかし確実に「人の形」へと再構成されていった。
そこに現れたのは、もはや生者としての色を一切持たない異形であった。
甲冑は泥と血に塗り潰され、それが乾いてはまた濡れることを繰り返した結果、岩盤のような不気味な凹凸を形成している。皮膚はふやけ、あるいは剥がれ落ち、そこから覗く肉は不潔な灰褐色に変色していた。
頭髪は泥で固まり、顔の造形さえも泥に埋もれている。だが、その中央にある落ち窪んだ眼窩の中で、二つの眼球だけが、暗闇の中で獲物を探る捕食者のように、異様な熱を帯びた燐光を放っていた。
「……マ、マカロフ……様……?」
バイカル家の古い家臣が、震える足取りで歩み寄った。
「生きて……生きておられたのですか!? おお、神よ、バイカルの牙はまだ……!」
老臣がマカロフの肩に触れようとした、その刹那。
マカロフの手が、泥の中から飛び出すように動き、老臣の喉元を掴んだ。
――グシャッ。
という不快な音が響き、老臣の喉笛が、マカロフの泥まみれの指先によって物理的に圧し潰された。
「ガ、あ……」
言葉にならない悲鳴を上げ、老臣が泥の中に崩れ落ちる。
マカロフは、倒れた男が誰であるかなど、認識すらしていなかった。
今の彼にとって、世界は二つしかなかった。
自分を飲み込もうとする「泥」と、自分の道を遮る「障害」だ。
マカロフは泥を吐き出すように喉を鳴らし、折れた槍を杖代わりにして、本陣へと歩き始めた。彼の一歩ごとに、足元から汚水と腐敗した体液が溢れ出し、周囲には耐え難い死臭が霧のように広がった。
ベルテルブルグ軍本陣の天幕。
諸侯たちがクーガーへの反旗を翻す直前、その入り口の布を、泥に汚れた巨大な手が引き裂いた。
「――ゴボッ、……ァ……」
這い入ってきたのは、泥の塊そのものであった。
諸侯たちが悲鳴を上げて壁際まで退く中、クーガーだけが、その玉座から立ち上がり、恍惚とした表情でその「異形」を見つめた。
「……マカロフか。マカロフ・バイカルか」
マカロフは、クーガーの足元まで這い寄ると、泥にまみれた頭を床に叩きつけた。
彼の中に、かつての騎士としての忠誠が残っていたのか。それとも、目の前の白銀の輝きを、泥の中から自分を誘い出した「地獄の光」と誤認したのか。
マカロフは喉を震わせ、泥の混じった絶叫を上げた。
「――ォォォオ、王、都……ッ! 殺、セ……ッ!!」
「見たか!!」
クーガーが、歓喜の咆哮を上げた。
「これこそが奇跡だ! 光は、死の深淵にいた勇者をさえ呼び戻したのだ! マカロフは死んでいない! 泥と死体を食らい、更なる狂犬となって戻ってきたのだ!」
クーガーは、泥まみれのマカロフの肩を、自身の白い手袋を汚すことも厭わず力強く掴んだ。
「諸侯よ、もはや躊躇う理由はない! マカロフを見ろ! 彼は死体の上を歩くことを恐れない! 彼は泥を啜ることを厭わない! 貴公らが拒むというなら、このマカロフ一人が、貴公らの兵の死体を踏み台にして、第二土嚢帯を食い破るだろう!」
諸侯たちの間に走ったのは、もはや反旗を翻す気力ですらなかった。ただ、逃げ場のない恐怖だけが残った。名誉も、騎士道も、人間としての尊厳も、この天幕の中にはもう存在しない。
隅に立っていたグラッチは、何も言わなかった。言う気にもなれなかった。
彼は静かに天幕の布をめくり、外へ出た。誰も、止めなかった。
「マカロフ、行け。……貴公が踏むすべての肉は、王都へ続く絨毯となる。……全軍、マカロフに続けッ! 立ち止まる者は、生きていようと死体として足場に変えるぞ!」
†
一方、第四の線。
ボーチャードは、霧の向こうから聞こえてくる、明らかに「昨日までとは違う性質の地響き」を耳にして、背筋に冷たい刃を当てられたような戦慄を覚えた。
「……オリバー卿。来ます。……これは、ただの軍勢じゃない」
エンフィールドは短槍を低く構えたまま、霧の向こうを見ていた。
「……ええ。……戦術が、消えた」
ボーチャードは、自らの槍を強く握り直した。
「……クーガーは、ついに自軍の死体さえも道具にした。……そして、この空気。先頭にいるのは、もはや人ではない」
霧が割れた。
そこから現れたのは、第二土嚢帯の前に、味方の死体を「土嚢」のように投げ入れ、その肉の橋を渡って押し寄せてくる狂気の波。
そしてその先頭、泥と血を撒き散らしながら、四つん這いに近い姿勢で爆走してくる影。
「――殺セェ!!」
マカロフ・バイカルの咆哮が、カイツール坂を震わせた。
戦いは、知略と規律の領域を越え、肉と肉がぶつかり、泥が血を吸い尽くす、真の「嚥下」の段階へと突入した。
王国の最後の盾は、いま、地獄の底から這い上がってきた「狂気」と、真っ向から激突しようとしていた。
【 次回更新予定 】 4月10日(金) 20:50
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