Ⅲ-37 摩耗
六日目の朝、カイツール坂から「戦場の臭い」が決定的に変わった。
それまでの五日間、この坂を支配していたのは、鉄を焼いたような血の臭いと、雨に濡れた重い土の匂いだった。しかし、六日目の朝に雨が霧雨へと変わり、雲間から鈍い陽光が差し込み始めると、それらは「腐敗」という名の、より重苦しく、ねっとりと肺にまとわりつく異臭へと変質した。
坂の下、ベルテルブルグ軍がひしめく切通しの入り口は、もはや地獄という言葉ですら生ぬるい惨状を呈していた。
十万という膨大な軍勢が、幅の限られた隘路に密集して五日間を過ごした結果である。排水の管理や排泄施設の設営など、勝利と正面突破を急ぐクーガーの頭にはなかった。さらに、この地形は残酷な物理法則を突きつけた。坂の上にある王国軍が流す汚水、排泄物、そして泥を洗った不潔な水は、重力に従ってすべて坂の下――ベルテルブルグ軍の足元へと流れ落ち、そこに停滞するのである。
「……腹が、焼けるように熱い」
ベルテルブルグ軍の歩兵、ハンスは、槍を杖にして泥の中に膝を突いた。
昨夜から、腹の底を抉られるような激痛が続いている。何度も泥の中にしゃがみ込み、血の混じった下痢を垂れ流した。周囲を見渡せば、同じように顔を土気色に変え、虚空を睨んで震えている仲間が無数にいた。
彼らを襲っているのは、王都から放たれた正統なる槍ではない。泥の中に潜み、汚染された水と共に内臓を食い破る「目に見えない軍勢」――赤痢、そして腸チフスであった。
一方、坂の上。第四土嚢帯の背後に設けられた輜重拠点では、カールグスタフが依然として冷徹に、そして狂気的なまでに木札を弾き続けていた。
だが、その傍らには、前線には似つかわしくない光景があった。巨大な釜で常に煮沸されている大量の湯と、鼻を突くほどに濃い酢の匂いである。
「ショーンベルガー殿。各小隊に伝達。兵たちには必ず『煮沸した湯』を飲ませること。生の湧き水、あるいは溜まった雨水に指を浸した者は、その場で即座に戦列から外し、救護所の隔離区画へ叩き込んでください」
「わかっている、カール殿。……だが、薪も限られている。兵たちからは、温い湯よりも冷たい水をという不満が出ているぞ」
ショーンベルガーの言葉に、カールグスタフは眼鏡の奥の瞳を冷たく、一切の容赦なく光らせた。
「不満と死、どちらがマシか選ばせてください。……いいですか、今、ベルテルブルグ軍を殺しているのは我々の槍ではありません。彼ら自身の『不潔』です。十万という数は、一度病が回れば巨大な屠殺場に変わる。我々が今すべきは、敵を殺すことではなく、自分たちが『腐らない』ことです」
カールグスタフはこの戦いを、単なる陣取り合戦ではなく「生存の算式」と定義していた。
彼はウェリンに命じ、救護所の衛生管理を王国軍の法外なレベルまで引き上げさせた。負傷者の包帯は酢で煮洗いさせ、発熱した者は即座に隔離する。泥まみれの最前線において、その清潔さは異様な光景であったが、その「算式」は確実に功を奏していた。
切通しという隘路は「上流」である王国軍から、「下流」であるベルテルブルグ軍へと汚れが流れ落ちる構造になっている。王国軍が徹底して清潔を保ち、すべての不浄を坂の下へ押し流す限り、その毒はすべて、下に詰まった十万の胃袋へと注ぎ込まれるのだ。
だが、王国軍の備蓄も限界を迎えつつあった。
激しい戦いの中で塩は底をつきかけ、負傷者の傷を癒す薬草も、煮沸消毒のための薪も枯渇の一途をたどっていた。
「……ここまでか。補給が来なければ、明日には衛生状態が崩れる」
カールグスタフが苦渋に満ちた表情で木札を置こうとしたその時。
切通しの背後から、荷馬車の一団が姿を現した。
その馬車には王国のものではない、「共和国大統領」の極印が押されていた。
「――共和国から救援物資を届けに来た!」
ボーチャードとカールグスタフが驚愕の面持ちで駆け寄ると、そこには厳重に梱包された大量の「岩塩」と、共和国特産の強力な消毒薬、そして最高品質の乾燥薬草が積み上げられていた。
その木箱の一つに、小さな、しかし見覚えのある天秤を象った刻印が、目立たぬように刻まれていた。
「……これは、ユマーラ家の印か?」
ボーチャードの声が震えた。
箱の中から見つかったのは、一枚の簡素な書状。そこには、剛皇帝の公印と共に、流麗な筆致でこう記されていた。
――自ら国を去った男の、余計なお世話だ。
この塩は、かつて王国の民が流した汗の対価として贈る。
泥を啜っても、魂まで泥に染まるな。
王国の頑固者ども。
「……ラハティ殿か」
カールグスタフは短く息を吐いた。それ以上、何も言わなかった。
午後。
第二土嚢帯の「迷宮」では、依然として凄惨な削り合いが続いていた。
だが、ベルテルブルグ軍の動きは明らかに精彩を欠いていた。
「――押し戻せッ! 奴らの足元を見ろ、膝が震えているぞ!」
ショーンベルガーの号令を受け、王国軍の槍隊が土嚢の隙間から一斉に突き出す。
ラハティから届いた貴重な塩を摂取し、煮沸された湯で体力を繋ぎ止めた王国兵たちの動きは、この六日目においてもなお鋭かった。対してベルテルブルグ軍の兵士たちは、立ち向かう気力さえも病に奪われつつある。彼らは槍を構えることさえ億劫なほどに体力を消耗し、汚物まみれの泥に足を滑らせ、そのまま力なく沈んでいく。
第一関門を突破した際の勢いはもはやどこにもない。そこにあるのは、自分たちを蝕む「病」への恐怖と、一向に崩れぬ土嚢の壁への絶望だけであった。
エンフィールドは、その磨耗の最前線にいた。
彼は三十人の精鋭を率い、通路が最も狭まる「喉首」の地点で、敵の先鋒を細かく削り続けていた。
「……オリバー卿。奴ら、もうまともに剣を振れていない」
「……ええ。ですが、数だけはまだあります。……止まれば、味方の死体の山に押し潰される」
ボーチャードの言う通りだった。前線がどれほど病に倒れようと、後方の数万は状況を知らぬまま押し寄せてくる。隘路の中で、病死した味方の死体が物理的な「壁」となり、それがまた新たな感染源となるという、凄惨な連鎖が起きていた。
エンフィールドは短槍を引き抜き、泥を振り払った。
「……出て、戻る。……今日は、昨日よりも『戻る』のが楽だ。敵の反応が明らかに遅れている」
エンフィールドの槍は、もはや戦っているというよりは、病み果てた木々を伐採しているかのような、虚しい手応えに変わりつつあった。
ベルテルブルグ軍本陣。
かつて豪華絢爛だったクーガーの天幕も、今や漂うアンモニア臭と腐敗臭からは逃れられなかった。
「――報告しろ。今日の進捗は?」
クーガーの声は、低く、かすれていた。
副将グラッチは、震える手で羊皮紙を差し出した。
「……本日の出撃部隊、二割が発熱により戦列を離脱。……また、補給路は王国側の不審な動きにより滞っております。兵たちの間では、餓えと病が……」
パァン! という乾いた音が響いた。
クーガーがグラッチの頬を、素手で殴りつけたのだ。
「呪いだの病だの、聞き飽きた。……これは単なる不徹底だ。立ち上がれぬ者は、ベルテルブルグの光を浴びる資格はない。捨て置け」
クーガーは立ち上がり、地図を指で強く叩いた。
「道がないなら、作ればよい。……サンダラー、貴公の足元にあるのは何だ。泥か? 違う。……それは、我が光のために命を捧げた、尊き『礎』だ。病で死んだ者、動けぬ者。それらをすべて切通しの入り口から第二土嚢帯の前まで運べ。それらを積み上げ、泥の上に『肉の橋』を架けるのだ。その上を、動ける兵たちが駆け抜けろ」
「――な、何を……!?」
ダニエル・ウェッソンが、絶句して後退った。
「味方の、病死した味方の死体で道を埋めろとおっしゃるのか!? それは、禁忌だ! カルカノたちが見れば、破門さえ免れぬ暴挙ですぞ!」
「破門? 私が光そのものであるというのに、誰が私を裁くのか」
クーガーは、無邪気ですらある微笑を浮かべた。
「これは救済だ。泥の中で無駄に腐る命を、勝利のための石畳に変えてやる。これ以上の名誉があるか。……明日までに、第二土嚢帯の前に十万の骸を敷き詰めろ。それができないというなら、諸侯、貴公らの首を最初の石材として提供してもらう」
グラッチは、天幕の隅に立ったまま動かなかった。
殴られた頬はじんと痺れている。だが、それよりも深いところで、何かが静かに凍りついていた。
バーテルバーグは取り潰す、と言った男だ。ピダーセンを「ならぬ」と切り捨てた男だ。マカロフを「舗装材」と呼んだ男だ。
それでもグラッチは付いてきた。勝ち目があると踏んだから。あるいは、踏もうとしたから。
だが今、この男は味方の死体を橋にしろと言っている。
グラッチは、羊皮紙を懐に戻した。報告書は、もう必要ない。
夕刻。カイツール坂に、またしても小雨が降り始めた。
だが、今度の雨は、熱を帯びた戦場を冷やす恵みではなかった。泥の中に溜まった腐敗物をさらに攪拌し、病の種を坂の隅々まで広げ、ベルテルブルグ軍の「最後の一線」を奪い取る死の接吻であった。
ボーチャードは、ラハティから届いた岩塩で味付けされた、温かなスープを口に含んだ。
「……カールグスタフ殿。明日には、結果が出ると思うか?」
「……ええ。物理的な破壊よりも、生理的な崩壊の方が、その結果は劇的です」
カールグスタフの隣で、エンフィールドは新しい塩で清められた短槍を、静かに鞘に収めた。
彼は何も言わなかった。ただ、ラハティの書状が入っていた木箱の天秤の刻印を、しばらく見つめていた。
六日目の日が落ちる。
カイツール坂は、今や巨大な墓標であった。
その頂上で、ボーチャードとカールグスタフ、そしてエンフィールドは、静かに、そして残酷に、敵が自重で潰れるその瞬間を待ち続けていた。
【 次回更新予定 】 4月8日(水) 20:50
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