表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【AI軍事考証】王国玄冬記 ―勇者なき世界で、王殺しから始まる王国の動乱―  作者: Soh.Su-K
Ⅲ虚ろなる一角獣 簒奪戦争

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

105/115

Ⅲ-36 攀登

 五日目の朝、カイツール坂を支配していたのは「風」であった。


 降り続いていた豪雨は、叩きつけるような飛沫から、肌を刺す微細な霧雨へと姿を変えた。だが、代わりに北の山脈から吹き下ろす凍てつくような強風が、切り立った切通しの中を、死者の呻きのように吹き抜けていく。第一関門という盾を失い、第二土嚢帯という泥沼の迷宮に引きずり込まれたベルテルブルグ連合軍は、その圧倒的な物量を活かせぬまま、四日間にわたって泥の中で足踏みを強いられていた。


 連合軍本陣の天幕。立ち上る香炉の煙さえも、風に巻かれて形を失っている。

 クーガーは、もはや激昂することさえ忘れたかのような、深淵の如き静謐な狂気を瞳に宿し、机上の地図を凝視していた。その白い指先は、冷気のために僅かに青ざめている。


「……正面が泥の喉首だというなら、山そのものを剥ぎ取るまでだ。グラッチ、スミス家の残党に命じろ。北の絶壁を這い上がり、敵の背後へ『光』を落とせと。それから……」


 クーガーは地図の表面ではなく、その下に広がる「土」を、爪で力任せに弾いた。


「モグラを放て。あのような不細工な土嚢、下から崩せば一瞬で瓦解する」


 グラッチは命を受け、天幕を出た。

 スミス家の残党。地下工兵。どちらも、まだ動ける者を搔き集めれば形にはなる。だが、グラッチの頭の中では、別の計算が静かに回り続けていた。

 地下道が通ったとして、その先に何があるか。攀登兵が北壁を越えたとして、その先に何があるか。五日間、あの隘路が崩れなかった事実がある。それを一手で覆す算段が、今のクーガーにあるとは思えなかった。

 グラッチは顔には何も出さず、淡々と命令を伝達した。


 クーガーの冷徹な命令により、連合軍はついに「面」の戦いを捨て、立体的な侵食へと舵を切った。北側の側壁、垂直に近い断崖にはスミス家の攀登兵たちが鉄の爪を打ち込み、一方で第二土嚢帯の直下に向けては、工兵たちが幾筋もの地下道を掘り進め始めたのである。


 だが、その微かな「土の震え」を、王国の守護者たちは逃さなかった。

 第二土嚢帯の最前線、泥濘の中に腹を据えるようにして座り込む集団があった。鉱矮人(ドワーフ)の工兵隊長とその部下たちである。頭は、泥まみれの路面に直接耳を押し当て、岩のように動かずにいた。


「……来たな。欲深いモグラどもが、俺たちの庭を荒らしに来やがった」


 頭は短く吐き捨てると、傍らに控える工兵たちに手信号を送った。彼らが取り出したのは、洗練された聴音器ではない。ただの水の入った瓶と、一本の長い鉄の杭である。杭を地中深く打ち込み、瓶の中の水面に生じる微かな輪紋を読み取ることで、敵の掘削位置を正確に、かつ冷酷に割り出していく。


「可変胸壁、三段から五段、位置をずらせ。敵の掘り出し口に『空洞』を作ってやれ。……それから、北の貯水槽の栓を抜け。火ではなく、重い泥を喰らわせてやる」


 頭の指示は、建築家としての精密さと、戦士としての残酷さを併せ持っていた。

 地下数メートル。暗闇と熱気の中で、連合軍の工兵たちが最後の一打ちを振るった。土が崩れ、光が差し込むはずだった。だが、彼らが目にしたのは、敵の足元ではなく、鉱矮人たちが意図的に作り出した「虚無」であった。


 ドゴォォン! という地響きと共に、地下道の天井が耐えきれず自重で崩落する。

 そこへ、山の上に溜め込まれた数日分の雨水と、崩れた赤土が混ざり合った「重泥流」が、鉱矮人たちの仕掛けた注水路を通って一気に流れ込んだ。


「なっ、水だ!? 戻れ、溺れ――」


 叫びは、物理的な圧力を持った濁流の音にかき消された。

 暗く狭い地下道は、瞬く間に土砂崩れを伴う水葬の場と化した。クーガーが放った土竜たちは、剣を交えることさえ叶わず、自らが掘り進めた穴の中で重い泥に窒息し、カイツール坂の地層の一部へと変わっていった。


 だが、真の危機は頭上、空から迫っていた。


「――北壁、取り付かれました! 数、およそ三百! スミスの精鋭です!」


 伝令の叫びが、風に流されて響く。霧が一瞬だけ晴れたその隙間に、北側の断崖を、黒い影たちが蜘蛛のような速さで這い上がってくるのが見えた。第二土嚢帯でショーンベルガーとフランキが正面を支えている今、この横腹を食い破られれば、防衛網は内側から一気に瓦解する。


「……慌てるな。あそこは、俺の遊び場だ」


 右尾根の遊撃拠点。ガルドーネ・ヴァン・ガイルースが、短槍の柄を力強く握りしめた。

 彼の守備範囲は、この急峻な斜面そのものだ。ガルドーネは自らの隊に対し、重い盾を捨て、機動力に特化した、泥を塗った軽装を命じていた。


「行くぞ、野郎ども! 登るのに必死な連中に、重力の恐ろしさを教えてやれ!」


 ガルドーネは叫ぶなり、自ら断崖の縁から飛び出した。

 それは突撃というよりは、文字通りの「落下」であった。

 急斜面を滑り、突出した岩を蹴り、ガルドーネたちは加速度を味方につけて、這い上がってくるスミス勢の頭上へと躍り出た。


「――喰らえッ!」


 ガルドーネの短槍が、岩の割れ目に必死に指を掛けていた敵兵の肩を貫く。

 足場のない断崖での戦いは、凄惨を極めた。ガルドーネたちは一本の命綱に身を預けながら、振り子の機動で敵を次々と壁から剥ぎ取っていく。

 叫び声を上げ、数百メートルの奈落へと真っ逆さまに落ちていく連合軍の兵士たち。だが、スミス隊もまた必死であった。彼らは味方の墜落を無視し、死に物狂いで岩肌を掴み、フランキたちの守る平場へと肉薄していく。


 平場の縁。

 ついに数人の敵兵が、血に濡れた剣を振り上げ、守備隊の背後に足を掛けた。


「通したぞ! 続け、ベルテルブルグの光を――」


 その勝利の確信が、カイツール坂の空気を物理的に震わせる「雷鳴」によって打ち砕かれた。


「――うおおおおおおおおおおおぉぉぉ!!」


 それは、人の喉から発せられたものとは思えぬ、野性的で、圧倒的な質量を持った咆哮であった。

 救護所の守りから離れ、前線の「綻び」を察知して駆けつけた武将、カラビナー・ジウ。彼がその全霊を込めて放った雄叫び(ウォークライ)であった。


 風が止まり、霧が瞬時に霧散する。

 かつて荒ぶる海を越え、極北の地で巨神と戦ったという海賊の血。雷神「フシャスラ」の怒りをその身に宿したかのような咆哮は、平場に足を掛けた敵兵たちの鼓膜を破り、その精神を恐怖で凍りつかせた。

 一瞬の硬直。それは、この崖っぷちの戦場において、死と同義である。


「……フシャスラの雷に、焼かれよ」


 カラビナーの、使い込まれた巨大な戦斧が、横一文字に閃いた。

 凍りついた敵兵たちが、まとめて断崖の下へと叩き落とされる。その圧倒的な咆哮と背中に、崩れかけていた守備兵たちの心に再び火が灯った。


「カラビナー殿に続け! 一人も生かして帰すな!」


 再接着。

 バラバラになりかけていた線が、カラビナーの咆哮という「見えない楔」によって再び一つになった。ガルドーネが崖下で敵の根を断ち、カラビナーが崖の上で芽を摘む。鉱矮人が土の下で毒を撒き、正面ではフランキとショーンベルガーが、泥にまみれながら「壁」を維持し続ける。


 五日目の夕刻。

 クーガーが試みた立体的侵食は、王国の守護者たちが持つ、あまりにも多様で、あまりにも執拗な「抵抗」の前に、完全な失敗に終わった。

 カイツール坂の北壁は、今やスミス家の兵たちの死骸で飾られた、呪わしい剥製の壁と化していた。


 本陣でその報告を聞いたクーガーは、手にした高価なワイン杯を、無言のまま床に叩きつけた。


「……蛮族どもめ。……なぜ、死なない。なぜ、これほどまでに屈しない!」


 グラッチは、その言葉を背中で聞いていた。

 怒鳴り声は天幕の布に吸われ、風の音に紛れていく。グラッチは振り返らなかった。振り返る理由がなかった。

 地下道は水に沈み、北壁は肉で埋まった。五日間で積み上がった損耗の数字は、もはや報告書に書ける限界を超えている。残る手が何もないわけではない——だが、それらはすべて、時間を引き延ばすだけのものだ。

 グラッチは天幕の外へ出た。冷たい風が、泥と腐肉の臭いを運んでくる。

 遠く、本陣の後方に、コルト家とウェッソン家の幕舎が見えた。灯りが消えている。昨夜まであった馬の影も、今はない。スミスの天幕はすでに空だった——北壁に消えた兵たちと同じく、もはや戻る者がいないのだ。

 グラッチは、それを確かめるように数秒だけ見て、静かに前を向いた。


 一方、第四の線。

 ボーチャードは、激しい戦いを終えて戻ってきたカラビナーの肩を、無言で叩いた。


「……素晴らしい働きだった、カラビナー殿。……貴殿の血が、この坂を繋ぎ止めた」


「ありがたいお言葉、痛み入ります。……」


 カラビナーは豪快に笑い、血にまみれた斧を担ぎ直した。


 その隣で、エンフィールドは静かに、風の吹き抜ける北の断崖を見上げていた。

 自分たちの勝利ではない。これは、この坂に集まった者たちが、それぞれの意地と誇りを、そして生きるための執念を泥の中に叩きつけて、ようやく手に入れた「一日の生存」なのだ。


 風は依然として吹き荒れている。

 カイツール坂は、今や両軍の執念を吸い込み、巨大な、そして残酷な「生命の天秤」として、霧の中に聳え立っていた。

 六日目。消耗は極まり、戦いは「物理的な破壊」から「精神の磨耗」へと、その様相を変えようとしていた。

【 次回更新予定 】 4月3日(金) 20:50

毎週 水・金 の週2回更新


本作の『考証』が面白いと感じていただけたら、評価ボタンで教えてください。

数字が積み上がることが、より精緻な物語を組むための何よりのエネルギーになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ハイファンタジー 戦記 シリアス 王族 貴族 内政 陰謀 魔王 男主人公 群像劇 幼馴染 成り上がり 策謀 裏切り 教会 騎士団
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ