Ⅲ-40 陥落
八日目の朝。カイツール坂を包んでいた霧が、冬の冷たい風に流されて消えていく。
第一関門から第二土嚢帯へと続く緩やかな斜面は、赤黒い泥と、数多の兵士たちの遺体で完全に埋め尽くされている。七日目の夜、クーガーの狂気じみた命令によって築かれた「肉の橋」――病死した味方の遺体を土嚢代わりに積み上げたその道は、凍てついた体液と泥によって、不気味な黒光りを放つ石畳のように横たわっていた。
坂の下、ベルテルブルグ軍の本陣。かつての華やかさは微塵もなく、そこにあるのは、自分たちが犯した「戦友を踏みつける」という禁忌の重みに潰された、十万の抜け殻であった。赤痢はキャンプの隅々まで行き渡り、動ける者さえも、泥の中に座り込んで虚空を見つめている。彼らにとって、この澄み渡った朝日は希望ではなく、自分たちが「人間」であることをやめた事実を照らし出す、無慈悲な断罪の光であった。
第四土嚢帯の指揮所。カールグスタフは、震える指先で眼鏡を拭い、目の前に広がる凄惨な光景を凝視していた。
「……オリバー卿。ベルテルブルグ軍は、死にました」
彼の声は、乾いた砂が擦れるような響きを帯びていた。
「十万という数は、今や彼ら自身の首を絞める重りです。食糧はなく、病が回り、主君への信頼は肉の橋と共に崩壊した。……物理的な戦闘継続能力はゼロ。ですが……」
カールグスタフは、坂の下で一点の汚れもない白銀の甲冑を輝かせている男――クーガー・ベルテルブルグを指差した。
「あの男だけは、まだ死んでいない。……彼は、自分の敗北を認める代わりに、この世界そのものを無理やり自分の『物語』に合わせようとしている」
ボーチャードは、泥にまみれた槍の穂先を静かに見つめた。
「……ならば、その物語を終わらせるまでだ。……エンフィールド様」
ボーチャードが振り返ると、そこには短槍を構えたエンフィールドがいた。その顔は緊張に強張っているが、瞳には逃げ場のない覚悟が宿っている。
「……分かっています、オリバー卿。……俺に、勝てと言っているんじゃないんですよね」
「……左様です。貴殿は『餌』です。……あの美しすぎる白銀の怪物を、この汚れた泥の底まで引き摺り下ろすための、最高の餌だ」
ボーチャードの言葉は非情だった。
八日目の正午。クーガーが動いた。
彼はもはや誰にも命令を下さず、ただ一振り、宝石を散りばめた長剣を抜き、死体の道を歩き始めた。
「――道を空けよ。光が通る」
その声は、泥濘の地獄には不釣り合いなほど澄み渡っていた。
クーガーの剣技は、まさに芸術であった。第二土嚢帯の入り口で、死に物狂いで槍を突き出すショーンベルガーの槍隊。だが、クーガーは足を止めることさえしない。
一閃。槍の穂先が宙を舞い、兵士の手首が泥に落ちる。
二閃。盾を構えた兵士が、首筋から噴水のように血を噴き出して倒れる。
幼少から王国の最高峰の武芸を叩き込まれ、「真の王家」として生きてきた男。その実力は、一週間泥を啜り、病に怯えながら戦ってきた守備兵たちのそれとは、次元が違いすぎた。
クーガーは、泥に汚れた土嚢さえも軽やかに跳び越え、まるで空を舞う鳥のように、守備隊の包囲を次々と切り裂いていく。
「――怪物か、あいつは!弩を撃て、弩を!」
ショーンベルガーの叫び。だが、放たれた数本の弩の矢も、クーガーは長剣の腹で僅かに軌道を変えさせ、自らの身体には掠らせもしない。
「……泥に沈んだ者の矢が、太陽を射ることなど叶わぬ」
クーガーの視界にあるのは、土嚢の奥、一段高い場所で軍旗を掲げて立つ、エンフィールドの姿だけであった。
「――逃げるなッ!来い、簒奪者ッ!エンフィールド・フォン・バーテルバーグが相手だ!」
エンフィールドの咆哮。彼は土嚢の壁を蹴り、自らクーガーの前に躍り出た。
その姿は、クーガーの白銀に比べれば、あまりにも不格好であった。泥に汚れ、サイズの合わない甲冑を揺らし、短槍をがむしゃらに突き出す。
「……なんだ貴様。その不潔な槍で、私に触れることさえ許さぬ」
衝撃。クーガーの長剣が、エンフィールドの槍を弾き飛ばした。
重い。あまりにも重い。エンフィールドの両腕は一撃で痺れ、槍を取り落としそうになる。
クーガーは容赦しなかった。返す刀でエンフィールドの肩口を切り裂く。
「ぐ、ぅ……ッ!!」
「どうした。王の血を引くというなら、私を楽しませてみせろ。それとも、やはり泥を這うのがお似合いか?」
レベルが違いすぎた。
エンフィールドの突きは、クーガーにとっては止まっているも同然だった。クーガーは優雅な身のこなしでエンフィールドを翻弄し、なぶり殺しにするかのように、彼の甲冑の隙間を次々と切り裂いていく。
一分。
エンフィールドは全身から血を流し、泥の中に膝を突いた。
二分。
もはや槍を構えることもできず、彼は這いずりながら後退する。
「……終わりだ。泥の王よ。貴様の死を以て、この坂を浄化してやろう」
クーガーが、とどめの一撃のために剣を大きく振り上げた。
勝利を確信したクーガー。その足元は、死体の脂と汚水が混ざり合った、この坂で最も深く、最も不安定な「泥の溜まり」であった。
その瞬間、エンフィールドの瞳に、絶望ではない「光」が宿った。
「――今だッ!! 」
泥の中から、四つの「手」が飛び出した。
それは、マカロフと同じように、泥の中に潜み、息を殺してこの瞬間を待ち続けていた、ショーンベルガーとフランキの二人であった。
「――ヌ、アァァァッ!!」
ショーンベルガーが、クーガーの右脚を泥まみれの両手で掴み、全体重をかけて泥の中へと引き摺り込む。
「貴様……放せ、不潔な奴めッ!」
クーガーが剣を振り下ろそうとしたが、逆側からはフランキが、その強靭な膂力でクーガーの剣を持つ右腕を抱え込んだ。
「近衛を、舐めるなよ……! この泥こそが、お前の墓場だ!」
足場を失い、さらに左右から数人の精鋭たちが泥の中から躍り出て、クーガーの白銀の甲冑に、汚れた泥を叩きつけ、その自由を奪っていく。
一対一の決闘ではない。
これは、王国の「個」の武勇という幻想を、泥と組織の執念で圧殺する、非情な捕獲劇であった。
「――放せ!放せェ!!私に、私に触れるなッ!!」
クーガーが初めて、余裕の欠片もない絶叫を上げた。
どれほど武芸を極めていようと、膝までを泥に取られ、四肢に数人の男たちが命懸けで簒奪しようと縋り付かれれば、その剣はただの鉄屑に過ぎない。
白銀の甲冑は、瞬く間に赤黒い泥に塗り潰され、その輝きを失っていく。
そこへ、一歩、また一歩と、泥を蹴って歩み寄る影があった。
ボーチャードである。
彼はエンフィールドの槍を拾い上げると、動けないクーガーの喉元に、その穂先を突きつけた。
「……詰みです、クーガー殿。……貴殿の物語は、ここで終わりだ」
七日間に及ぶ地獄が、一瞬の、そして圧倒的な「数」の暴力によって、その幕を閉じた。
白銀の王は、自軍が作った死体の山の上に、泥にまみれて組み伏せられた。
坂の下。主君が泥の中に沈められるのを目の当たりにしたベルテルブルグ軍の将兵たちは、もはや声を上げる力もなかった。
彼らは武器を捨て、あるいは泥の中に顔を伏せ、ただ深い、深い沈黙の中に沈んでいった。十万の軍勢という巨大な怪物は、その頭脳であるクーガーを「捕獲」されたことで、ただの巨大な死体へと変わったのである。
泥まみれの地面に組み伏せられたクーガーは、自分を抑え込む兵士たちの泥の臭いに咽せながら、上空を見上げた。
そこには、一週間自分を拒み続けたカイツールの空が、皮肉なほどに澄み渡って広がっている。
「……なぜだ。……なぜ、この私が……このような、不潔な場所で……」
「……貴方が、人を殺しすぎたからだ」
肩から血を流しながら、エンフィールドがクーガーの顔を覗き込んだ。
「貴方の『光』は、この泥の中に消えていった兵士たちの目には、もう届かなかったんだ」
エンフィールドの声は、勝利を誇るものではなく、同じ地獄を生き延びた者としての、乾いた静寂に満ちていた。
捕縛されたクーガーは、厳重な縄で縛り上げられ、第四の線の奥へと引き立てられていった。彼の白銀の甲冑は、今や見る影もなく泥に汚れ、その美しさは永遠に失われていた。
ボーチャードは、エンフィールドの前に立ち、泥濘の中に膝を突いた。
「……お見事でした、エンフィールド様。……貴殿がその身を呈したからこそ、この坂は守られました。……貴殿こそが、この泥だらけの国の、正統なる『栓』です」
エンフィールドは、ボーチャードの肩を、かつて彼が自分にしてくれたように、優しく叩いた。
「……違います、オリバー卿。……俺たちが、守ったんです。……この泥だらけで、不細工な、でも俺たちが生きているこの国を」
カールグスタフは、救護所の前で眼鏡を丁寧に拭い、初めて、冬の陽だまりのような薄い笑みを浮かべた。
ウェリンは、カラビナーの血生臭い胸の中に顔を埋めて、声を上げて泣いた。
八日目の夜。
カイツール坂に、この一週間で最も静かな夜が訪れた。
勝利の勝鬨を上げる者は、一人もいなかった。
王国軍の兵士たちは、泥にまみれた自らの手を見つめ、生き残ったことを確かめるように、ただ重い呼吸を繰り返していた。
【 次回更新予定 】 4月17日(金) 20:50
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