Ⅲ-34 金殻
カイツール坂が泥と血、そして鋼鉄の悲鳴に包まれているその瞬間、王都の「謁見の間」を支配していたのは、耳が痛くなるほどの静寂と、鼻を突く芳香であった。
天井を埋め尽くす緻密な金箔の装飾。窓から差し込む冬の陽光は、空気中に舞う僅かな塵さえも黄金の粉のように変えている。ここは世界の中心であり、同時に、最前線の兵士たちが啜る泥水とはもっとも対極にある、王国の「殻」の内側であった。
「――報告いたします。カイツール坂にて、反乱軍ベルテルブルグとの戦闘が正式に開始されました」
伝令の声は、感情を排した冷徹な響きでその静寂を破った。
玉座に鎮座する太后代行ニニオは、その報を神妙な面持ちで受け止めた。彼女の纏う絹の衣が、僅かな動きに合わせて微かな衣擦れの音を立てる。
「そうですか。ついに、始まりましたか……」
ニニオは一度目を閉じ、慈悲深い聖母のような溜息を吐いた。
「とにかく、我々は我々に出来ることをやりましょう。この美しき王都に、泥を塗らせるわけにはいきませんもの。そうでしょう、お二人とも」
彼女の視線の先には、穏やかな慈愛の光を瞳に宿し、王国の精神的支柱として座す大僧正カルカノ。そして、山積する政務に追われ、常に額に脂汗を滲ませている丞相ウィンチェスター。二人は、彼女の「静かなる決意」をそれぞれの想いで受け止めていた。
その時、重厚な扉が開き、一人の男が導かれて入ってきた。
「……それで、私が呼び出された理由は何でしょうか、ニニオ陛下」
ニニオの前で跪くのは、東部の中堅貴族、スミオ・ティッカコスキであった。
一見すれば、成金じみた派手な装いを好む地方貴族に過ぎない。しかし、その本性は「死の商人」そのものである。商人と言っても、ユマーラ家のような正当な商売を生業にしている訳ではない。武器の密輸、人身売買、違法薬物の取引。彼は自らの手を汚す代わりに、子飼いのヤクザ組織を走らせ、境界の影で巨万の富を築き上げていた。
ティッカコスキ家という表の顔をどれほど叩いたところで、違法な埃など一片も出てこない。複雑怪奇な資金洗浄と、暴力による口封じによって塗り固められた、不気味な「実業家」であった。
「今回の戦への協力に、心よりの感謝を、スミオ殿。物資の手配から、人材の派遣まで、大変助かっておりますわ」
ニニオはニッコリと、花が開くような笑みを浮かべた。
彼女は、スミオという男がどれほど忌むべき商売でその地位を築いたかを知り、それを心底から嫌悪している。しかし、その嫌悪を完全に覆い隠し、一人の忠実な諸侯として接する。その「使い分け」こそが、ニニオという女の恐ろしさであった。
「いえいえ、滅相もございません。王国の危機と聞けば、私のような田舎貴族だろうと居ても立っても居られませんからな」
スミオはニヤニヤとした卑屈な笑みを浮かべた。その言葉の裏にある、恩を売ってさらなる利権を毟り取ろうとする卑しさが、ウィンチェスターの神経を逆なでした。
(ならば王都大暴動の時にでも協力すれば良かったではないか……)
ウィンチェスターの表情には、隠しきれない不快感が露骨に滲み出ていた。カルカノは、その憤りを感じ取ると、まるで荒波を鎮めるかのような優しい目線でウィンチェスターを諌めた。その静かな徳により、謁見の間には再び静謐な空気が戻る。
「スミオ殿、私からも感謝を」
カルカノの、芯の通った温かな声に、スミオは一瞬だけ気圧されたような顔をしたが、すぐに商人の顔に戻った。
「猊下まで。ありがたい限りです。……して、早速ではありますが、お支払いの件に関しまして……」
スミオが待ってましたと言わんばかりに金の話題を切り出そうとしたその瞬間、ニニオが遮った。
「その前に。スミオ殿、バラライカ殿と共に来てくださるよう書簡を書いたつもりですが……バラライカ殿は何処です?」
その名を耳にした瞬間、スミオの表情が、冬の池が凍りつくような速さで強張った。
(こいつら、俺ではなくバラライカに用があるんだな)
商人の直感が、即座に警鐘を鳴らした。しかし、そこは幾多の修羅場を潜り抜けた男。すぐにニヤニヤとした笑顔を取り繕う。
「これはこれは、私としたことが気を回しすぎたようで。バラライカは下賤の身分。陛下や猊下のような高貴なお方の目に直接触れるなど、無礼かと思いまして、外に待機させております」
「そんな事はありません。彼女にも直接礼を伝えたいと、陛下たってのご希望ですので」
ニニオの言葉には、拒絶を許さぬ絶対的な響きがあった。スミオは喉まで出かかった悪態を無理やり飲み込み、バラライカを呼び入れた。
重厚な扉が再び開かれ、その「女」が入ってきた。
「――お初にお目にかかります。バラライカと申します」
その瞬間の空気の変転は、劇的であった。
バラライカ。その歩みは無駄がなく、洗練されていた。裏社会の長とは思えぬほど完璧な所作。あまりに美しい身のこなしに、カルカノさえも感嘆し、深く頷いた。
「バラライカ殿、お会いできて光栄だわ」
ニニオは、まるで幼い頃からの友人を迎えるかのように、玉座から立ち上がり、自ら歩み寄った。
「顔を上げて、お立ちになって」
「はっ」
立ち上がったバラライカの姿に、謁見の間がどよめいた。
身長は二メートルに近い。ドレスの布越しにも分かる、戦士としての厚みを持ったがっしりとした骨格。腰まで届く長い金髪は、まるで磨かれた金糸を束ねたような輝きを放ち、彫刻のように整った顔立ちは、女性特有の美しさと、百戦錬磨の将軍が持つ雄々しさを同時に湛えていた。
そして何より目を引くのは、その端正な顔面を斜めに断ち切る、巨大な刀傷であった。
「腹心であるカールグスタフ殿まで派遣していただき、心から感謝しております。名門の落とし子である彼を使いこなす貴女の手腕、素晴らしいわ」
ニニオはニコニコと笑いながら、バラライカに対し、ペコリと頭を下げた。
「なりません、陛下。私は下賤の身、陛下から咎められる生業の人間です。そのような者に頭を下げるなどと……」
バラライカは静かに、しかし深い響きのある声で応えた。
彼女こそ、スミオの子飼いヤクザ『バラライカ一味』の首領である。構成員自体は少数だが、その圧倒的な知略と暴力により、東部の裏社会のトップに君臨している。バラライカの許可がなければ、東部で店を構えることすらできないとまで言われる女帝。そんな彼女を前にして、ニニオは一切の臆することなく、その大きな手を取った。
「人は感謝する時、自然と頭が下がるものよ」
カラカラと笑うニニオに、畏まっていたバラライカも毒気を抜かれた。彼女の唇に、ふっと自然な笑みが浮かぶ。
「これは……陛下には敵いませんな」
「笑顔も素敵だわ」
キャッキャと話し込む二人の「王」。その異様な光景に、スミオが恐る恐る割って入った。
「陛下……。よろしいでしょうか?」
「あぁ、支払いの話ですね。それよりも先に、スミオ殿に打診があるのです」
ニニオはもったいぶった仕草で玉座へと戻り、傍らのウィンチェスターに目配せを送った。
「――スミオ・ティッカコスキ。貴殿を、王国大蔵大臣に任命する。審議会への参加をお願いしたい」
ウィンチェスターは、感情を殺した声で言い放った。
「な、なっ!? ……な、なんですと!?」
「聞こえませんでしたか? ではもう一度申します。貴殿を、王国大蔵大臣に――」
「聞こえてます! 聞こえてるから驚いてるんですよ!! 何故田舎貴族の私が大蔵大臣なのですか!」
大蔵大臣。それは、ラハティ・ヴァン・ユマーラが辞して以来、長らく空席であった王国の金庫番だ。そこに、「死の商人」を座らせる。その意味を、スミオは即座に理解した。
これは、これまでの貸付の踏み倒し。そして、大蔵大臣として王都に縛り付け、領地へ戻れなくすることで、彼が直接現場で指揮を執っていた裏の商売をすべて凍結させるという、極めて政治的な檻であった。
「今、カイツール坂では逆賊ベルテルブルグを寡兵で迎え撃っているところです。これ以上王国を乱す訳にはいきません。ウィンチェスター殿もとうに限界。丞相を過労で失うわけにはいかないのです。……しかし、物資と人材を投入してくださったスミオ殿ならば信頼に足ると判断し、私から審議会へ提言したのです」
ニニオの言葉は、どこまでも美しい建前に彩られていた。スミオは、自分の帝国が王都の官僚機構という名の檻に閉じ込められ、現場のビジネスが崩壊する未来を察し、絶望に打ち震えた。
それを見たバラライカが、こらえきれぬといった風に破顔し、大いに笑った。
「ははははは! これはどうしようもないぞ、スミオ。貴様も年貢の納め時のようだな!」
すかさず、ニニオの鋭い視線がバラライカに向けられた。
「バラライカ殿、貴女にも席を用意しておりますの」
バラライカの笑いが、ピタリと止まった。
「……なんですと?」
「貴女と、貴女の組織。……私に預けてもらいたいの」
ニニオの微笑みは変わらない。
「今の『蛇』は、魔王軍との戦いに専念させたいの。だから、あなたたちに王国の中を這い回ってほしいの。準『蛇』として、国内の諜報をすべて引き受けてちょうだい」
それは、裏社会の獅子に対し、国家の影として生きろという、逃げ場のない徴用であった。
バラライカもまた、スミオと同じように口をパクパクさせた。
ニニオという女。彼女は笑顔一つで、東部の「金」と「暴力」を一度に飲み込み、自らの手足に変えてしまったのだ。
「さあ、お返事は? ……お二人とも、素敵な笑顔を見せてくださるかしら」
ニニオの笑みは、静まり返った謁見の間で、黄金の装飾よりも眩しく、そして美しく輝いていた。
【 次回更新予定 】 3月27日(金) 20:50
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