Ⅲ-33 喉鳴
三日目の午後は、音から崩壊を始めた。
豪雨はもはや天からの慈しみではなく、カイツール坂に溜まった熱と血を叩き潰すための、物理的な質量となって降り注いでいた。その雨音を凌駕して響くのは、破城槌が第一関門の閂を叩く、巨大な心臓の鼓動のような重低音である。一撃ごとに大気が震え、門の裏側に蓄積された振動が、守備兵たちの足の裏から内臓へと直接突き刺さる。
「――三番、五番、土嚢を追加しろ!楔を打ち直せ!」
ショーンベルガーの声が、関門の内側で響く。だが、鉱矮人の工兵たちが組んだ堅牢な木組みも、ついに物理的な限界を迎えつつあった。破城槌が叩きつけられるたびに、門そのものが内側へ向かって不気味な撓りを見せ、その隙間から赤茶けた泥水が、まるで門が吐血しているかのように噴き出している。
その頭上では、さらなる地獄が展開されていた。クーガーの非情な命を受けた十八基の大弩が、その「喉」を震わせた。空気を切り裂くのは、放物線ではない。それは視認すら困難な剛速の直線であった。
ド、ォォォォン!!
という凄まじい発射音と、対象を粉砕する破壊音はほぼ同時だった。放たれた巨矢は、雨の帳を一本の「空白」に変えて貫通し、第一関門の胸壁を文字通り消し飛ばした。鋼鉄の矢尻が石籠に触れた瞬間、火花を散らす暇もなく、積み上げられた岩盤は四方八方へ破裂するように飛び散った。巨矢は防壁を貫き、岩を削り、ある時は盾を構えたままの兵士を、その後ろの土嚢ごと地面に縫い止めていた。それは戦術というよりは、圧倒的な初速と質量による「消滅」の連続であった。
飛散した破片は、それ自体が致命的な礫となり、守備兵の顔を、腕を、容赦なく抉り取っていく。
「ゾロターン、まだか!上の狙いを外させろ!」
ショーンベルガーの叫びに対し、矢倉のゾロターンは、頭上を掠めていく鉄の直線の風圧に曝されながらも、指先の感覚を失った手で弩の弦を引き絞っていた。
「……無茶を言わないでくれ、兄上!数が多すぎる!矢を番える間に、こっちの視界を撃ち抜かれる!」
ゾロターンの視界には、霧の向こうに整列するバリスタの列が見えていた。一基を無力化しても、その背後にはまだ十数基が控えている。十万という軍勢の真の恐ろしさは、こうした「交換」を無限に繰り返せる点にある。一を削っても、百の予備が泥を蹴って前に出る。その絶望的な物量が、第一関門という「唇」を強引に剥ぎ取りにかかっていた。
その時、バリスタの巨矢が一本、第一関門の右側にある支柱を直撃した。
鈍い破壊音が響き、鉱矮人が組んだ可変胸壁の一部が、鉄の杭によって爆破されたかのように内側へ崩れ落ちる。そこへ、待機していたコルト家の精鋭たちが、蟻のように取り付いた。
「――決壊だ!押し込め!門の裏を殺せ!」
サンダラー・コルトの狂喜に満ちた咆哮が、雨音を貫く。瓦礫の隙間から、敵の剣が、槍が、濁流のように流れ込んできた。
指揮所にいたボーチャードは、手元の水時計を一度だけ確認し、隣に控えていた伝令に短く命じた。
「……刻限だ。ショーンベルガーに伝えろ。第一を捨て、第二土嚢帯へ秩序撤退を開始せよ」
伝令が駆け出した後、ボーチャードは傍らに立つ若者へと視線を向けた。
かつてピダーセンの館で、下男として立ち働いていたあの頃と変わらぬ、真っ直ぐな瞳。だがその手にはいま、王国を担うべき重厚な短槍が握られている。
ボーチャードは一瞬、昔のようにその肩を叩こうとして手を止め、代わりに深く、信頼を込めた声で告げた。
「……エンフィールド。あの一線を、削ぎ落としてこい。……いや、削ぎ落としていただけますか、我が主。貴殿の初陣、このボーチャードが特等席で見守らせていただきます」
エンフィールドは一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに不敵な口角を上げ、短槍の柄を力強く握り直した。
「……行ってまいります、オリバー卿。俺の槍、よく見ててください」
敬語とタメ口が混ざり合うその短いやり取りこそが、泥濘の地獄を渡る二人の、何よりも固い絆の証だった。
第一関門の裏。
ショーンベルガーは迫りくる敵の切っ先を、自らの槍で払い除けながら、腹の底から声を絞り出した。
「全軍、後退!背を見せるな!面を保ったまま、第二の線まで引き込め!」
守備隊の動きは、訓練された精密な機械のようであった。彼らは混乱することなく、一歩ずつ、泥を蹴って後退を始める。槍隊は穂先を揃えたまま、瓦礫を越えてなだれ込むコルト家の兵を牽制した。突き出し、引き戻し、敵の突撃を一定の距離で繋ぎ止める。
あえて「喉元」を開くようにして敵を隘路の奥へと誘い込んでいくその姿は、敗走ではなく、より冷酷な捕食への序曲であった。
第一関門を「突破した」という錯覚が、連合軍の兵たちの判断を完全に狂わせた。彼らは一気に手柄を挙げようと、狭い通路に殺到する。だが、その先にあるのは、門のない、迷路のように組まれた土嚢の壁――第二土嚢帯であった。
そこへ、背後の第四土嚢帯から、一つの鋭い殺気が放たれた。
エンフィールド。
前王の血を引き、その出自を泥の中に隠した男が、短槍を低く構えて泥濘を蹴った。
「……行くぞ。出て、戻る。それだけを繰り返せ」
エンフィールドに続くのは、このカイツール坂で最も過酷な機動を叩き込まれた精鋭たちだ。彼らは第三関門を音もなく通り抜け、第一関門を突破して勝ち誇る敵の、無防備な横腹へと突き刺さった。
エンフィールドの短槍は、戦場の喧騒を嘲笑うかのように、静かで、そして致命的であった。
その突きは、バリスタの如く一直線に最短距離を走り、一突きで先頭の兵の喉を貫き、引き抜く動作で次の一人の膝を砕く。彼の動きには英雄的な虚飾が一切ない。泥に足を取られることもなく、滑るように敵の間合いを縫い、物理的な「壁」を作るための、冷徹なまでの機能美があった。
「右、三! 左、二!削げ!」
エンフィールドの号令に従い、短槍隊が扇状に展開する。一瞬にして数十人のコルト兵が、何が起きたか分からぬまま泥の中に沈んだ。コルト家の兵が反撃の剣を振り下ろそうとした瞬間、エンフィールドは既にその間合いの外にいた。彼らは「出ては戻る」という振り子の動きで、突入してきた敵の先頭集団を細かく、だが確実に削り取っていく。
「――なんだ、今の奴らは!?どこから湧いてきた!」
混乱するサンダラーの目の前で、エンフィールドの部隊は再び第二土嚢帯の防壁の陰へと、まるで幻影のように消えていった。
代わって前に出たのは、フランキ率いる中央予備隊であった。
「……通さんと言ったはずだ」
フランキは第二土嚢帯の「栓」として、入り込んできた敵の小集団を、土嚢の隙間から一兵ずつ確実に処理していく。第二土嚢帯には門がない。だからこそ、敵はどこから攻撃されるか分からず、足元の泥と、視界を遮る土嚢の迷宮の中で、ただ立ち往生を強いられる。
後方ではカールグスタフが戦場の「回転」を冷徹に管理していた。
「……三〇秒。三一、三二。ショーンベルガー隊、第二に収容完了。木札を更新しろ。交代要員、前へ」
カールグスタフの指先で、兵士たちの命を象徴する木札がカチカチと音を立てて入れ替わる。この木札こそが、兵士たちの疲労を、負傷を、そして矢の残量を可視化していた。ショーンベルガーが戻れば、次はフランキが、フランキが削れば、またエンフィールドが飛び出す。
この「回転」こそが、ボーチャードが築き上げたカイツール坂の真の心臓であり、十万の物量に対抗するための唯一の算式であった。
雨は、すべてを飲み込むほどに激しく叩きつける。
カイツール坂は、今や巨大な喉笛であった。第一関門という唇を食い破った連合軍は、第二土嚢帯という喉の奥で、エンフィールドの槍とフランキの剣、そしてショーンベルガーの粘りという、底知れぬ嚥下圧に苦しみ始めていた。
本陣のクーガーは、手元の指揮杖を、指が白くなるほどに強く握りしめた。
「……一歩、進んだだと? 違う。……あちら側の、思うツボではないか」
その傍らでグラッチは無言のまま、本陣から見える切通しの奥を眺めていた。
霧の向こうに、もはや第一関門の姿はない。突破した、とベルテルブルグ軍は沸いている。だが、グラッチの目には違って見えた。あちらは開いたのではなく、開けさせたのだ。
報告書を懐に戻したのは正解だった。数字を出したところで、この男には届かない。
三日目の午後、カイツール坂は、自らの肉を削ってでも敵を飲み込む、巨大な怪物の咆哮を上げ続けていた。
【 次回更新予定 】 3月25日(水) 20:50
毎週 水・金 の週2回更新
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