Ⅲ-32 泥濘
三日目の夜明け、カイツール坂を支配していたのは、もはや戦略や正義といった言葉ではなく、ただひたすらに重く、粘りつくような死の予感であった。
降り続く雨は、前日に放たれた「落石」の傷跡を洗い流すどころか、砕かれた岩盤と兵士たちの肉、そして折れ曲がった鉄を一つの黒い泥へと捏ね上げていた。霧はますます深く、松明の光すら数歩先で吸い込まれて消える。
その白濁とした帳の向こう側から、数万の人間が発する荒い息遣いと、泥を噛む軍靴の重低音が、地響きとなって防衛線を揺らし続けていた。
三日目の朝、グラッチ・バイカルは本陣の裏手へ向かっていた。
マカロフの捜索だ。
第一関門前の崩落地点——瓦礫と死体が幾重にも積み重なるあの泥の深淵に、手の空いた兵を三十でも回せないか。甥が生きているとすれば、今日が最後だ。それだけを確かめたかった。
本陣に戻ったグラッチを待っていたのは、しかし、クーガーの冷ややかな一言だった。
「捜索など、意味はない」
地図から目を上げることさえしない。
「閣下。マカロフは俺の——」
「バイカルの、何だ」
グラッチは瞬時に詰まった。
「一族の血だ」と言おうとした。「救い出せ」と言おうとした。だが、クーガーの瞳には、そのどちらへの興味もなかった。端的に言えば、どうでもいいのだ。
「進まぬ者、動かぬ死体に価値はない。マカロフが岩の下に埋まったというなら、それは彼が『光』を背負う器ではなかったという証に過ぎん。グラッチ、死体を探す人員があるなら、その死体を踏み台にしてでも坂を登らせろ。犠牲は、玉座へと続く階段の舗装材に過ぎないのだ」
グラッチは、返す言葉を探さなかった。
探す気にもなれなかった。
クーガーの論理は理解できる——十万の軍勢の中で、たった一人のために三十人を割く愚かさは、グラッチ自身も分かっている。だがそれは「道理」の話であって、「正しさ」の話ではない。
マカロフは、グラッチが物心ついた頃から傍にいた男だ。
甥だから目をかけたわけではない。マカロフが使えたから、傍に置いた。それだけだ。
そのマカロフを「舗装材」と呼ぶ男の顔を、グラッチはしばらく見つめた。
「……御意」
感情のない二文字を置いて、天幕を出た。
「スミスの別働隊を出せ。正面が塞がれたなら、南の急斜面を抉れ。鼠のように這い上がり、敵の矢倉を頭上から引き裂くのだ。……これは王命である」
背後でクーガーの命令が続く。グラッチはそれを聞き流しながら、湿った外気に顔を晒した。
本陣の後方。
コルト家、スミス家、ウェッソン家——三家の当主たちが、輪を作って立っていた。
戦場を見ていない。その視線が向いているのは、坂の南、険峻な山々が連なる稜線の向こう——南部へと続く隠れ道の方角だ。
サンダラー・コルトが低い声で何かを囁く。ダニエル・ウェッソンが頷く。スミス家の者が地図のような紙片を袖に滑り込ませた。
グラッチはその光景を数秒だけ眺め、静かに目を逸らした。
†
午前半刻。南側の急峻な斜面では、新たな地獄が幕を開けていた。雨水を吸って滝のように流れ落ちる赤茶けた土、剥き出しになった岩肌。そこを、ホーレス・スミス率いる五百の兵たちが、指の爪を剥がさんばかりに食い込ませて這い上がっていた。
「滑るな! 止まればそのまま死体の山の一部だぞ!」
ホーレスの咆哮が霧に籠もる。兵たちは重い盾を背に、泥に突き立てた指の感覚を失いながら、一歩、また一歩と「垂直の戦場」を登る。一人が足を滑らせれば、悲鳴を上げる間もなく後続を巻き込み、霧の底へと消えていった。
だが、その頭上——尾根の岩陰から、二つの猛々しい影が躍り出た。右尾根遊撃隊長ガルドーネの、大気を震わせる咆哮が響き渡る。
「——フシャスラの裁きを受けよ! 泥の底へ帰れ!」
ガルドーネの巨大な戦斧が一閃し、最前列を登っていた兵の盾を、その腕ごと粉砕した。噴き出した鮮血が雨と混ざり、泥濘の斜面をさらに赤く染め上げる。
間髪入れず、中央予備隊から駆けつけたフランキが、遊撃の「栓」として立ち塞がった。彼の剣閃は、かつて王都で称賛された流麗さをかなぐり捨て、ただ敵の脛を断ち、喉を突き、泥の中に踏みつけるための最短距離を走っていた。
「ガイルースの小倅どもが! 没落したジウの如く、蛮族に成り下がったか!」
下方の岩場からホーレスが罵声を浴びせ、弩を放つ。だが、フランキはそれを盾で無造作に弾き、冷徹に応えた。
「スミス卿。この坂では、礼法よりも泥に強い者が生き残るのだ。貴様らの高潔な騎士道など、ここでは邪魔なだけの重りだ」
フランキの背後から、ガルドーネの部隊があらかじめ用意していた「投げ石」を一斉に放った。重力に従って加速度を増した岩塊は、霧を切り裂き、必死に斜面を登る兵たちを次々と押し潰していく。メキメキと骨が砕ける音が反響し、十数人の兵士が自身の血で滑る斜面を滑落し、谷底へと消えていった。それは戦いというよりは、害虫を崖下へ払い落とすような、一方的な処刑であった。
南斜面で凄惨な「間引き」が行われている頃、正面の第一関門では、ブローニング・コルトとその嫡男サンダラー率いる二千の主力兵が、瓦礫の山を越えようと肉薄していた。
「槍間を狙え! 隙間に剣を突き入れろ!」
サンダラー・コルトが最前線で盾を構え、門の隙間を指示する。対する門の内側、ショーンベルガーの視界は、関門の僅かな隙間から見える敵兵の「目」と「喉」だけに集中していた。
「……二列目、交互。一拍置いてから引け。敵の盾を誘い出せ」
ショーンベルガーの号令一下、槍隊が機械的な反復運動を繰り返す。門の隙間から突き出された槍は、殺到する敵の勢いを利用し、面白いように肉を貫いていく。
一突き、二突き。
門前の泥濘はもはや赤黒いスープと化し、死体と生者が重なり合って、守備側を助ける「肉の堤防」を作り上げていた。
「矢倉、左翼へ集中! 援護を!」
頭上のゾロターンが、指先から血を滲ませながら弩の弦を引き絞る。彼の視界には、連合軍の後方に控える大弩の列が映っていた。その巨大な矢先が、自軍の歩兵を無視して、第一関門を直接狙っていることに気づいた瞬間、彼の背筋に戦慄が走った。
「……兄上、来るぞ! 伏せろぉぉ!」
ゾロターンの叫びが響き渡ると同時に、ベルテルブルグ軍の後方から、空気を引き裂くような重低音が轟いた。
ド、ォォォォン!! という衝撃波と共に放たれた十八基の巨矢が、雨の帳を貫き、門前で奮戦していた敵の兵士たちの背中に直撃した。
凄まじい衝撃。鎧を纏った人間が、まるで枯れ葉のようにバラバラになって四散する。巨矢は数人を串刺しにしたまま第一関門の胸壁に突き刺さり、ドワーフの石籠を爆発させた。
「……狂ってやがる。あいつら、味方ごと俺たちを潰す気だぞ!」
ゾロターンが矢倉の柱にしがみつきながら、下方を見て毒づく。関門の周囲は、もはや戦場という言葉では生ぬるい、巨大な屠殺場と化していた。主君から放たれた巨矢によって粉砕された兵士たちの絶望が、泥濘の中に澱み、濃密な死臭となって立ち上る。
その混乱の中、負傷兵が次々と救護所へと担ぎ込まれていく。
「担架が足りない! 床に寝かせろ! カール、麻布を早く!」
医療班長ウェリンは、泥と血にまみれた腕を振り上げ、必死に叫んでいた。運び込まれる兵士の半分は、敵の刃ではなく、敵のバリスタが撒き散らした礫によって砕かれていた。
「……落ち着け。貴様らの命は、まだフシャスラの雷が繋ぎ止めている!」
父カラビナーが、パニックに陥りかけた兵士の胸元を掴み、その眼光で恐怖をねじ伏せる。彼らジウ家は、かつて荒ぶる北の海を越え、略奪と開拓を繰り返した海賊の末裔である。
雷神「フシャスラ」を奉ずるその血は、絶望の最中でこそ最も熱く滾る。
「針を止めるな、ウェリン! 泣き言を言う暇があるなら、雷神の如く縫い上げろ!」
「言われなくても分かっています、お父様!」
その傍らで、輜重長カールグスタフは、驚くほど冷静に木札を整理し続けていた。
「……ウェリン、麻布はこれで最後だ。次は、死んだ兵士の衣類を剥いで洗って使え。……命を数えるな。戦線を維持できる『頭数』を数えろ」
カールグスタフの言葉は、氷のように冷たく、だがこの極限状態においては唯一の正解であった。彼はバラライカの右腕として、命の価値を「数字」で測ることに慣れすぎていた。だが、その冷徹な規律が、崩壊寸前の現場に奇妙な安定をもたらしていた。
激闘が続くカイツール坂の最下層。巨大な落石が泥濘に沈んだ場所では、未だに「異変」は起きていなかった。だが、瓦礫の重圧と、数万トンの泥、そして積み重なった無数の死体の底には、一人の男がいた。マカロフは死んではいなかった。
落石の直撃を免れ、偶然できた岩の隙間の僅かな空気孔に守られながら、彼は泥の中に埋もれていた。耳に届くのは、地上の喝采でも、味方の喚声でもない。
自らの軍勢が放ったバリスタの、味方を粉砕する地響き。信じていた『光』の主が、自分たちを「不要な泥」として切り捨てた、冷徹な現実。
(……クーガー……グラッチ……)
暗闇の中で、マカロフの瞳が濁った色に染まっていく。呼吸するたびに、死臭に満ちた泥が肺に入り込み、精神を削り取っていく。かつて彼を突き動かしていた武勲への渇望は、この泥の牢獄の中で、より根源的で、より純粋な「すべてを破壊せんとする呪い」へと変質しようとしていた。
彼はまだ、動けない。だが、カイツールの泥は、一人の猛将を「王国の騎士」から、この世のすべてを等しく磨り潰す「泥の化身」へと作り変えつつあった。
本陣の天幕。グラッチは報告書を手に、クーガーの背後に立っていた。
正面の損耗率。スミスの別働隊の現状。病の広がり。数字を並べれば、結論は一つしかない。
だが、グラッチはその報告書を読み上げなかった。
読んだところで、クーガーは聞かない。数字に興味がないのではなく、数字が示す「撤退の論理」を、この男は受け付けないのだ。
グラッチは書類を折り畳み、懐に戻した。
(……マカロフ。お前がこいつに付いたのは何故だ)
答えは分かっている。マカロフはクーガーが玉座に就けば大将軍の椅子が転がり込んでくると踏んでいた。正当な王家の復権に手を貸す、その見返りとして。打算として、これ以上なく分かりやすい。
グラッチはそれを見て、マカロフが付くなら勝ち目があると踏んだ。それだけだ。
だがそのマカロフが、今は泥の底にいる。
三日目の正午。雨は止まず、坂はさらに深く沈んでいく。クーガーの『光』が地上を焼き、ボーチャードの『石』がそれを拒み続ける中、地底深くに沈んだマカロフという爆弾の導火線に、静かに火が灯された。
【 次回更新予定 】 3月20日(金) 20:50
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