逃げないと決めた葵
玄関の前で、葵は足を止めた。
いつもなら真っ暗なはずの窓に、
今日は灯りがともっている。
(……あれ?)
胸の奥がふっと揺れた。
灯りの漏れる自宅は、
思っていたより温かく見えた。
仕事で疲れた日でも、
あの灯りがついているだけで
ほっとした時期があった。
(俊介……帰ってる?)
驚きと、
言葉にできないざわつきが同時に押し寄せる。
最近は、
葵が帰る頃にはいつも真っ暗だった。
俊介は遅くまで仕事で、
すれ違いが当たり前になっていた。
鍵を回し、
そっとドアを開ける。
温かい空気がふわりと流れてきた。
味噌汁の匂い。
焼き魚の香り。
ほうれん草のおひたし。
全部、俊介の料理だった。
(……懐かしい)
胸の奥がじんわり熱くなる。
順調に暮らしていた頃──
仕事で疲れて帰ってきても、
俊介の料理があれば、それだけでほっとした。
「おかえり」
「今日はどうだった?」
そんな何気ない会話が、
当たり前のようにあった。
その当たり前が、
いつの間にか遠くなっていた。
リビングに足を踏み入れると、
俊介が座っていた。
久しぶりに見る俊介は、
少しやつれて見えた。
頬が少しこけて、
目の下に薄い影があった。
(……こんな顔、させてたんだ)
胸の奥がきゅっと縮む。
俊介が顔を上げた。
「……葵。少し、話せるか」
その声は、
怒りでも責めでもなく、
ただ、覚悟だけを含んでいた。
葵は息を飲んだ。
ここで、
逃げられないと悟った。




