葵を待つ俊介の夜
玄関の灯りをつけたまま、俊介はキッチンに立っていた。
味噌汁の鍋から、ゆっくりと湯気が立ちのぼる。
煮干しの香りが部屋に広がり、静かな夜の空気を少しだけ温めた。
焼き魚は焦げないように弱火でじっくり焼く。
副菜は、葵が好きだったほうれん草のおひたし。
料理は得意だ。
結婚してから、自然と自分が作るようになった。
でも今日は、いつもより丁寧に、
いつもよりゆっくりと手を動かしていた。
(……今日だけは、帰ろう)
そう決めて、仕事を早めに切り上げた。
葵と向き合うために。
逃げずに、ちゃんと話すために。
テーブルに二人分の箸を置き、
俊介は深く息を吐いた。
(葵の心の中に……ずっと誰かがいるのは、分かってた)
それは影のような存在だった。
結婚した頃から、ずっと。
ふと遠くを見る目。
触れたときの微かな緊張。
名前を出さない誰かへの想い。
でも影なら、自分が埋められると思っていた。
代わりでいい、と。
(……でも、もう違うんだよな)
最近の葵は、影を見ていない。
“誰か”そのものを見ている。
その“誰か”が誰なのか──
俊介はもう分かっていた。
大和さん。
名前を口にしなくても、
葵の沈黙がすべてを語っていた。
(俺じゃ……もう埋められないんだな)
怒りでも嫉妬でもない。
ただ、静かな事実として胸に落ちた。
俊介は味噌汁の火を止め、
テーブルの位置を少し整えた。
葵が帰ってきたとき、
逃げられないように。
でも、責められないように。
ただ、向き合えるように。
玄関の鍵が回る音がした。
俊介の心臓が、静かに跳ねた。
葵が帰ってきた。
俊介は、息を整えた。




