第九章 王女マリエル、最初の問い
翌朝、王宮で。
ローラン伯爵が俺を新しい執務室に、案内してくれた。
「リシュ殿、ここを、滞在中、お使いください」
それは、政務の塔の、四階の一室だった。
窓は、王宮の中庭に面していた。
中庭には、よく手入れされた、噴水と、薔薇の庭園が、広がっていた。
冬だが、白い薔薇がわずかに、咲いていた。
「ありがたい執務室です」
「陛下の特別の御取りはからいです」
「光栄です」
「では、本日午後より、財務局のメンバーとの、第一回会議を、お願いいたします」
ローランが頭を下げて、退室していった。
俺は机に向かった。
机の上にはすでに、王国全体の財政台帳の写しが、五冊、積まれていた。
俺はそれを、ぱらぱらと、めくった。
予想通り。
ぐちゃぐちゃだった。
辺境のアステリスより、王宮の中央財務のほうがずっと、汚かった。
収入と支出が、同じ欄に書かれている。
日付の表記も、年号で書いていたり、月だけだったり、ばらばらだった。
俺は頭を軽く、振った。
そして、新しい羊皮紙に、ピラミッドの方針書を書き始めた。
書いている途中でふと、窓の外に、目を移した。
中庭の薔薇の庭園。
そこに、一人の少女が、ぽつんと、立っていた。
深い緑のドレスを着た、淡い色の髪の少女。
庭師の手伝いをしているように見えたが、よく見ると、ただ、一本の薔薇を見つめているだけだった。
ぴくり、とも、動いていない。
背中が、奇妙に、淋しかった。
俺はなぜか、その後ろ姿から、目を離せなかった。
立ち姿が、別れた、彼女に、少し、似ていた。
執務室の扉が、ノックされた。
入ってきたのは、ローランの補佐官だった。
「リシュ殿、本日の昼食は、王女マリエル殿下の御茶会に、ご招待されておられます」
「王女殿下ですか」
「はい。陛下の御一人娘でいらっしゃいます」
俺は窓の外の少女にもう一度、目を向けた。
彼女はまだ、薔薇を見つめていた。
「あの方ですか」
「は」
「中庭の、緑のドレスの方」
「は、あ、そう、でございます。何故、御存知で」
補佐官の頬が、少し、紅潮した。
俺は笑った。
「見えてただけです」
昼の鐘が、塔の上で、鳴った。
俺は執務室を出た。
王女マリエルとの、最初の対面は、王宮の南の庭園の、白い東屋だった。
俺が東屋に近づくと、彼女は、椅子に座って、紅茶を、待っていた。
近くで見ると、彼女は、思った以上に、若かった。
たぶん、十七歳。
だが、その目には、十七歳の、輝きが、ぜんぜん、なかった。
「マリエル・アステリアでございます」
彼女は、立ち上がって深く頭を下げた。
その仕草は、完璧に、王女のそれだった。
が、感情がなかった。
「リシュ・アステリスです」
俺は彼女の正面に座った。
紅茶が、運ばれてきた。
湯気が、寒い空気の中でゆっくり、立ち上った。
紅茶の香りにわずかに、ベルガモットの匂いが、混じっていた。
「リシュ殿。御活躍は、伺っております」
「光栄でございます」
「アステリスの辺境を、たった三ヶ月で、再生されたとか」
「お役に立てれば、と」
「素晴らしいことです」
彼女は、紅茶を、口に運んだ。
飲んだ。
カップを置いた。
その一連の動作がすべて、機械のように、決まりきっていた。
すべて、礼儀正しい。
すべて、正解。
だが、一切、感情がなかった。
俺はなぜか、それが、気になった。
「マリエル様」
「はい」
「もしよろしければ、一つだけ、お伺いしてもよろしいですか」
「どうぞ」
「あなたは、何が、欲しいですか」
王女の手がぴたりと、止まった。
カップが、ソーサーに、戻る音が止まった。
彼女の瞳が、まばたきを、しなかった。
それからゆっくり、彼女は、顔を上げた。
「何が、欲しいと、いうのは」
「いえつまり、貴族でも、王女でもなく。ただ、マリエルという一人の人間として、いま、一番、欲しいものは、何かと」
彼女の唇がわずかに、開いた。
だが何も、出てこなかった。
しばらく、東屋に、静寂が、満ちた。
中庭の遠くで、噴水の水音だけが、ちろちろと聞こえていた。
「リシュ殿」
彼女はようやく、声を、絞り出した。
それは、王女としての、堂々とした声ではなかった。
一人の、十七歳の、迷子のような、細い声だった。
「私にそのような問いを向けてくださった御方は」
「ええ」
「生まれて、初めてでございます」
俺は何も、言わなかった。
彼女は、紅茶をもう一度、手に取った。
手がわずかに、震えていた。
そして、紅茶の表面に、自分の顔が、映るのを、長く、見つめていた。
「私はわかりません」
彼女は低く、答えた。
「私が何を、欲しいか。それを、考えることを、私は十二歳の頃に、止められました」
俺は彼女の言葉を、ただ、聞いた。
「父上のために。王国のために。私は私自身を、後回しにすることを、覚えました」
彼女の声は、低かったが、安定していた。
俺は不意に、自分の前世のことを思い出した。
あれと、同じだ。
俺も誰かのために、自分を、後回しにしてきた。
その結末が、過労死だった。
「マリエル様」
俺はできるだけ優しく、言った。
「考える練習を、始められたら、と思います」
「練習ですか」
「はい。小さなことから。今日の昼食に、何を食べたいか。明日、何を読みたいか。ほんの、それだけのことから」
王女の唇がふっと、ほどけた。
たぶん、彼女は、人生で初めて、王宮の人間に、そんな提案を、されたのだろう。
「リシュ殿は、不思議な御方ですね」
「よく言われます」
彼女は、初めて、ほんの少しだけ、笑った。
笑顔はまだ、ぎこちなかった。
でも、それは確かに、彼女自身の、笑顔だった。
東屋の屋根の上で、雀が、一羽、ちゅんと、鳴いた。
午後の財務局会議は、想像通り、地獄だった。
俺は十五人の文官の前で、複式簿記と、KPIの仕組みを、説明した。
反応は、辺境のベルントとは、まったく違った。
半数は、明らかに、敵意を見せていた。
残り半数は、関心を持っていたが、口を開かなかった。
最前列で、もっとも、頻繁に、口を挟んできたのは、財務局の次席、ヴァインベルク男爵だった。
五十代の、太い男。
俺の説明のたびに、椅子に、もたれかかって、鼻で、笑った。
「リシュ殿。それは、辺境では、通用したかもしれぬ」
「ええ」
「だが、王宮の財務は、複雑であります」
「複雑だからこそ、整理が、必要なのです」
「整理、で、解決するなら、誰も、苦労しない」
「苦労していない、と思います」
「な?」
「皆様、苦労していないから、整理されていないのです。苦労していたら、もっと、早く、整理されていたはずです」
俺の言葉に、最前列の半分が、ぎろりと、俺を睨んだ。
ローラン伯爵が横で、額に、手を当てた。
俺は自分がたぶん、初対面で、宣戦布告を、してしまったことに気づいた。
だが、後悔は、しなかった。
会議は、結局何も、決まらないまま、終わった。
俺は執務室に戻った。
机の上に、写本帳を開いて、今日の出来事を、一行、書き加えた。
「敵がはっきり、半数を超えた。覚悟」
その夜。
俺は夕食を、執務室で、一人で、取った。
パンと、薄いスープ、そして、塩漬けのチーズ。
王宮の客人扱いの割には、ずいぶんと、質素だった。
誰かが、わざと、こういう食事を、選んだのだろう。
食べ終えて、窓の外を見た。
中庭の薔薇園にまた、誰かが、立っていた。
今度は、銀髪の男だった。
カイル。
彼は夜の中庭で、白い薔薇の前に、立って、月を見上げていた。
そして不意に、こちらを、振り返った。
俺と、目が、合った。
彼はゆっくりと、頭を下げた。
それは、礼儀の挨拶ではなく。
何か、別のものに、近かった。
──軽く、舌打ちをするような、感じの、頭の下げ方だった。
俺は窓のカーテンを引いた。
ベッドに横たわって、俺は天井を見つめた。
王宮の天井は、辺境の館の倍ほど高く、装飾も派手だった。
だが、寒い。
そして、誰も、信じられない。
俺は写本帳の表紙の金糸の刺繍を、指でなぞった。
エマの几帳面な指の動きをふと、思い出した。
ベルントの白髪の頭を思い出した。
ナタリアの剣だこのある手を思い出した。
そして、最後に、今日の昼の、マリエルの初めての、ぎこちない笑顔を思い出した。
あの少女もまたたぶん、誰も、本当の味方は、いない。
俺はろうそくを、吹き消した。
室内が、闇に、沈んだ。




