第十章 ジャストインタイム宮廷政治
王宮の財務改革は、最初の二週間ほとんど、進まなかった。
俺はローラン伯爵と、二人で何度も、議論を重ねた。
だが、財務局の文官たちは、ほぼ全員、何かしらの利権を握っていた。
納入業者からの裏金。
税の徴収係としての横領。
予算の付け替えによる、特定貴族への便宜供与。
それらすべてが、複式簿記の導入で、白日の下に、晒される。
だから、彼らは、改革に、絶対に、賛成しなかった。
「リシュ殿、もはや、改革は、不可能やもしれません」
ローラン伯爵が執務室の長椅子に深く、腰を下ろした。
彼の頬は、二週間前より、明らかに、痩せていた。
「いえ、伯爵。もう少しです」
「ですが、ヴァインベルク男爵が、貴族派の半数を、抑えております」
「だから、貴族派ではなく、商業ギルドから、攻めましょう」
「商業ギルド、と申しますと」
俺は地図を、机の上に、広げた。
王都の商業地区。
「商人たちは、税の徴収の不透明さに長らく、苦しんでいるはずです。彼らは、改革の、最大の味方になります」
「なるほど」
「明日、王都商業ギルドの長老会に、お声がけしましょう」
ローラン伯爵が頷いた。
頷きながら、彼はふと、目を伏せた。
「リシュ殿」
「はい」
「失礼を承知で、申し上げます」
「どうぞ」
「貴殿は、たまにたいへんに、孤独そうなお顔をなさる」
俺はその指摘に、少し、驚いた。
「孤独ですか」
「はい。先ほど、地図をご覧になりながら、ほんの一瞬、表情が、消えました」
「ふぅん」
「いや、御無礼を」
「いえ、嬉しいです、伯爵」
俺は笑った。
「気にかけてくださる方が、王宮にも、お一人、いらっしゃることが、わかりましたから」
伯爵は深く、礼をして、退室していった。
その三日後。
俺は王都商業ギルドの、巨大な会議場に、招かれた。
そこには、ギルドの長老が、十二人、半円形に、座っていた。
中央の最高長老は、白い髭の、八十代と思しき老人。
俺は彼らの前で、王宮財政の現状と、改革の方針を、説明した。
「皆様。問題は、王宮の財政に、透明性がないことです」
「ええ、ええ」
「ゆえに、誰が、いつ、何のために、どれだけの予算を使ったか、不明です」
「その通りです、その通りです」
「これを、複式簿記と、KPIで、見える化します。すると、特定の家臣が、特定の業者に、利益誘導している、ということがすぐに、わかるようになる」
会議場が、ざわりと、揺れた。
最高長老がゆっくり、口を開いた。
「リシュ殿」
「はい」
「貴殿の計画が、もし、実現するのであれば。我ら商業ギルドは、十年来、戦ってきた相手をようやく、表に、引きずり出せます」
「相手、と申しますと」
「ヴァインベルク男爵」
会議場が、ざわめいた。
「彼の家は、過去十年、王宮の納入業者の選定権を握っております。彼に賄賂を渡さない業者は、いっさい、王宮の仕事を、もらえない」
「それは」
「我らの正当な仕事が、奪われてきました。長らく、訴え続けてきましたが、証拠が、なく」
俺は頷いた。
これで、貴族派とは別の、強固な、味方が、できた。
「明日、複式簿記の基本研修を、ギルドの代表者に、行います。皆様に、王宮の動きを、外から、監視していただきたい」
「もちろん、喜んで」
会議は、和やかに、終わった。
最高長老は、別れ際、俺の手を両手で、握って、言った。
「リシュ殿。あなたは、辺境からきた、本物の風です」
「過分なお言葉」
「本気で、申しております」
俺は頭を下げて、ギルドを、後にした。
王宮への帰り道。
俺は馬車の中でふと思った。
これで、外堀は、埋まった。
あとは、王宮の内側を、攻めるだけだ。
その内側に、月村がいる。
馬車が、王宮の門を、くぐった、その時。
門のすぐ脇に、銀髪の男が、立っていた。
カイルだった。
彼は俺の馬車を見送るように、頭を下げた。
そして、俺と、目が合うとまた、にっこり笑った。
「ご無事のお戻りで、なによりでございます、リシュ殿」
馬車から、降りた俺にカイルが声をかけた。
「カイル殿。お待ちいただいて」
「いえ、たまたま、通りかかっただけでございます」
「そうですか」
「ところで、リシュ殿」
「はい」
カイルがにこやかに、声を、ひそめた。
「商業ギルドとの御会合、たいへん、素晴らしかったと、伺っております」
俺はまばたきを、二回、した。
会議は、二時間前。
ギルドの会議場は、王宮から、馬車で、三十分。
俺が出てきてから、王宮に戻るまでの、約三十分の間に、カイルの耳にすでに、情報が、届いている。
「お早い情報網ですね」
「いえ、たまたま」
カイルは笑った。
「リシュ殿の御活動を、私はいつも、注視しております」
注視。
その言葉を、彼はわざとゆっくり、発音した。
俺は軽く、微笑んだ。
「光栄でございます」
「では、おやすみ前に、ささやかな御挨拶を」
カイルは深く頭を下げて、去っていった。
俺は執務室まで、戻る間、廊下をゆっくり、歩いた。
歩きながら、頭の中で、二つのことを、確認した。
一つ。
カイルは王宮内に、相当数の、密偵を、持っている。
二つ。
今夜、俺の執務室か、寝室にたぶん、何らかの、仕掛けがある。
執務室の扉の前に立った。
取っ手に、薄く、新しい指紋が、ついていた。
俺の出かけたあとに、誰かが入った。
俺は扉をゆっくり、開けた。
室内は、見た目には何も、変わっていなかった。
だが、机の上の、写本帳の、ページがわずかに、ずれていた。
最初に、開いていたのは、第一ページの、領地再建のピラミッド。
それが、第三ページの、王宮財政改革のピラミッドが、見えるように、なっていた。
俺はそれを、確認して、笑った。
カイルがわざわざ、俺の机の上で、写本帳の中身を、確認している。
これはすでに、相手は、本気だ、ということだった。
俺は椅子に深く、腰を下ろした。
「ジャストインタイム、か」
ぼそりと呟いた。
ジャストインタイム生産方式。
これは、現代日本で生まれた、製造業の有名な仕組みだ。
必要なものを、必要な時に、必要な量だけ、生産する。
無駄な在庫を、抱えない。
だから、コストが下がり、品質が、上がる。
いま、カイルがやっているのは、これに、似ている。
必要な情報を、必要な時に、必要な量だけ、収集している。
無駄なリソースを、使わない。
極めて、効率の良い、敵だ。
俺は写本帳を引き出しの、奥に、しまった。
そして、新しい羊皮紙にまた、ピラミッドを、描き始めた。
頂点に「カイル対策」。
根拠の柱、一本目「情報の二重化」。
二本目「敵の利権の特定」。
三本目「教会との切り離し」。
書きながらふと、頭の中で、ベルントの言葉が響いた。
「不正は、ずれとして、見える」
俺はふっと笑った。
「あいつだって、不正してれば、必ず、ずれる」
その夜、寝室に戻ろうとした、その時。
廊下の角で、誰かと、ぶつかった。
「あっ」
小さな悲鳴。
ぶつかったのは、王女マリエルだった。
「マリエル様。失礼を」
「いえ、こちらこそ」
彼女は、寝衣の上に、薄い羽織りを纏っていた。
こんな深夜に、彼女が、廊下にいるのは、奇妙だった。
「お散歩でしょうか」
「はい、その。寝つけなくて」
彼女は、はにかんで、目を伏せた。
だが、目線が、いつもよりずっと、自然だった。
あの東屋で見せた、ぎこちない笑顔の延長線にある、彼女自身の表情。
「リシュ殿。あの日の、御問いを」
「はい」
「ずっと、考えておりました」
「ほう」
「私が欲しいものは、たぶん。誰かに、私自身として、見られること、です」
彼女はぽつりと答えた。
俺は深く頷いた。
「もう、見られています」
「えっ」
「俺はいま、マリエル王女ではなく、ただのマリエルさんを見ています」
彼女は、目を見開いた。
それから、両手で、口元を、覆ってわずかに、震えた。
「リシュ殿は本当に、不思議な御方ですね」
その夜、廊下に、月が、差し込んでいた。
彼女の薄い色の髪が、月光に、淡く、輝いていた。
俺はそのまま、彼女と何も、言わずにしばらく、立っていた。
「リシュ殿、御忠告を」
彼女はふと、声を、落とした。
「カイル殿には、お気をつけください」
「はい」
「あの方は、私の婚約者の、候補に、挙げられております」
俺はその情報に、思わず、息を止めた。
「お気をつけて、リシュ殿。お休みなさい」
王女は深く頭を下げて、自分の寝室の方角へ、消えていった。




