第十一章 国境地帯と兵站の崩壊
魔王軍が国境を侵し始めたという報せは、その翌週、王宮に届いた。
その日、俺は財務局の会議室で、複式簿記の研修を、終えたばかりだった。
急に、伝令の騎士が駆け込んできた。
ローラン伯爵の補佐官が青ざめた顔で、伝令の書状を俺の手に押し付けた。
「リシュ殿、緊急事態でございます」
「と、申すと」
「東国境、ベルジア要塞からの緊急の救援要請です」
書状を開いた。
そこには、簡潔に、こう、書かれていた。
「魔王軍の先遣隊、約三千。要塞の外壁に迫りつつあり。兵糧、矢、医療物資、いずれも極度に欠乏。至急、救援を請う」
俺は書状を、ローランに渡した。
「これは、まずいですね」
「はい」
その夜、緊急の宮廷会議が招集された。
玉座の前に、宰相、財務大臣、軍務大臣、そして宮廷筆頭魔術師カイル、その他十数名の貴族が集まった。
俺も財務改革の担当として、末席に、呼ばれた。
「軍務大臣。前線の兵站状況を報告せよ」
国王がしわがれた声で、命じた。
軍務大臣のヴェルナー伯爵は汗を、額に、滲ませながら、報告した。
要塞の備蓄は二週間分しかない。
矢は千本足りない。
医療品はほぼ、底をついた。
兵の士気は最悪。
「援軍は出せるのか」
「ええ、王都から一万の援軍を編成中でございますが」
「兵糧の輸送は」
「それが、その。輸送ルートをどう確保するか、現在検討中でございます」
国王が舌打ちをした。
「現在検討中」というのは要するに、何も決まっていない、ということだった。
そのとき。
玉座の右側から、カイルが静かに進み出た。
「陛下、僭越ながらひとつ、ご提案を」
「申せ」
「兵站の問題は極めて、複雑であります。これを最も的確に整理できる御方が、本日この場におられます」
カイルはにこやかに、俺を振り返った。
「リシュ殿。貴殿の整理術をぜひ、ベルジア要塞でお役立ていただきたい」
会議の場がざわめいた。
これは明らかな左遷だった。
財務改革の担当を、戦場の補給係に回す。
表向きは、最高の人材を最も困難な現場に送る、という体裁。
だが、内実は、俺を王都から、引き剥がす、という戦術。
俺は軽く笑った。
「お任せください」
その答えをすぐに、出した。
カイルの目が、ほんの一瞬戸惑った。
彼は俺が拒むか、躊躇うか、を、想定していたらしい。
だが、俺は即答した。
「では、明朝出立を」
カイルが深く頷いた。
彼の口角は、いつもより、わずかに強く、上がっていた。
その夜。
俺は王宮の客室で、荷物を、まとめながらなぜか、気分が、軽かった。
王宮の灰色の財務改革より、戦場の補給係の方がたぶん、性に、合っている。
俺は火消し屋だった。
炎上案件で、こそ、本領を発揮する。
ベルジアまでは、馬車で、六日。
最短ルートで、五日。
俺はそれを、四日で、走らせる予定だった。
明け方、王宮を、発つ前。
中庭の薔薇園で、マリエル王女がぽつんと、立っていた。
彼女は、俺の馬車を見送りに、来ていた。
「リシュ殿」
「マリエル様」
「ご無事で、お戻りを」
「必ず」
王女は白い薔薇を、一輪、俺の馬車の御者台に、置いた。
「お守りに」
「光栄です」
俺は頭を下げた。
馬車が、王宮の門を、抜けた。
ベルジア要塞は、東の山岳地帯にあった。
六日の街道は、雪が、深かった。
俺は護衛の騎士、十名と、ローランの補佐官、一名を、連れて、走り続けた。
街道の途中、宿場で、休んだ。
夜、宿屋の主が、俺に薄いスープを差し出した。
スープには、肉がほとんど、入っていなかった。
「貴族様、すみません。最近、軍が、すべての肉を、徴発するもので」
「徴発ですか」
「ええ、要塞向けの兵糧として、街道沿いの村から、家畜が、根こそぎ」
俺はその情報に、眉を寄せた。
徴発の名のもとに、街道沿いの村々が、貧窮している。
これは、戦争の常套手段だが、長く続けば、村が、餓死する。
「村は、どうやって、生きているんですか」
「冬の貯えと、運がよければ、街道を行き来する商隊から、闇市で、買い付けます」
「闇市」
「ええ、軍に、見つからないように」
俺は頷いた。
すぐに、頭の中で、課題が、整理された。
徴発の量。
徴発のルート。
徴発される側の村の、生存条件。
これをすべて、可視化しないと、補給の本質的な問題は、解決しない。
俺は宿屋の主に、礼を言って、執筆用の羊皮紙を、机に、広げた。
そして、新しいピラミッドを書き始めた。
頂点に「ベルジア兵站の本質的解決」。
根拠の柱、一本目「補給の見える化」。
二本目「徴発の最適化」。
三本目「現地調達の組織化」。
さらに、その下に、補強事実を、九つ。
書きながら、現代日本のジャストインタイム生産方式と、軍事の補給を、頭の中で、組み合わせていた。
必要なものを、必要な時に、必要な量だけ、要塞に、届ける。
そのためには、街道全体を、一つの工場の生産ラインのように、扱う必要がある。
俺はふっと笑った。
これは、たぶんもう、コンサルの仕事ではなく、戦争の、本物の現場仕事だった。
だが、本質は、同じだった。
四日目の夕方。
俺たちは、ベルジア要塞の、最初の見張り塔に、到着した。
見張り塔の兵士は、全員、痩せていた。
顔色は、土気色。
目にはほとんど、生気がなかった。
俺はそれを見て、足を止めた。
ここはすでに、半分、死んでいる。
俺はベルトの中の、エマの写本帳を握りしめた。
それから深く息を、吸い込んだ。
「火消しの、出番だ」
ぼそりと呟いた。
ベルジア要塞の中は、想像していた以上に、酷い、状態だった。
中庭で、若い兵士が、二人、地面に、座り込んでいた。
痩せた手で、白いカビの生えたパンを、半分にちぎって、互いに渡し合っていた。
一人が、それを、噛み砕いた。
もう一人は、それを、ただ、見ていた。
「お前、食え」と、その目が、言っていた。
俺は要塞の指揮官、ロデリック将軍に案内された。
将軍は五十代の、首の太い、堅実な軍人だった。
だが、彼の頬も、痩せていた。
「リシュ殿。ありがたい、御出立を」
「将軍。早速ですが、各部の備蓄量、徴発の頻度、敵軍の動向すべて、数字で、把握されていますか」
「は、はあ、まあ、なんとなく」
「具体的には」
「具体的には、その、書類は、各分隊長が、別々に、管理しております」
俺は頷いた。
予想通りだった。
情報が、組織の中で、分散して、誰も、全体像を、把握していない。
これは、ベルントが最初に、領地で、抱えていた問題と、まったく、同じだった。
「将軍。明日から、二日間、ください」
「と、申されますと」
「すべての分隊長を、要塞の中央広間に、集めてください。私が情報を、一枚にまとめます」
ロデリック将軍はしばらく、俺を見つめていた。
それから深く頷いた。
「貴殿の御要望すべて、お任せいたします」
翌朝。
要塞の中央広間に、二十三名の、分隊長が、集まった。
彼らは、それぞれ、自分の担当部署の書類を、持参していた。
合計、五十冊以上の、台帳。
俺は彼らに、自己紹介をした。
そしてすぐに、本題に入った。
「皆さん、これから、二時間、お時間をいただきます」
俺は巨大な黒板を、広間の中央に、設置させた。
黒板に、まず、横軸に、日付を書いた。
縦軸に、項目を書いた。
兵糧、矢、薬品、銀貨、兵員数、敵軍の出現回数、要塞外の村との交易。
「皆さん、御自分の台帳から、これらの数字を、口頭で、教えてください。一人ずつ、回りましょう」
最初は、戸惑っていた分隊長たちだが徐々に、慣れていった。
俺が黒板に、数字を書き込むたびに、彼らは、初めて見る「全体像」に、目を見開いた。
二時間後。
黒板に、要塞の現状が完全に、可視化された。
「皆さん、見えますか」
分隊長たちが頷いた。
「兵糧、あと、八日分です。矢、あと、四百本」
「は、はい」
「薬品もう、ない」
「は、はい」
「敵軍、過去十日で、三回、接触。次回は、明後日と、推定される」
「は、はい」
「対して、王都からの援軍は、最低でも、十二日後」
広間が、しんと、静まった。
「皆さん、このままでは、要塞は、援軍が、来る前に、落ちます」
分隊長の何人かが、目を伏せた。
「ですが、解決策は、あります」
俺は別の羊皮紙を広げた。
「現地調達の組織化です」
要塞の周辺の村々から、補給を、計画的に、徴収する。
ただし、これまでのような、無計画な徴発ではなく、村の生存に、必要な分を、必ず、残す。
代わりに、王宮への口添えを、約束する。
「これは、徴発ではなく、契約です」
俺は続けた。
「契約の文書を、各村と、結びます。徴収量、回数、対価。すべて、紙に、残します」
ロデリック将軍が目を見開いた。
「リシュ殿。それは、これまでの軍の習慣を、根本から、変えるご提案でございます」
「ですが、戦争に、勝つには、必要です」
「は、はい」
「将軍、御許可を」
「許可、いたします」
その日のうちに、村々への使者が、走り出した。
俺自身も、最も近い三つの村を、自ら、訪ねた。
村長たちに、契約の意義を、説明した。
最初は、警戒していた村長たちは、契約書という、紙の上の約束を見て徐々に、納得していった。
四日後。
要塞には、街道沿いの村々から、整然と、補給が、届き始めた。
パン、塩漬けの肉、薬草、矢、すべてが、計画通りに、入ってきた。
兵士たちの、顔色が、少しずつ、戻り始めた。
「リシュ殿」
ロデリック将軍が満面の笑みで、俺を迎えた。
「貴殿は、まさに、戦の天才でございます」
「いえ、ただの整理術です」
「整理術、と申されましても」
「将軍、これからの戦争は、戦闘ではなく、補給で、決まります。それを、皆さんが、信じてくれれば、必ず、勝てます」
将軍は頷いた。
頷きながら、彼は目を潤ませていた。




