第四章 フレームワーク一枚で領地を救う
地下書庫は、まるで時が止まっていた。
ベルントが鍵を回す金属の音。
重い樫の扉が、低く軋みながら開く。
俺たちは三人で、ランタンを掲げて、階段を降りた。
埃の匂い。
古い紙と、湿った石と、わずかにかび臭い。
何百年も誰も足を踏み入れなかった部屋特有の、時間そのものを呑み込むような匂いだった。
地下二階分の、巨大な石造りの部屋。
壁という壁が、書架だった。
革表紙の写本、巻物、皮の管に収められた地図、そして、何かよくわからない、銅の円盤のようなもの。
「これは、すごい」
俺は素直に呟いた。
ホワイトボード六年生の俺にとって、これは、宝石店のショーウィンドウのような場所だった。
エマはすでに目を輝かせて、書架の一つに、吸い寄せられていた。
「ベルント様、こちら、ご覧ください」
エマが指したのは、薄い革表紙の本だった。
タイトルに、見たことのないしかし、なぜか目を惹く幾何学模様の刺繍が施されていた。
ベルントはその本を、慎重に取り出した。
広げた瞬間に、俺は息を呑んだ。
書かれていたのは、巨大なピラミッド型の図だった。
頂点に一つ、根拠の柱が三本、その下に補強事実が九つ。
俺が何百回となく、ホワイトボードに描いてきた、あのピラミッド・ストラクチャーと、まったく同じ構造だった。
ただし。
各項目に書かれていたのは、現代日本語ではなく、見たことのない古代文字だった。
そして、本の隅には、こう注釈が打たれていた。
「世界再構築の魔導陣、頂点式、第一型」
「……は?」
俺は声を漏らした。
「リシュ様、これは、つまり」
エマも震えていた。
「これは……魔導陣の構造、なんだな」
「はい。世界の根源を整理する形と、伝わっております。古代では、これを書ける魔導士が、王のそばに必ず一人いたと」
俺はぱらぱらと、ページをめくった。
二ページ目。
そこには「四象限分析の魔導陣」と書かれていた。
四つの箱が、十字の軸の上に配置されている。
コンサル業界の「SWOT分析」と、まったく同じ配置だ。
強み、弱み、機会、脅威。
ただし、書かれている用語は、古代文字でたぶん、別の概念だ。
三ページ目。
「ロジック・ツリーの分岐魔導陣」。
木のように、命題を細かく分解していく図。
これも、コンサルのフレームワークと寸分違わない。
俺はページをめくる手が止まった。
「ベルント。これらの魔導陣って、いつから誰も使えなくなったんだ?」
「百年ほど前から、と聞いております。教会が、これらの陣を『悪魔の幾何学』として禁書指定しまして」
「悪魔の幾何学」
「神の御加護をくぐり抜ける論理術である、と」
俺はふっと笑った。
それ、ただの整理術だぞ。
論理的に考えるための、ただの図形だぞ。
「……禁書扱いか」
「はい」
俺はその本を閉じて、書架に戻した。
だが、別の一冊を、抜き取った。
それは、巻物だった。
広げると、人物像のシルエットと、その下に、何かの値が並んでいる。
「これは?」
「冒険者の評価表と、見たことがあります。古代では、職能を、五つの数値で測ったとか」
俺は鼻歌が出そうになった。
これ、KPIの設計表だ。
業績指標、達成度、項目別評価。
コンサルが企業の人事制度を作るときに、何度も組んできた表と、ほぼ同じだ。
「ベルント。明日、冒険者ギルドを訪ねたい。アポは取れるか」
「アポ、と申されますと」
「会う約束だ」
「はい、すぐに使いを出します」
俺はその巻物を、慎重に巻き戻した。
地下書庫の奥のさらに奥に、もう一つの石の扉があった。
俺はそこに、ランタンを向けた。
鉄の鍵穴。
そして、扉そのものに、ピラミッド型の溝が、彫り込まれていた。
だれかが、頂点を一つと、根拠を三つと、補強事実を九つ、彫り込んだ跡。
ぴたりと、俺の頭に、何かが、ひらめいた。
「ベルント、この扉、開かないのか」
「いえ、ここの鍵は失われたと、伝承で。先代様もお開けになれませんでした」
俺はふっと笑った。
「鍵じゃないんだろうな、たぶん」
俺は書庫の真ん中の机に戻った。
そこに、新しい羊皮紙を広げて、ピラミッド型の図を描いた。
頂点に「アステリス領、来期年度の方針」。
根拠の柱、一本目「衛生改善」。
二本目「会計の透明化」。
三本目「人材の見える化」。
補強事実、それぞれに三つずつ。
書き終えた紙を、扉の前まで持っていった。
そして、扉の溝に、紙を軽く、押し当てた。
ごくと、扉の奥で、何かが、動く音がした。
ベルントが息を呑んだ。
エマが悲鳴を、辛うじて噛み殺した。
扉がゆっくり、開いた。
中は、小さな部屋だった。
机が一つ。
椅子が三脚。
そして、壁一面の、銅で作られた、巨大な「ホワイトボード」。
俺はそれを見て、思わず、声を上げて笑った。
「これ、俺の職場じゃないか」
ベルントとエマは俺の笑い声の意味が、まったく、理解できないらしく、ただ、頬を青ざめさせて、立ち尽くしていた。
その部屋の奥の壁に、一行だけ、古代文字で、こう書かれていた。
「フレームワークすなわち、世界を整える型」
俺はそれを、リシュの記憶の中の翻訳機能で、読み解いた。
読み解いた瞬間に、背筋が、ぞくりとした。
これは、ただの偶然じゃない、たぶん。
俺の議事録は、この世界では、本物の世界を整える型として、機能している。
──そして、その夜。
俺はその銅の壁の前に立って改めて、領地再建の最初の三ヶ月計画を書き出し始めた。
ベルントが横で台帳をめくっていた。
エマが清書帳を握りしめて、息を整えていた。
灯りに浮かぶ三つの影が、銅の壁に、ゆらゆら、揺れていた。
夜半。
銅の壁は、灯りを反射して、淡い橙に光っていた。
俺はピラミッドを、もう一段、深く下に伸ばしていた。
補強事実のさらに下に、「実行責任者」と「期限」を書き込んだ表。
これは現代では「ガントチャート」と呼ぶ進捗管理の形式だ。
「ベルント。これ、明日から、領内のすべての作業に適用する」
「すべてですか」
「ああ。誰が、いつまでに、何をやるのか。曖昧にしない」
俺は銅の壁に書いた表を、指で叩いた。
カーンと、低い音が、書庫に響いた。
「お屋敷に、こんなにも作業が分けられるとは、思いも寄りませんでした」
ベルントがしみじみと言った。
「物事は、分けると、急に動きが早くなる。これたぶん、古代の魔導士も知ってたんだろう」
俺は壁の隅の、もう一つの古代文字を指した。
そこには「分業の魔導陣、別名、流れ作業の式」と書かれていた。
「現代日本だと、これは『分業と専門化』って呼ぶ」
俺はぽつりと言ってしまってから、慌てて、口を閉じた。
ベルントの目がわずかに、細くなった。
「坊ちゃまは、いったい、どこで、こうした知見をお身に着けに」
「夢で見たんだ」
「夢でですか」
「ああ、夢で。何度も、同じ夢を見るんだ」
それは、嘘ではなかった。
俺は実際、現代日本の記憶を、夢のように見ながら、いま、ここに立っている。
ベルントはそれ以上は、何も尋ねなかった。
ただ、深く頷いて、台帳に、夜空の星を写すように、俺の言葉を書き留めていった。
エマはいつの間にか、椅子の上で、こくりと、舟を漕ぎ始めていた。
俺は彼女の肩に、厚い羊毛のショールをかけてやった。
「リシュ様」
老人の声が低く、囁いた。
「いまの坊ちゃまは、亡くなられたお父上様より、十倍は、賢明でいらっしゃる。これは、おそらく、私の最後の主君となる方の御姿でございます」
老人の言葉は、感情を抑えていたけれど、底に、深い泉のような何かがあった。
俺はそれを、胸の奥にしまった。
そして、銅の壁に、もう一行だけ、書き加えた。
「期限、六ヶ月。失敗しない」
朝が来るまで、俺はそこに立っていた。
陽が、東の山から差してきた。
書庫の階段の上、踊り場のステンドグラスから、赤い光が、銅の壁を斜めに射した。
銅の表面に書かれた俺のピラミッドが一瞬、燃えるように赤く光った。
エマが目を覚まして、それを見て、声を失った。
「リシュ様。これは、本当に……」
彼女は、その先を、言葉にできなかった。
俺は銅の壁を、軽く撫でて、笑った。
「ただの、議事録だ。世界はね、整理されてないだけで、ちゃんと、ある形をしてるんだよ」
それは、新人の頃に、初めての上司から言われた言葉だった。
俺はその言葉に長らく、救われてきた。
そして、いま、それを、別世界の少女に、そのまま渡している。
朝の鐘が、領都の塔から、低く響いた。




