第二十一章 帰還の代償と、別れの夜
意識がまたふっと、戻った。
それは寝室の天蓋の下ではなかった。
銀色の虚空、だった。
無数のピラミッド構造の図形が、整然と虚空に浮かんでいた。
俺はその中央にぽつんと立っていた。
「リシュ」
声が聞こえた。
振り返ると、初代アステリス公爵の影がまた、立っていた。
「御祖父様」
「短いお別れであるな」
「はい」
「ここは世界と世界の狭間である」
「狭間」
「然り。お前の魂はいまから、元の世界に戻る」
「はい」
初代様の影が深く頷いた。
「リシュ、最後に一つだけ、伝えておく」
「はい」
「お前は、元の世界に戻ったあと、こちらの世界の、すべての記憶を、持ち帰る」
「全部ですか」
「然り。だが、それは、夢のように、薄い記憶である。お前は、いつでも、それを、引き出せるが、日常ではたぶん、忘れている」
「ふむ」
「だが、一つだけはっきり、思い出すきっかけがある」
「と、申されますと」
「お前が誰かのために議事録を書こうとした時。あるいは、誰かがお前の議事録を必要としている時」
「ふむ」
「その瞬間、お前はこちらの世界のすべてを思い出す」
俺は深く頷いた。
「もう一つ、伝える」
「はい」
「お前の、向こうの世界の肉体は、いま病院の集中治療室にある」
「ふむ」
「医師たちは、お前の意識がいつ戻るか分からぬ状態であった」
「うん」
「だが、お前の魂が戻ることで、肉体は目覚める。そして、お前は二度と過労死しない」
「は、はい」
初代様の影がふっと笑った。
「リシュ、お前の人生に幸あれ」
「御祖父様、ありがとうございました」
俺は深く頭を下げた。
「最後に」
「はい」
「向こうの世界に戻ったら、まず、何を、為すつもりであるか」
俺はしばし考えた。
それから答えた。
「会社を辞めます」
「ほう」
「そして、自分の名前で、小さなコンサル会社を、立ち上げます」
「コンサル」
「ええ。中小企業の財務改革をお手伝いします。父さんが救えなかった町工場のような会社を、一社でも多く救うために」
初代様の影が深く頷いた。
「正解である」
虚空がわずかに、揺らいだ。
俺の足元の、銀色の光が徐々に、消え始めた。
俺の体がまた、半透明から徐々に、別の何かに、変わり始めていた。
「行け、リシュ」
「はい」
「ただし、自分のために生きるのを、忘れるな」
「忘れません」
初代様の影がふっと、消えた。
虚空が急速に白く変わった。
そして、白い光の中で、俺はある、別の声を聞いた。
それは、エマの声だった。
「リシュ様、ありがとうございました。私は必ず、王立図書館を、建てます」
それから、ベルントの声。
「坊ちゃま、領は必ず守り抜きます。後の世まで」
ナタリアの声。
「貴族様、来年Aランクになる。約束だ」
ドリアンの声。
「貴族様、ギルドはこれからも、貴族様の仕組みで動かしていく」
マリエル王女の声。
「リシュ殿、私が生きている間に、王国を、変えてみせます」
ローラン伯爵の声。
「リシュ殿、財務局を必ず、健全な組織にいたします」
ザイラスの声。
「リシュ殿、魔王国は永遠に、貴殿の恩を忘れぬ」
そして、最後に。
カイルの声が聞こえた。
「相沢、お前みたいに生きてみる。たぶん無理だろうけど。でも、生きてみる」
俺は白い光の中で深く頷いた。
「皆、ありがとう。元気で」
それはたぶん、俺の声、ではなくて。
俺とリシュ・アステリスの、二人の声が重なった声だった。
白い光が爆発的に強くなった。
そして徐々に、別の色に、変わり始めた。
それは、薄い橙色だった。
それはたぶん、現代日本の、病院の、蛍光灯の色だった。
── ── ──
意識の流れの中で、俺はもう一度、辺境の領主館の、自分の寝室に戻った。
時間が、巻き戻ったのだ。
たぶん、消える前夜の、最後の数時間に。
寝室の扉が、コツと、ノックされた。
俺はベッドから、起き上がった。
扉を開けると、エマが立っていた。
「リシュ様、最後の夜に、御一緒に、いて、よろしいですか」
彼女は、両手で、写本帳を抱きしめていた。
頬には、涙がすでに、流れていた。
「もちろん、エマ」
俺は彼女を、寝室の、暖炉の前の椅子に、座らせた。
暖炉の中で、薪が、ぱちんと、はじけた。
炎の橙色が、エマの頬を照らしていた。
「エマ、なぜ、こんなに、遅くに」
「眠れなかったのでございます」
「同じだ。俺も眠れない」
俺は向かいの椅子に、腰を下ろした。
「リシュ様」
「ん」
「私たぶん、リシュ様の御故郷では、生まれていません」
「うん、たぶん」
「では、私はリシュ様の、夢、でしか、お会いできません」
「うん」
エマは写本帳を、ぎゅっと、抱きしめた。
「それでも、私、リシュ様の、議事録を、写し続けます」
「うん」
「いつか、私が年老いて、死ぬ時。リシュ様の議事録が、王国の、すべての領地に、行き渡っているように、します」
「君なら、できる」
エマは頷いた。
頷いてしばらく、暖炉の炎を見つめていた。
炎が、彼女の瞳の中で、ちろちろと、揺れていた。
「リシュ様」
「ん」
「最後に、一つだけ、お聞きしてもよろしいですか」
「うん」
「リシュ様の御故郷には、リシュ様を、待っている御方が、いらっしゃるのですか」
俺はしばし、答えに、詰まった。
そして、答えた。
「いない」
「では」
「だから、戻ってからゆっくり、探そうと、思ってる」
「探すと、申されますと」
「自分のために、一緒に、生きてくれる人を」
エマは頷いた。
頷きながら、彼女の頬をもう一筋、涙が流れた。
「リシュ様、私はお慕い、申し上げておりました」
「うん」
「ですが、私はたぶん、リシュ様の半年の中に、いて、リシュ様の議事録の、最初の写本者として、生きられただけで、十分でございます」
「エマ」
「いえ何も、おっしゃらないで」
彼女は微かに、首を横に、振った。
「私はリシュ様の御故郷の、御方の、御幸せを、お祈り、申し上げます」
俺は深く頷いた。
頷きながら、自分の頬にも、一筋、涙が、流れているのを感じた。
「エマ、ありがとう」
「いえ、こちらこそ」
俺たちはしばらく、暖炉の前で、黙って、座っていた。
薪が、何度か、はじけた。
窓の外、夜がゆっくり、明けていった。
明け方の、最初の鳥が、屋根の上で、ちゅんと、鳴いた。
「リシュ様」
「ん」
「もうすぐ、夜が、明けます」
「うん」
「私もう、戻ります」
「うん」
エマが立ち上がった。
扉の前で、彼女は、振り返って深く頭を下げた。
「リシュ様、御無事で、御故郷へ」
「君も、元気で」
エマが扉を閉めた。
彼女の足音が、廊下を徐々に、遠ざかっていった。
俺は暖炉の前でしばらく、座っていた。
それからゆっくり、ベッドに戻った。
ベッドに、横たわって、目を閉じた。
意識がまた、白く、霞んでいった。
意識が、薄れていく中でもう一度、別の場面が、頭に、浮かんだ。
それは、エマが訪ねてくる、前の夜の、屋上の場面だった。
俺は屋上で、夜空を見上げていた。
そこに、ナタリアが登ってきた。
彼女は、手に、剣ではなく、葡萄酒の瓶を、二本、握っていた。
「貴族様、最後の夜だ。一杯、付き合え」
「いいね」
ナタリアと、俺は屋上の手すりに、肩を並べて、葡萄酒を飲んだ。
冬の夜風が、頬を撫でた。
「貴族様、お前、戻ったら、ちゃんと、女、見つけろよ」
「ふん」
「Bランクの女騎士の言うことだ。間違いない」
「Aランクになる予定じゃなかった?」
「ああ、来年だ。だから、今夜はまだ、Bだ」
ナタリアは葡萄酒を、ぐびと、飲んだ。
それからぼそりと付け加えた。
「貴族様、向こうの世界で、見つけた女に、もしも、俺の話を、するなら」
「うん」
「いい女だったと、伝えておけ」
「ああ、伝える」
ナタリアは笑った。
強気な笑顔の底にわずかに、寂しさが、滲んでいた。
その後、彼女は、屋上を降りていった。
彼女の赤い髪が、月光に、揺れて、消えた。
──そして、もう一つ、別の場面。
マリエル王女が屋上に、登ってきた、別の夜。
彼女は、白い薔薇を、一輪、持っていた。
俺の手の中に、それを、そっと、置いた。
「リシュ殿、御故郷で、お忘れ、ください」
「忘れる?」
「ええ。私のことも、リシュ殿の半年の、すべての出来事も」
「なぜ」
「リシュ殿は、御故郷で、新しい人生を、始めるべきでございます。私たちのことを、覚えていたらたぶん、御邪魔になります」
俺は首を横に、振った。
「忘れません」
「リシュ殿」
「忘れたらたぶん、俺はまた、過労死します」
「えっ」
「皆さんを、覚えていることが、俺のこれからの、人生の、骨組みです」
マリエル王女は深く頷いた。
頷きながら、彼女の頬に、涙が流れた。
「リシュ殿、その骨組みが、ピラミッド、ですね」
「ええ」
「私も覚えております。リシュ殿のことを」
「ありがとう」
白い薔薇の花弁が、月光に、銀色に、輝いていた。
──そして、最後の場面。
ベルントが領主館の玄関で、俺を見送った。
彼は白髭を、震わせながら深く頭を下げた。
「坊ちゃま。もう、二度と、お会いできないこと、覚悟しております」
「うん」
「ですが、坊ちゃまの御教えは、私が生涯、守り抜きます」
「うん」
「アステリス領は、坊ちゃまの記憶と共に、永遠に、ございます」
「ベルント」
「は」
「君のおかげで、半年、生きられた。ありがとう」
ベルントは深く頷いた。
彼の白髭が、朝の光に、銀色に、輝いていた。
それが、俺の半年の、最後の、見納めの、光景だった。




