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徹夜明けの経営コンサルが異世界転生して、議事録一枚で滅亡寸前の王国を救った件  作者: もしものべりすと


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第二十二章 徹夜明けの月曜日、午前四時十八分

「相沢さん!相沢さん!」


声が遠くから聞こえた。

誰かが俺の肩を揺すっていた。

俺はゆっくり目を開いた。


天井の蛍光灯。

白く清潔な天井。

鼻の奥に消毒液の匂い。


「相沢さん、目を開けてくれた!」


声の主は若い看護師だった。

彼女は俺の脇で、慌ててナースコールを押していた。


俺は自分の体を見た。

リシュの白く細い手ではなかった。

日焼けして節くれだった、二十八歳のサラリーマンの見慣れた両手。


ああ、戻ったのだ。


俺は深く息を吐いた。

胸が軽く痛んだ。

だが、その痛みはもう握り潰されるような鈍痛ではなかった。

ただの回復途中のリハビリの、痛みだった。


「相沢さん、気分は」


医師が駆けつけてきた。


「悪くはないです」

「奇跡ですよ、本当に。心停止からほんの一分の蘇生で」

「一分ですか」

「ええ。救急隊が心マッサージを始めた、ちょうど一分後に息を吹き返されました」


俺はまばたきを二回した。


一分。

たぶん向こうの世界の半年が、こちらの一分に相当した。

時間の進み方が違うらしいと、初代様もほんの一瞬ほのめかしていた気がした。


「相沢さん、月曜日の朝、四時十八分ですよ、ちょうどいま」

「あ、はい」


時計を見ると、確かに四時十八分だった。


俺が倒れた時刻はたぶん、四時十七分。

そこから一分しか経っていない、現代日本の時間軸では。

だが俺の中では半年、過ぎている。


それは奇妙な感覚だった。

だが慣れた。


検査入院の三日後。

俺は退院した。

そして家に帰る前に、まず会社に向かった。


オフィスのフロアに入ると、月村がデスクで書類を整理していた。

俺を見つけて、月村は爽やかな笑顔を浮かべて駆け寄ってきた。


「相沢、無事でよかった!」

「ああ」

「会社の皆も心配してたぞ。明日にでも、復帰の予定だって聞いてる」


俺は深く息を吸った。

そして、月村にまっすぐ向き直った。


「月村」

「ん?」

「俺、辞める」

「は?」

「会社を、辞める。本日付で」


月村の爽やかな笑顔が止まった。


「相沢、お前、何を言って」

「君の手柄横取りに付き合うのはもう、終わりにしよう」


月村が固まった。

彼の灰色の目が、わずかに揺れた。


俺はその揺れの中にふと、別のもう一人の月村を見た。

銀髪の宮廷魔術師の、最後の爽やかでない本物の笑顔の月村を。


「相沢、お前」

「君もたぶん、いつかわかる」

「わかる?」

「自分のために生きないと、誰のためにも生きられない、って」


俺は深く頭を下げた。

それから、自分の机に向かった。

机の引き出しを開けた。


そして。

そこに。

一冊の見覚えのある、薄い革表紙の写本帳があった。

表紙には金糸で、ピラミッドの紋様が刺繍されていた。


俺はそれを手に取った。

半年忘れていたはずの温度が、指先に戻ってきた。

表紙をなぞった。

冷たいはずなのに、なぜか温かかった。


ふと、写本帳の中の一頁を開いた。

そこには、エマの几帳面な筆跡でこう書かれていた。


「リシュ様、これはお守りでございます。御故郷でもお困りの時は、最初のピラミッドをご覧ください」


俺はそれをしばらく見つめていた。


頬に一筋、涙が流れた。


「ありがとう、エマ」


俺はぼそりと呟いた。


月村が俺の机の脇で、その様子をただ立ちすくんだまま、見ていた。

彼の口は何かを言いたそうに動いたが、結局何も出なかった。


俺は写本帳を鞄にしまった。

それ以外のデスクの上のものは、何も持っていかなかった。

名刺。

名札。

ホワイトボードの古いマーカー。

全部、机の上に置いた。


「相沢」


月村が最後に、低く声をかけた。


「お前、これからどうするんだ」

「自分で小さなコンサル会社を作る」

「コンサル」

「ああ。中小企業の財務改革を手伝う」

「父さんの町工場、みたいなのを?」


俺は頷いた。

月村はたぶん入社一年目の、ある夜の飲み会で一度だけ、俺が父さんの話をしたのを覚えていた。


「ああ。一社でも多く、救うために」


月村が何度も頷いた。

頷きながらなぜか、彼の頬に一筋、涙が流れた。


「相沢、応援する」

「ありがとう」


俺はフロアの扉の方に向かった。

扉を出る前に、振り返った。

月村がまだ俺を見ていた。


「月村」

「ん」

「もしお前も、自分のために生きたくなったら教えてくれ」

「ふぅん」

「俺の会社、お前みたいなやつも雇うから」


月村が爽やかな笑顔とは別の、本物の苦笑を浮かべた。


「考えとくよ、相沢」


俺は頷いた。

そして、フロアを出た。


ロビーでふと、スマートフォンを開いた。

別れた彼女からの、最後のメッセージ。

「あなたは仕事と結婚すればいいと思う」

俺はそれに返信を書いた。


「悪かった。会社、辞めたよ。良かったらもう一度、ご飯行きませんか」


送信ボタンを押した。


すぐに既読がついた。

そしてすぐに返信が来た。


「いいよ、行こう」


俺は笑った。

スマートフォンをポケットにしまった。


ビルの外に出た。

空は晴れていた。

六月の朝の八時。

朝の通勤の人々が、足早に街を歩いていた。


俺は深呼吸をした。

胸の奥に温かい何かが灯っていた。


ふと、自分の鞄の中の写本帳の、表紙の金糸を思い出した。

そして、その下にたぶん最後のページに、エマが書いてくれている皆の名前を思い出した。


ベルント、ナタリア、ドリアン、エマ、マリエル、ローラン、ザイラス、そして、カイル。


「皆、元気か」


俺はぼそりと呟いた。


たぶん皆、元気だ。

俺の議事録はいまも、辺境の領主館の地下書庫の銅の壁の上で、淡く光を放っているはずだった。


俺は新しい一歩を踏み出した。


それはピラミッドの、最初の補強事実だった。


頂点はまだ決めていない。

だが、それはこれから自分の手で書いていくものだった。


朝の風が街角を吹き抜けた。

俺は駅の方向に向かって、歩き出した。


── 完 ──



── ── ──


そして、半年後。


俺は新しいオフィスの、新しいホワイトボードの前に立っていた。

渋谷の片隅の、小さな雑居ビル。

六坪の、自分一人のコンサル事務所。

看板には「相沢経営支援事務所」と書いた。


ホワイトボードの前で、俺は新しい赤いマーカーを振った。

インクの匂いがした。

それは半年前の徹夜明けの、あの夜のホワイトボードの匂いと同じだった。


だが、何かが決定的に違っていた。


俺は頂点に、結論を書いた。

「クライアント、町工場、株式会社サワダ製作所、五年後の売上倍増」。

その下に、根拠の柱、三本。

一本目「在庫管理の見える化」。

二本目「複式簿記の徹底」。

三本目「分業と専門化の導入」。


新人研修と辺境のアステリス領で、教わったことの合わせ技。

これがたぶん、俺の新しい人生の最初の議事録だった。


クライアントの、サワダ社長は、六十代の、痩せた職人気質の男だった。

彼の工場は、父さんの工場と、似ていた。

銀行から、融資の打ち切りを、宣告された、ところで、俺の事務所に、駆け込んできた。


「相沢さん」


サワダ社長が、ホワイトボードの議事録を見て、息を止めた。


「これ本当に、五年で、できますか」

「できます」

「五年ですか」

「ええ。五年で、必ず」


サワダ社長の目に、涙が滲んだ。

彼は両手を深く、組んで、何度も頷いた。


「相沢さん、ありがとう、ありがとう、ございます」


俺は頷いた。


その夜、サワダ社長と、別れた後。

俺は事務所の窓辺で、別れた、彼女、いやもう、別れていない、彼女と、電話で、話していた。


「律君、今日は、どんな仕事だった?」

「町工場の、再建。五年計画」

「五年も、続けるの?」

「うん。続ける」

「えらいね」

「いや、別に、えらくない。これたぶん、俺が生まれてから、一番、楽しい、仕事だから」


彼女は、笑った。

電話の向こうで、彼女の笑い声が、明るく、響いた。


「律君、今夜、家、来る?」

「うん、行く」

「じゃあ、ご飯、作って、待ってる」

「うん」


電話を、切った。


俺は机の引き出しから、革表紙の、写本帳を取り出した。

表紙の、金糸のピラミッドが、夕暮れの最後の光に、温かく、輝いていた。

俺はそれをぱらりと開いた。

最後のページに、エマが書いてくれた、皆の名前。

俺はその下に、新しい名前を、一つ、書き足した。


サワダ社長の名前、だった。


これから、この写本帳には、たくさんの、新しい名前が、増えていく。

俺はそれを、楽しみに、していた。


ふと、窓の外を見た。

六月の夕暮れの、東京の街並み。

半年前、ぐったりと、後部座席で、見上げていた、あの空と、同じ空。

だが、今夜の空は、不思議と、明るく、感じられた。


「皆、ありがとう」


俺はぼそりと呟いた。

辺境の七人と、無数の人々への、感謝、だった。

そして、もう一人。

リシュ・アステリスへの、感謝。


写本帳を、ぱたんと、閉じた。

表紙の金糸の、ピラミッドの、頂点を、指で、ぽつんと、押した。


それはたぶん、俺の新しい人生の、最初の頂点、だった。


── 完 ──

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