第二十章 ピラミッド・ストラクチャー、最後の夜
その夜。
俺は領主館の応接室で、また一人、燭台を灯していた。
窓の外、辺境の夜空に無数の星が瞬いていた。
半年前の夜空とは、何かが違って見えた。
たぶん世界の修復で、空気が澄んだのだろう。
ノックの音がした。
「どうぞ」
扉が開いた。
入ってきたのは銀髪の男だった。
カイル。
「リシュ殿、お邪魔します」
彼は北に去ってから見ない間に、ずいぶん変わっていた。
宮廷服ではなく、簡素な旅人の服。
顔は煤も傷もなく、清潔だった。
目にはもう、爽やかな仮面の笑顔はなかった。
代わりに、穏やかな本物の目が宿っていた。
「カイル」
「相沢と呼んでも、いいか」
「ああ」
「相沢、世界の修復、おめでとう」
「ありがとう。なぜ、ここに」
カイルは椅子に腰を下ろした。
「魔王国の領土の、混沌の湧き出しが止まったのを北方で感じた」
「ふむ」
「お前がやったんだろうな、とすぐにわかった」
「ああ」
「だから最後に、会いに来た」
「最後に」
「お前、明朝、元の世界に戻るんだろう」
「なぜ、わかる」
「お前の体が半透明だ」
俺は自分の手を見た。
確かにもう、星の光が手のひらをすべて通り抜けて、机に影をほとんど落としていなかった。
「相沢」
「ん」
「お前に最後に、伝えておきたいことがある」
「うん」
「俺はお前にずっと嫉妬していた」
俺はまばたきを二回した。
「嫉妬?」
「ああ。新人研修の最初の日から」
「最初の日?」
「お前の議事録を最初に見た時、俺はわかった。こいつには絶対に勝てない、と」
カイルは自分の手を机の上に置いた。
彼の指は震えていた。
「だから俺はお前を踏みつけて、上に登ろうとした。お前の手柄を奪い、上司に自分のものとして報告し続けた」
「うん」
「お前はそれを、知っていたか」
「途中から知ってた」
「なぜ、止めなかった」
「止めるのが面倒だった。それにたぶん、俺は君を可哀想に思ってた」
カイルが息を止めた。
「可哀想、と」
「うん。誰かを踏みつけないと上に登れないというのは、たぶん世界でいちばん、つらい生き方だ」
カイルはしばらく何も言わなかった。
それから、机の上の自分の手の甲を、もう片方の手で軽く握った。
「相沢、お前は本当に変わらない」
「ふん」
「俺、こっちの世界で、北方の小さな村に住んでる」
「村に」
「ああ。村の子供たちに、字と算数を教えてる」
俺は軽く笑った。
「先生か」
「ああ、先生だ」
「お前、教えるの、得意か」
「下手だ。だが子供たちは、なんとかついてきてくれる」
カイルは苦笑した。
それから深く息を吐いた。
「相沢、お前のおかげで、俺は自分の本当の人生を、ようやく始められた」
「俺のおかげ?」
「ああ。お前が王宮で俺を追い詰めなかったら、俺はいまでも誰かを踏みつけて、上に登ろうとしていた」
俺は頷いた。
「カイル」
「ん」
「俺が元の世界に戻った後」
「うん」
「もし月村裕也の肉体がまだ、元の世界で生きてたら」
「うん」
「君のメッセージを伝えるよ」
カイルがふっと笑った。
「ああ、頼む」
彼は立ち上がった。
机の上に、一枚の小さな紙片を置いた。
そこには、たぶん何かのメッセージが書かれていた。
俺はそれを見ずに、写本帳の中にしまった。
「相沢、元気で」
「お前も」
カイルは扉の方に向かった。
扉を、出る前に、彼は振り返った。
「相沢」
「ん」
「俺、お前と、出会えて、よかった」
俺は頷いた。
「俺も同じだ」
カイルが扉を閉めた。
彼の銀髪が、扉の隙間で、最後に、揺れて、消えた。
俺は机の上に、両手を突いた。
深く息を吐いた。
気付くと、俺の頬を一筋、涙が、流れていた。
人生でたぶん、初めて、月村のために、涙を流した。
それは、奇妙な感覚だった。
だが、悪くなかった。
カイルが去った後、しばらくして、応接室の扉がまた、ノックされた。
「どうぞ」
入ってきたのは、マリエル王女だった。
彼女は、長い深い緑のドレスを纏っていた。
頭に、何の冠も、被っていなかった。
ただの十七歳の少女として、俺の前に、立っていた。
「リシュ殿、最後に、お話を、よろしいでしょうか」
「もちろん」
彼女は、向かいの椅子に、腰を下ろした。
燭台の橙色の光が、彼女の薄い色の髪を優しく、照らしていた。
「リシュ殿、御故郷に、お戻りに、なるのですね」
「ええ」
「向こうの世界では、リシュ殿は、何を、なさる御方なのでしょう」
「会社員、です」
「カイシャ、イン」
「ああ、すみません。商人と、文官の、中間のような、職業です」
「ふむ」
「私はいまたぶん、その仕事を、辞める、ところまで、戻ります」
マリエル王女は首を傾げた。
「お辞めに、なるのですか」
「ええ。一度、辞めて、自分の人生を、考え直したい、と思っていた、ところで」
「ふむ」
「こちらに、来ました」
「では、戻られた後、リシュ殿は、何を、お始めに」
「たぶん、自分で、小さな会社を、作って、いろんな人の、お悩みを、解決する仕事を、します」
「素敵でございますね」
「ええ」
「私もそのような、御方を、王国の中に、増やしたい」
「ふぅん」
「リシュ殿、これは、お約束、でございますが」
「うん」
「私が生きている間に、王国の中の、すべての領地に、リシュ殿のような、御方が、必ず、一人ずつ、いるように、いたします」
マリエル王女の声は、低かったが、強かった。
それは、もはや、王女の声、ではなく、未来の女王の、声だった。
俺は深く頷いた。
「マリエル様。あなたなら、必ず、できます」
「リシュ殿」
「うん」
「いえ。ただ、お礼を、申し上げます」
マリエル王女は立ち上がった。
そして深く、深く頭を下げた。
王女が貴族の三男に、これほどの、礼を、する光景はたぶん、王国の歴史でも、稀な、ものだった。
「リシュ殿、御無事で、お戻りを」
「ありがとうございます」
彼女が、応接室を出た後。
俺はまた、一人になった。
机の上に、写本帳を開いた。
最後の頁に、エマが書いてくれていた、皆の名前を見つめた。
ベルント・グレイ。
エマ。
ナタリア・ヴェルク。
ドリアン。
マリエル・アステリア。
ローラン・ベアトリス。
ザイラス。
ロデリック。
グスタヴ。
そして、無数の辺境の領民、ベルジアの村々の住人、王都の商人、街の冒険者の名前が、続いていた。
俺は一つずつ、名前を、指で、なぞった。
全員、覚えていた。
全員、顔と、表情が、思い浮かんだ。
これがたぶん、俺の半年の、すべての成果だった。
数字でも、書類でも、なく、人だった。
時計の鐘が、領主館の塔の上で、深夜を告げた。
俺は写本帳を、ぱたんと、閉じた。
そして、それを、机の上に、置いた。
これは、ここに、置いていく。
持ち帰ってもたぶん、向こうの世界では、ただの白い紙の束に、なる、はずだった。
俺は立ち上がった。
そして、寝室に向かった。
ベッドに、横になった瞬間に、俺の体はもうほとんど、半透明に、なっていた。
寝室の天井が、自分の体を、透けて、見えた。
「ありがとう、リシュ」
俺はぼそりと呟いた。
リシュ・アステリスの体に、半年間、住まわせてくれた、御礼を、リシュ本人に、伝えた。
返事は、なかった。
だがなぜか、温かいものが、胸の奥で、ぽつと、灯った。
リシュもありがとうと言ってくれている、気がした。
目を閉じた。
最後に、頭に、浮かんだのは、半年前、辺境の領主館の、寝室で、目覚めた時の、あの瞬間だった。
天蓋付きのベッド。
古びた手鏡。
見知らぬ青年の顔。
あの時、俺は自分が、何のために、ここに、いるのか、まったく、わかっていなかった。
あれから、半年。
俺は自分の人生をようやく、生き始めた。
他人のためにではなく、自分のために、生きるという、ただ、それだけのことを。
意識が徐々に、白く、霞んでいった。
窓の外、夜空に、星が、無数に、瞬いていた。
半年前の、あの夜と、まったく同じ星空、だった。
俺は目を閉じたまま、頭の中で、最後のピラミッドを描いた。
頂点に「自分のために、生きる」。
根拠の柱、一本目「人を、救う」。
二本目「自分を、救う」。
三本目「世界を、整える」。
それはたぶん、これからの俺の人生の、地図だった。
意識がふっと、白く、消えた。
辺境の夜が深く、静まった。
領主館の塔の上で、最後の鐘が低く、鳴った。
リシュ・アステリスの体がふっと、消えた。




