第十九章 魔王とフレームワークの真実
書庫を出た時、領主館の中庭にはすでに、領民が、集まっていた。
夜明けと共に、何かが変わったのを、皆、感じ取ったらしかった。
空気が、軽くなっていた。
冬の冷気の中にわずかに、春の予兆が、混じっていた。
それはまだ、辺境の二月の朝の、はずだった。
だが、空気の温度が、明らかに、二月とは、違う、優しさに、満ちていた。
「坊ちゃま」
ベルントが領民の前に、進み出た。
「皆の者。我が領主代行のリシュ様が、世界を、お救いになった」
領民たちが、静まり返った。
ベルントの声が、館の高い塀に、反響した。
「世界を、救った、と申されると」
最年長の村長が、首を傾げた。
「これから、我々は徐々に、わかっていくであろう。だが、確かなことは、これよりもう、魔王軍との戦争は、起きぬ」
ベルントの言葉に、領民たちが、ざわめいた。
「それから、我が領主代行のリシュ様は、世界を、救うために、御自分の体を、御犠牲に、される」
俺はベルントの方を軽く、振り返った。
ベルント、なぜ、それを、知っていると思ったが。
彼はただ深く頷いた。
「皆の者、リシュ様に、最後の御挨拶を、いたそう」
領民の、最前列の老女が両手を合わせた。
それを、合図に、領民全員が、片膝をついて、頭を垂れた。
八千人の領民が、一斉に、頭を下げた光景はたぶん、辺境の歴史でも、初めての、光景だった。
俺はその前に、立って深く頭を下げた。
「皆さん。ありがとうございました」
そうしか、言えなかった。
その日、午後。
俺はベルント、エマ、ナタリア、ドリアン、マリエル、ローラン伯爵、そして、ザイラスを領主館の応接室に、集めた。
「皆さん。初代様の最後のお言葉では、私は世界の修復が、終われば、元の世界に、戻ります」
七人の顔が、同時に、引き締まった。
「いつ、お戻りに」
エマが低く、聞いた。
「明朝、たぶん」
「そんなに、早く」
ナタリアが驚いた声を出した。
「ええ。初代様の影が消えた瞬間に、感じました。私の魂の、繋がりが徐々に、薄くなっていく」
俺は自分の手のひらを見た。
リシュの体の、白く、細い手。
それは確かにわずかに、半透明に、なり始めていた。
朝にはたぶん完全に、消える。
「リシュ様、それは」
エマが写本帳を、ぎゅっと、抱きしめた。
彼女の頬に、涙が流れた。
「悲しまないでくれ、エマ。これは、最初から、決まっていたことだ」
「は、はい」
「ただ」
俺は続けた。
「私が戻った後、この領地、この王国、そして、この世界の運営は、皆さんに、お任せします」
「お任せください」
「もちろん、お任せください」
「もちろん、貴族様」
七人が深く頷いた。
俺は頷き返した。
「ベルント、ナタリア、ドリアン、エマ。辺境のアステリス領は、これからも、皆さんで、運営してください。半年で、築いた仕組みはすでに、皆さんの中に、ある」
「は、必ず」
四人が深く頭を下げた。
「ローラン伯爵、マリエル様。王宮の財政改革は、お二人で、続けてください。商業ギルドの最高長老が、必ず、お力に、なってくれます」
「畏まりました、リシュ殿」
「リシュ殿」
マリエル王女が口を開いた。
「私はリシュ殿の御教えを、生涯、忘れません」
「マリエル様」
「私自身として、生きる、と」
「ええ」
「父上から、王宮の財政改革を、私が引き継ぐ許可を、いただきました。私はこれから、私自身の決断で、王国を、変えていきます」
俺は深く頷いた。
マリエル王女の目にもう、東屋で、最初に会った時の、無感情の光は、なかった。
代わりに、強い、王女としての、本物の威厳が、宿っていた。
「ザイラス陛下」
「うむ」
「魔王国と、人間の王国の、永久の同盟、お願い申し上げます」
「然り。我が民の名にかけて」
ザイラスは深く頷いた。
俺は七人を見渡した。
「皆さん、ありがとう」
ただ、それだけ、伝えた。
会議が、解散した後。
俺は領主館の屋上に、一人で、登った。
辺境の冬の風が、頬を撫でた。
痛いほどに冷たい。
だが、不思議と心は温かかった。
足音が後ろから聞こえた。
振り返ると、ベルントが立っていた。
「坊ちゃま」
「ベルント」
「最後に、一つ、お話を、しても、よろしいですか」
「もちろん」
ベルントは屋上の手すりに、両手を置いて、領都を見下ろした。
領都の街並みは、半年前とは、まったく、別の光景に、なっていた。
道は、整然と、舗装されていた。
家々の煙突から、健康的な、炊事の煙が、立ち上っていた。
子供たちが、広場で、走り回っていた。
「坊ちゃまがいらした半年前」
「うん」
「私は毎晩、寝る前に、領が来年まで持たぬと、覚悟しておりました」
「うん」
「ですが、いまは、領が十年、いや百年は続くとと、確信しております」
ベルントの声は低く、しかし、確かだった。
「坊ちゃま、御感謝の言葉もございません」
「いや、ベルント。むしろ、俺の方が、君に、感謝してる」
「私にですか」
「君が、最初から、俺を信じてくれた。あれが、なければ何も、始まらなかった」
ベルントが目を伏せた。
彼の白髭がわずかに、震えていた。
「坊ちゃま、元の世界に、お戻りになった後」
「うん」
「お元気で」
「うん」
それだけしか、二人とも、言えなかった。
ベルントが屋上を降りていった後。
入れ替わりに、ナタリアが屋上に、登ってきた。
「貴族様、こんなところにいたのか」
「うん」
「私、貴族様に礼を言いたくて」
「礼?」
「ああ。あの、ギルドのKPIの仕組みを、教えてもらった日」
「ふむ」
「俺、本当はその日の朝、ギルドを辞めるつもりだった」
俺はまばたきを二回した。
「Bランクのままずっと、報われない毎日に、嫌気が、差していた」
「うん」
「だが貴族様が突然来て、評価制度の話をした。あの瞬間に、俺まだ、頑張れると思った」
「そうか」
「貴族様本当に、ありがとう」
ナタリアはぶっきらぼうに、頭を下げた。
だが、彼女の声は震えていた。
「ナタリア」
「ん」
「君はたぶん、来年、Aランクになる」
「もちろん、当然だ」
ナタリアはぐっと胸を張った。
その仕草は、初めて、本物の誇り、を、表していた。
ナタリアが屋上を降りていった後。
今度は、ドリアンが登ってきた。
「貴族様」
「ドリアン」
「俺、五十路でこれほど興奮した半年はなかった」
「ふぅん」
「ギルドの仕事がこんなに面白いと、思わなかった」
「KPI、効いた?」
「効いた。冒険者たちの目の色が変わった。皆、自分の数字を追うようになった」
ドリアンはぶっきらぼうに、笑った。
「貴族様、戻った後もたまに、夢に出てきてくれよ」
「ああたぶん、夢には、出る」
ドリアンが屋上を降りていった後。
最後に、エマが屋上に、登ってきた。
彼女は写本帳を両手で抱きしめていた。
「リシュ様」
「エマ」
「これをお持ちください」
エマが写本帳を、俺に差し出した。
「最後の頁に、皆の名前を書き込みました。それを御故郷にお持ち帰りください」
俺は写本帳を受け取った。
表紙の金糸の刺繍を、指でなぞった。
「ありがとう、エマ」
「リシュ様」
「ん」
「私、リシュ様の議事録をこれからも写し続けます」
「うん」
「いつか、私の弟子の、また弟子の、また弟子が。リシュ様の議事録を何百年後にも、読み続けてくれます」
エマの声は震えていた。
だが、彼女の目には強い決意が宿っていた。
「エマ、君がいなかったら、議事録は形にならなかった」
「いえ」
「君はたぶん、辺境の最初の、王立図書館の、初代館長に、なる」
「えっ」
「俺の予言だよ」
エマの頬がぱっと、紅潮した。
それから彼女は両手で口元を覆って、笑った。
「リシュ様、御無事で、お戻りを」
「うん」
俺はエマの頭に軽く、手を置いた。
彼女は、その手の下で深く頷いた。
夕暮れ。
俺は屋上で、一人、夕陽を見つめていた。
半年前、初めて、リシュの体で、目覚めて、見た、灰色の領都が、いまは、橙色の夕陽の下で、温かい色に、染まっていた。
俺はふと、自分の手のひらを見た。
夕陽が、その手のひらを、透けて、見えるくらいに、薄くなり始めていた。
明朝。
たぶん、明朝が、最後だ。
俺は写本帳を、胸に、ぎゅっと、抱きしめた。
金糸のピラミッドが、夕陽に、温かく、輝いた。
風が強く、吹いた。
夕陽の最後の縁が、地平線の向こうに、沈んだ。




