第二章 目覚めたら廃嫡候補だった件
天蓋付きのベッドだった。
そう気づくのに、少し時間がかかった。
俺の頭の上に、四本の柱と、その上に張られた色褪せた布。
ヨーロッパの古城で見るような、大時代的なベッドだ。
俺の知っている六畳一間のアパートには、そんなものは絶対にない。
身体が重い。
首を動かすと、長い金色の髪が枕の上で揺れた。
俺の髪じゃない。
そもそも、俺は短髪の黒だ。
枕元に古びた鏡があった。
細い金属の手鏡。
俺はそれを取って、自分の顔を見た。
見知らぬ青年の顔だった。
線の細い、ややくたびれた、二十歳そこそこの男。
眼の奥に光がない。
頬がこけていて、唇の色が悪い。
そして、何より、髪が金色で、瞳が薄い灰色だった。
「……は?」
声が出た。
だが、その声も俺のものじゃない。
低くて、少しかすれていた。
頭の中に、ぐわっと、別の記憶が雪崩込んできた。
俺じゃない誰かの記憶だ。
リシュ・アステリス。
辺境公爵アステリス家の三男。
生まれたときから魔力がほぼゼロで、廃嫡候補とされてきた男。
二十二歳。
館の片隅の小部屋で、領地の書類を整理する係を任され、家族の食卓には三年呼ばれていない。
昨夜、寒さの中で書類を抱えたまま転倒して、頭を打った。
そして、目覚めたら、俺になっていた。
正確には、相沢律になった。
入れ替わったわけじゃない。
たぶん、俺の意識がリシュの体に上書きされた感じだ。
リシュ本人の記憶は残っている。
ただ、そこにいた人格は、もういない気がした。
天井の梁を見上げる。
木が黒ずんでいる。
すきま風が頬を撫でて、はっきり冬の匂いがした。
枯草と、薪と、湿った石の匂い。
俺はゆっくり、ベッドから降りた。
裸足の足の裏に、石の床の冷たさが食い込む。
「リシュ様!」
ドアが、ばたん、と開いた。
飛び込んできたのは、白いエプロンをつけた、小柄なメイドだった。
俺、いやリシュの記憶が、即座にその名前を教えてくれた。
エマ。
十八歳。
読み書きが得意なメイド。
リシュに優しくしてくれる、ほぼ唯一の人間。
「お目覚めになって!よかった、本当に。ベルント様が、もう三日も様子を見続けていらして」
「三日?」
「はい、三日前から、ずっと意識がなくて」
エマは目を真っ赤にしていた。
本気で泣いていた、ということが、わかる目だった。
俺の知らない誰かのために、こんなに泣ける人間がいることに、少し、心が動いた。
「ベルントを呼んでくれ」
口が勝手に動いた。
リシュの口調。
俺は自分の声に、まだ慣れていない。
「は、はい!すぐに!」
エマが出ていった。
俺は窓辺に歩み寄った。
窓の外。
広がっていたのは、灰色の領都だった。
低い屋根の家々。
痩せた馬が、骨ばった足取りで荷車を引いている。
道の端には、何の処理もされていない汚物が、凍りついた水たまりに浮かんでいた。
匂い。
これが匂ってきていたのか。
窓越しでもはっきり、糞尿の匂いがした。
「……これは、まずいな」
俺は呟いた。
コンサルの目が、勝手に動き出していた。
衛生環境が崩壊している。
それは、感染症がいつ発生してもおかしくない、ということだ。
領民の体力低下。
労働生産性の低下。
税収減。
逃亡。
人口減少。
さらなる税収減。
頭の中で、即座に悪循環のループ図が描けてしまった。
これはコンサル業界で「負のシステム・ループ」と呼ぶやつだ。
一度はまると、自力で抜け出せない。
外部から、論理の梃子を差し込まないと、回転は止まらない。
ノックの音。
ドアが開く。
入ってきたのは、白髪の老紳士だった。
六十代後半。
背筋がぴんと伸びて、左目に薄い傷がある。
元軍人だ、と一目でわかる立ち姿。
「坊ちゃま、ご無事で……」
老人の声が震えた。
ベルント・グレイ。
公爵家の家令にして、リシュの記憶の中で唯一、子供時代から味方でいてくれた人物。
「ベルント。座ってくれ」
俺は椅子を指した。
ベルントは戸惑った顔をした。
家令が主の前で座ったことなど、たぶんないのだろう。
「いいから。話がしたい」
ベルントが戸惑いながら腰を下ろした。
「単刀直入に聞く。我が領の、いまの財政状況は」
ベルントの目が止まった。
リシュは生まれてから一度も、領地のことを聞いたことがなかったらしい。
廃嫡候補だから関心がないと思われていたし、本人もそう振る舞っていた。
「……坊ちゃま」
「数字を、聞かせてほしい。税収、支出、債務。月別で」
老人は口を半開きにしたまましばらく、俺を見つめていた。
それから、皺だらけの手で、目をこすった。
涙が滲んでいた。
「は、はい。すぐに、台帳をお持ちいたします」
ベルントは退室した。
ドアが閉まる音。
俺は椅子の背もたれにふかく身を預けた。
「……これは、炎上案件だ」
俺はぼそりと呟いた。
それからなぜか、少し、笑った。
久しぶりに、生きている、と思えた気がした。
エマがまた入ってきた。
洗面の水を盆に乗せている。
俺の手元にある一枚の羊皮紙を、覗き込んだ。
そこに、俺が無意識に書いていた、ピラミッド型の図形があった。
頂点に「領地再建」と書いてあった。
「リシュ様、それは……」
「ん?」
「魔導陣でしょうか?」
エマが震える声で言った。
俺はその問いの意味をまだ、何一つわかっていなかった。
魔導陣。
その言葉に、俺は反射的に反応した。
「いや、ただの……ええと」
説明を試みた。
だが、現代日本のホワイトボードと、コンサルのフレームワークと、ピラミッド・ストラクチャーを、十八歳のメイドにどう説明したらいいのか。
俺はしばし、口ごもった。
「これは、思考の整理だ。情報を、頂点と根拠と事実に並べて、複雑なものを単純にする方法だ」
「ホ、ホウホウ、シコウノ、セイリ」
エマが目を見開いて呟いた。
それから、何か思いついたように、頬を紅潮させた。
「リシュ様。あの。お屋敷の地下に、古い書庫がございますの、ご存じですか」
「いや」
「祖先のアステリス公爵が集められた、古代の写本がたくさん。私、こっそり、何冊か読みましたの。その中に……いえ、今すぐにはお話ししても混乱なさるかも」
エマは急に口を閉じた。
頬がさらに赤くなって、目を伏せた。
「いいから。話してくれ」
「あの。古代魔法陣の構造図が、ちょうど、リシュ様がお書きになった、その図と、同じ並び方をしているのです」
俺は彼女の指す紙を見下ろした。
ただのピラミッドだ。
新人研修で教わるレベルの、何の変哲もない図形。
「ふぅん」
俺は適当に流した。
そんなはずはない。
ただの偶然だろう。
エマはそれ以上は何も言わずに、洗面の水を置いて、深く一礼して下がっていった。
俺は窓辺に戻って、灰色の領都を、もう一度眺めた。
痩せた馬。
凍りついた汚水。
炊事の煙が、屋根のいくつかから、細く立ち上っていた。
食事を取れない家が、半分はあるのだろう。
胸の奥で、何かが、こと、と音を立てた。
それはたぶん、火消し屋の血が、騒ぎ始めた音だった。
「やるか」
俺はぼそりと呟いた。
俺の最初のクライアントはもう、いる。
辺境公爵領アステリス。
従業員数、約八千人。
業界、農業と魔物討伐。
財務状況、債務超過。
納期たぶん、半年以内に立て直さないと、領民が逃散して、領自体が消滅する。
火消し屋の出番だ。
俺はベルントが戻ってくる足音を、扉の向こうに聞いた。
ベルントが運んできた台帳は、三冊あった。
表紙は革張りで、よく見れば角が擦り切れていた。
俺は最初の一冊を開いた。
インクが滲み、項目がほとんど揃っていない。
収入と支出が、同じ欄に書かれている箇所がある。
日付の表記もばらばらだった。
「これは……いつから、こうなんだ」
俺は静かに尋ねた。
「先代のお父上の頃から、概ね、このように。会計の係が高齢で亡くなりましてから、私が一人で記録しております」
ベルントが視線を落とした。
俺はため息をついた。
責めるためのため息じゃない。
これは前任者の問題じゃない。
仕組みの問題だ。
「ベルント。明日から、俺と一緒に作業してくれるか。台帳を、もう一度書き直す」
「もう一度、書き直す、と申されますと」
「収入と支出を分けて、勘定科目別に並べ直す。借方と貸方が、必ず一致するようにする。それだけだ」
ベルントがまた、止まった。
「カリカタと、カシカタ……?」
「あとで詳しく説明する。眠っているあいだに何が起きていたか、それを把握してからだ」
俺は台帳の上に、もう一枚、新しい羊皮紙を取り出した。
そしてまた、ピラミッドを描いた。
頂点に「領地再建」。
根拠の柱、一本目「収支の見える化」。
二本目「衛生環境の改善」。
三本目「魔物被害の低減」。
さらにその下に、それぞれ三つずつ、具体的な施策を書いていく。
書きながらふと、目の端にエマの姿が見えた。
彼女は、いつの間に戻ってきていたのか、扉の影から、俺の手元を覗き込んでいた。
俺と目が合うと、慌てて、お盆を抱えて頭を下げた。
「す、すみません」
「いや。むしろ、覚えてほしい。あとで写本を頼みたい」
エマの顔がぱっと、明るくなった。
リシュの記憶の中で、彼女がこんな顔をした場面はたぶん、一度もなかった。
ベルントはその間、俺のピラミッド図を、食い入るように見ていた。
「坊ちゃま」
「ん」
「あの。坊ちゃまは、頭を打ってから、たいへん……お変わりになりました」
「うん」
「失礼を承知で申し上げますが、これは、まったく、別人のようでございます」
俺は軽く笑った。
「別人みたいなものだよ、たぶん。でも、悪くなったのか?」
「いえ、その。たいへんに、力強くて」
老人の目が、潤んでいた。
「ベルント、これからは数字で話そう。感情も大事だけど、まずは数字だ」
「はい、坊ちゃま」
俺はまた、窓の外を見た。
灰色の領都。
痩せた馬。
凍った汚水。
たぶん、半年あれば、この光景を変えてみせる。
俺はなぜか、確信に近いものを覚えていた。




