第一章 徹夜明けの月曜日、午前四時十七分
ホワイトボードのインクが、また切れた。
俺は赤いマーカーを振り、最後の数滴で、ピラミッドの頂点に小さな丸を描き足した。
結論。
その下に三本の根拠。
さらにその下に九個の補強事実。
経営コンサルティングファームに勤めて六年。
俺、相沢律が毎晩のように描いてきた図形だ。
業界では「ピラミッド・ストラクチャー」と呼ぶ。
頂点に結論を置き、それを支える根拠を三本の柱で立て、さらにその下に細かい事実を並べる。
これさえ崩さなければ、どんな複雑な情報も、上司やクライアントは三秒で理解してくれる。
俺たちコンサルの仕事は、難しい話を、難しいまま提示することじゃない。
むしろ逆だ。
ぐちゃぐちゃに絡まった糸を、たった一本の太い線にする。
それさえできれば、どんな大企業の経営陣も、財務担当も、現場の係長も、迷わずに動ける。
その「一本の線」を、業界ではストーリーラインと呼ぶ。
そのストーリーラインを支える骨組みが、ピラミッド・ストラクチャーだ。
俺はそれが、得意だった。
社内の誰よりも速く、正確に書けた。
火災現場のような炎上案件に投入されては、議事録一枚と分析シート一枚で、現場を立て直して帰ってくる。
「火消し」のあだ名は、入社三年目でついた。
誇らしくはなかった。
ただ、断ることができなかっただけだ。
「相沢、悪い。これ、お前のと一緒にしておいてくれない?」
背後から声が降ってきた。
振り返るまでもなく、月村裕也だ。
同期入社。役職も同じマネージャー。
そして俺の人生最大の害虫。
「明日の朝イチで提出だから、頼むわ」
月村は俺のデスクに紙束を置く。
中を見るまでもなく、わかる。
半分は白紙。
残りはどこかで見たような数字の羅列だ。
俺が三週間前に別の案件で書いた表が、コピペで貼られていた。
「これ、お前の担当範囲だろ」
「いやー、急にウチの父さんの体調がさ」
毎週のように月村の父親は体調を崩す。
本人はゴルフに行っているだけだ。
社内のSNSで日焼けした写真が流れているのを、俺は何度も見た。
パートナー候補の月村に誰も注意できない。
彼の父親はクライアント企業の役員で、ファーム内に強い顔を持っているからだ。
「わかった」
俺はそう答えてしまう。
反射的に。
六年間ずっとそうしてきたからもう、断る筋肉が萎えてしまっている。
「サンキュー、お前ほんと神だわ」
月村は爽やかに笑って、ドアの向こうへ消えた。
革靴が床を叩く音が遠ざかる。
香水の残り香。
冷たい。
蛍光灯のジーという音。
コーヒーの紙コップ。
ホワイトボードの古いインクの匂い。
午前四時十七分。
スマートフォンを開いた。
通知の一番上に、もう開いてはいけないトーク履歴がある。
彼女からの最後のメッセージ。
「あなたは仕事と結婚すればいいと思う」
先月、別れを告げられた一文だ。
俺は既読のまま、返信していない。
何を返したらいいのか、わからなかった。
返したい言葉はたぶん、あった。
ごめん。
俺もそう思う。
仕事と結婚しているんだろうな、たぶん俺は。
でも、それを書いたら、彼女との関係が「完全に」終わってしまう気がして、画面を閉じた。
机のひきだしを開ける。
栄養ドリンクが三本。
胃薬が一袋。
それを順に飲み下す。
胃の奥が焼ける。
これも、もう六年来の友人だ。
ピラミッドを書き直す。
月村の白紙の上に。
彼の名前で提出される資料を、俺がまた書いている。
結論。
根拠三本。
補強事実九個。
書きながらふと、頭の隅で父さんのことを思い出した。
父さんは、町工場を経営していた。
俺が中学生のとき、銀行から融資を打ち切られて、倒産した。
業績は悪くなかったらしい。
父さんは技術者で、経営の数字を読むのが苦手だった。
銀行の言葉も、税理士の言葉も、そのまま信じて、結局、足元をすくわれた。
倒産の日、父さんは縁側で、ずっと黄ばんだ伝票を眺めていた。
「もうちょっと、数字がわかる人間が、そばにいてくれたら」
父さんはそう言った。
独り言だった。
たぶん、俺に向けた言葉じゃなかった。
でも、俺はその一言を、たぶん一生忘れない。
俺がコンサルになったのは、その日からだ。
父さんが救えなかった分、俺がほかの誰かを救おう、と決めた。
クライアントのために。
全力で。
その全力が、なぜか月村のためになり、彼女との時間を削り、俺自身の体を削っていった。
気がついたら、二十八歳の独身。
カレンダーは真っ赤に予定で埋まり、なのに本当に大事な予定は一つも入っていない。
完成したファイルを保存ボタン。
俺はそれを月村のメールに転送する。
件名「自分のフォルダで管理してください」
本文「以上です」
ささやかな抵抗だった。
たぶん月村はこの件名すら気にしないだろう。
タクシーを呼んだ。
オフィスを出る。
雨の匂いがした。
六月の早朝。
アスファルトに溜まった水たまりが、街灯の橙色を映している。
タクシーの後部座席で、俺は天井を見上げた。
このシートの匂い。
革と消臭剤と他人の煙草。
何度も嗅いだ匂いだ。
胸が痛む。
左胸の奥が、軽くじゃない。
何かを握りつぶされるような、にぶい鈍痛。
「お客さん?」
運転手の声が遠い。
息が浅くなる。
指先が冷えていく。
視界の端から、灰色のもやが滲んでくる。
俺は何のために生きてきたんだろう。
誰のために、こんなに残業してきたんだろう。
俺はクライアントのために、いつも全力だった。
俺は月村のためにも、いつも全力だった。
誰のためにでも全力だった。
ただ一人。
自分のため、というやつだけずっと、後回しにしてきた。
「お客さん!」
運転手が叫ぶ。
信号の赤が、滲んで、二重にぶれる。
意識が、すうっと、白くなる。
最後に見えたのは、フロントガラスのワイパーが、雨を二回弾いた光景。
そして、後部座席の床に転がるピラミッド型の議事録だった。
紙の上の小さな三角形が、雨に濡れたタイヤの音と一緒に、ぐにゃりと歪んだ。
歪んで。
広がって。
俺をその中心に吸い込んだ。
── ── ──
タクシーが事故ったらしい。
後で病院の若い医師からぼそりと聞かされた話だった。
運転手は、軽傷で済んだらしい。
俺だけが、後部座席で、心停止していた。
そんな話を、俺は意識の縁で聞いた。
サイレンの音。
誰かが俺の名前を呼んでいる。
担架の上で、視界がぐらぐら揺れる。
天井の蛍光灯が、流れる雲のように流れていく。
ふと、走馬灯というやつが頭をよぎる。
これがそれなのか。
俺は思った。
なぜか頭に浮かんだのは、入社一年目の、ある夜だった。
新人研修の終わりの飲み会で、月村が初めて俺に言ったセリフ。
「相沢、お前の議事録、教科書みたいだな」
俺はそれを誉め言葉だと思って、嬉しかった。
たぶん、月村はそのとき、すでに俺を踏み台にする方法を考えていた。
俺はそれに、何年経っても気づかなかった。
それから、彼女と過ごした最後の夕食の場面が浮かんだ。
俺はその夜、二度、仕事の電話に出た。
クライアント先で炎上していた。
俺は店の外に出て、雨の中で電話をしていた。
店に戻ったとき、彼女の前のステーキは冷めきっていた。
彼女は何も言わなかった。
笑って、ワインを飲んでいた。
たぶん、その瞬間に、彼女の中で何かが終わっていた。
そして、父さんの倒産の日。
縁側の伝票。
黄ばんだ紙の匂い。
父さんは俺を見て、なぜか少し笑った。
「律、おまえは、自分のために生きろよ」
そう言ったのを、いま、ようやく思い出した。
自分のために。
その意味が、十六年経っても、わからなかった。
意識が落ちる。
タイヤの音。
誰かの怒声。
ピラミッド型の議事録の三角形が、ぐにゃりと回転して、巨大な魔法陣のように広がっていく。
そんな馬鹿な光景を最後に見て。
俺の意識は、完全に切れた。




