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会いたかった

レーヨン視点



(やめろ)

 

 近づくな。

 

 朽ちる。

 

 お前も朽ちる。

 

 男が、腕を伸ばした。

 

(やめ――)

 

 体が、包まれた。

 

 温かかった。

 

 回復が、男の肌を過剰に侵食し始めた。それでも、腕は離れなかった。

 

 その温度が。

 

 その感触が。

 

 何かを、引き戻した。

 

 霧の中に沈んでいた何かが、急速に浮かび上がってくる。

 

 お茶の香りだった。

 

 朝の光の中で、誰かのために湯を沸かしていた。お茶の葉を量りながら、いつもより少し多く入れていた。

 

 気づいても、直さなかった。

 

 扉の前に立っていた。ノックしようとして、できなかった。何度も、できなかった。

 

 顔を見たら、やめてしまいそうだったから。

 

 名前が、戻ってきた。

 

 あの屋敷の、朝の光の中で、誰かが呼んでいた名前。

 

「……」

 

 声が出た。

 

 掠れていた。何年も使っていなかったから。

 

 でも、ちゃんと出た。

 

(……ああ)

 

 私は。

 

 涙が出た。

 

 出るとは思っていなかった。

 

 でも、出た。

 

 男の胸に顔を埋めたまま、私はただ泣いた。

 

 呪いが、溶けていく気がした。

 

 長い時間をかけて積み重なったものが、この温度の中で、静かに崩れていく。

 

 男の腕が、さらに強く私を抱きしめた。

 

 それだけで、十分だった。



 走っていた。

 

 体中が痛む。右腕はまだ完全じゃない。肋骨も軋んでいる。

 

 それでも、足が止まらなかった。

 

 レーヨンが、こちらを見ていた。

 

 近づくほど、周囲の木々が過剰に育ち、老いて朽ちていく。地面が枯れていく。肌に、じわりとした熱が走り始めた。

 

 それでも。

 

(……これは)

 

 剣の周りだけ、青々としていた場所。

 

 十五年間、誰かが守り続けていた場所。

 

 あの懐かしさの正体。

 

(シルクだ)

 

 確信した瞬間、もう迷いはなかった。

 

「待て、智! 腐食が……!」

 

 後ろでミラの声がした。

 

 聞こえていた。

 

 でも、止まれなかった。

 

 レーヨンが何かを言った。言葉にはならなかった。でもその意味は、伝わった気がした。

 

 離れてほしい。近づくな。朽ちる。

 

 嫌悪ではなかった。ただ、俺を守ろうとしていた。

 

(……それでいい)

 

 死んでもいいと思った。

 

 このままシルクを抱いて朽ちるなら、それで十分だと思った。

 

 勘違いでもよかった。ただの亡骸に縋りついているだけだとしても、構わなかった。

 

 心が、満たされていたから。

 

 腕を伸ばした。引き寄せた。

 

「……会いたかった」

 

 絞り出した声は、掠れていた。

 

「ずっと、会いたかった」

 

 腐食が、腕を這い上がってくる。皮膚が焼けるような感覚。

 

 それでも、腕を離さなかった。

 

「……離れて。腐られてしまう」

 

「いい」

 

「……だめだ、離れて」

 

「いい」

 

「なぜ……」

 

「お前がシルクなら、このまま朽ちても構わない」

 

 沈黙が落ちた。

 

 腕の中で、何かが揺れた。

 

「……智、様」

 

 掠れた声だった。

 

 でも、その声を俺は知っていた。

 

「……智だ」

 

 もう一度。今度は、確かめるように。

 

 腕の中で、体が震えた。

 

 それから。

 

 じわりと。

 

 温かいものが、腕に広がった。

 

 腐食が、薄れていく。焼けるような熱が、静かに引いていく。

 

 代わりに、穏やかな光が体に染み込んでくる。

 

(……回復魔法だ)

 

 ちゃんとした、回復魔法だ。

 

 腕の中の体が、少しずつ変わっていく気がした。形が変わる。温度が変わる。

 

 気づいたら、腕の中にいるのは見覚えのある金髪の女性だった。

 

「……本当に、探してくれた」

 

 泣いていた。

 

 俺も泣いていた。

 

 いつから泣いていたのか、わからなかった。ただ、止まらなかった。

 

 どのくらいそうしていたか。

 

 先にシルクが、静かに笑い声を立てた。

 

「……顔、ちゃんと見せてください。智様」

 

「……ダメだ」

 

「久々なんです。ちゃんと見せてください」

 

「……ダメ」

 

「なぜですの?」

 

「……鼻水が」

 

 シルクが、声を上げて笑った。

 

 久しぶりに聞く笑い声だった。

 

 それが、何より嬉しかった。

 

 

シルク視点

 王国に戻って、しばらく経った。

 

 今日も、食堂でミラ様とシアが言い争っている。

 

「だから言ったでしょ、この依頼は割に合わない!」

 

「うるさい。文句があるなら最初から言え。お前が承諾したんだろうが」

 

「シアが先に頷いたから私も頷いたんじゃない!」

 

「あたしはお前が頷いたから頷いたんだよ」

 

「え、じゃあ誰も読んでなかったの?」

 

「…………」

 

「…………」

 

 二人が同時に私を見た。

 

「シルク、あの依頼書、どんな内容だった?」

 

「読んでいません」

 

 三人揃って沈黙した。

 

「……智様に怒られるわね」

 

「怒られる前に依頼人に謝りに行け」

 

 そう言いながら、私は笑っていた。

 

 この光景が、ひどく懐かしい。

 

 いや、懐かしいというより。

 

 戻ってきた、という感じがする。

 

 

 色々なことが変わった。

 

 王国は静かになった。魔族の残党はまだいるが、新しい魔王軍の核だったカセンが倒れ、組織的な動きは鳴りを潜めている。

 

 そしてアラミド教団。シアの祖父が、長年黙っていたことへの贖罪だと言って、すべてを告発した。王国を巻き込んだ大きな騒動になったが、教団は解散した。幹部の何人かは逃げている。まだ終わりではない。

 

 でも、今日は穏やかだ。

 

 それだけで十分だと思う。

 

 

 一番変わったのは、智様だった。

 

 あの智様が。

 

 昨夜、私の髪を撫でながら、ぽつりと言った。

 

「……好きだ」

 

 思わず聞き返してしまった。

 

「今、何とおっしゃいましたか?」

 

「……聞こえてただろ」

 

「もう一度お願いできますか」

 

「……うるさい」

 

 照れながら顔を背ける智様を、私はしばらく眺めた。

 

 あの智様が。

 

 十五年、誰にも本音を言えなかった男が。

 

 ちゃんと言葉にしてくれた。

 

 私は何も言わなかった。

 

 言わなくてよかった。

 

 智様の横顔を見ていたら、それだけで十分だったから。

 

 

 そして今朝。

 

 朝食の後、智様がお茶を一口飲んで、少しだけ間を置いた。

 

「……シルク」

 

「はい」

 

「結婚しよう」

 

 お茶を、危うく吹き出すところだった。

 

「……今、何とおっしゃいましたか」

 

「聞こえてただろ」

 

「もう一度お願いできますか」

 

「……うるさい。返事は」

 

 智様が、珍しく真っ直ぐにこちらを見た。

 

 照れている。でも目は、逸らさなかった。

 

 私はしばらく、その顔を眺めた。

 

(……長いこと、化け物でいるのも悪くありませんでしたわ)

 

「……喜んで」

 

 智様の耳が、真っ赤になった。

 

 私は笑った。

 

 いつかの朝のお茶の香りが、ふと頭をよぎった。

 

 あの屋敷の朝。智様の好みに合わせて淹れたお茶。扉の前でノックできなかった夜。

 

 遠い遠い記憶が、今は温かかった。

 

 窓の外、王都の空は青かった。

 

 長い旅が、ようやく終わろうとしていた。


ブクマありがとうございます

もう少し続きます

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