腐食の魔女
幕間 腐食の魔女レーヨン
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こちらの話と繋がっています
レーヨン視点
気がついたら、森の中にいた。
自分が何者かは、わかっていた。
どこから来たかも、なぜこうなったかも、覚えていた。
ただ、ここにいた。
名前は、ある。
それだけは、はっきりと覚えていた。
◇
森から出ようとした。
一日中歩いた。木々をかき分け、獣道を辿り、光の差す方角へ向かって歩き続けた。夜になっても歩いた。
朝になって、気づいた。
見覚えのある木が、目の前にあった。
昨日も見た木だ。
(……また、ここか)
もう一度試した。今度は別の方角へ。川沿いに歩いた。太陽を背にして歩いた。それでも、気づけば同じ場所に戻っていた。
三日試して、わかった。
この森から、出られない。
噂に聞いたことがあった。迷いの森、という場所。一度入ったら出られないと言われている、呪われた森。
(……ここが、そうなのかもしれない)
途方に暮れた。
でも、不思議と絶望はしなかった。
いつか迎えが来るんじゃないかって。
そう思っていた。
◇
最初の頃、私の周りだけが賑やかだった。
踏みしめた土から、草が勢いよく芽吹いた。触れた木の幹から、新しい葉が次々と伸びた。私が歩くたびに、花が咲いた。
回復の力が溢れているのだろう、と思った。
悪くなかった。
森の中に、小さな緑の道ができていく。それが、唯一の慰めだった。
でも。
時間が経つと、その草花が朽ちていった。
芽吹いたばかりの草が、急速に育ち、枯れていく。伸びた葉が一瞬で老いて、落ちていく。まるで何年分もの時間を一気に生きて、そのまま死んでいくように。
回復が、速すぎるのだ。成長させすぎて、朽ちさせてしまう。
(……なぜ)
止める方法がわからなかった。ただ、自分が通った後に死が残っていくのだけは、はっきりと見えた。
◇
冒険者と出会ったのは、森に来てどのくらい経った頃だろう。
男が二人、森の中を歩いていた。私を見つけると、一人が声をかけてきた。
「おい、お前みたいな綺麗な女がこんな森でどうした。大丈夫か? 遭難者だな? 保護するぞ」
久しぶりに人間の声を聞いた。
嬉しかった。
思わず一歩踏み出した、その時だった。
男の足元の草が、急速に育ち始めた。緑が溢れ、花が咲き、そして一瞬で老いて枯れていく。黒く変色して、土に還っていく。
男が気づいた。
「け、化け物……! 助けてくれ!」
二人は踵を返して走っていった。
私は、その場に立ち尽くした。
(……化け物)
その言葉が、胸の奥に刺さった。
違う、と言いたかった。
でも、自分の足元を見た。
草が、全部死んでいた。
何も言えなかった。
◇
同じことが、何度もあった。
迷い込んだ冒険者。道を探す旅人。魔物を追ってきた騎士。
みんな最初は声をかけてきた。
みんな同じように逃げていった。
「化け物だ」「腐食の魔女だ」「逃げろ! 呪われるぞ」
逃げる人間を追いかけたことがあった。違う、と言いたかった。誤解を解きたかった。
でも、私が追いかけるほど、周囲の木々が過剰に育ち、老いて朽ちていく。人間の足元が枯れていく。
(……確かに、これは魔女だ)
追いかけるのをやめた。
いつからか、噂が広まっていたようだった。迷いの森に棲む腐食の魔女、レーヨン。近づくものすべてを朽ちさせる、化け物。
私は否定しなかった。
否定する言葉が、だんだん見つからなくなっていったから。
最初は言葉だった。次に、声が出なくなっていった。それから、誰かに話しかけようとする気持ちが、薄れていった。
化け物と呼ばれるたびに、何かが削れていく。
自分の名前を、何度も胸の中で繰り返した。忘れたくなかったから。
◇
どのくらいの時間が経ったのか、わからなくなっていた。
季節が変わるのはわかる。でも何年経ったのか、もう数えていなかった。
毎日、自分に言い聞かせた。
私は、私だ。
でも、その声が、だんだん遠くなっていく気がした。
ある日、鏡代わりの水面を覗いたら、見知らぬ顔が映っていた。
半透明の肌。空洞のような目。意思を持つように蠢く髪。
(……これが、私?)
自分の名前を呼ぼうとした。
口が、うまく動かなかった。
◇
五人組がやってきたのは、そんな頃だった。
今まで来た人間とは、違った。私を見ても、逃げなかった。周囲が朽ちていっても、前に来た。
魔法が飛んでくる。剣が走る。体が吹き飛ぶ。両断される。でも、すぐに再生した。どれだけ傷つけられても、私の体は元に戻る。
砂塵の中、一人の男が背後を取った。剣が、心臓を貫いた。
でも再生する。それだけのことだ。
男の顔を見た。
その瞬間。
(……あ)
何かが、胸の奥で動いた。
懐かしい。
なぜ懐かしいのか、わからない。でも確かに、この顔を知っている気がした。
もっとよく見たくて、腕を掴んだ。
男が、激しく痛がった。
(……しまった)
回復が、男の腕を過剰に侵食していた。細胞が急速に更新され、肌が爛れていく。
つい、手を放した。
男の剣が、地面に滑り落ちた。地面に、刺さるような形で。
五人組は撤退していった。
私はその場に残った。地面に刺さった剣を、ただ見ていた。
(……なぜ、懐かしいんだろう)
答えは出なかった。
でも、その剣を見ていると、何かが落ち着く気がした。
触れようとした。指先が近づいた瞬間、剣の周囲の草が急速に育ち始め、老いて枯れていった。
(……だめだ)
手を引っ込めた。
これは朽ちさせたくない。
理由はわからない。ただ、そう思った。
私は朽ちが起こらない距離を保ちながら、その剣の前に座った。
見ていると、落ち着く。それだけで、十分だった。
それからの日課になった。
◇
どのくらい経ったか。
私はもう、自分の名前を覚えられなくなっていた。
あの名前が、どこか遠い場所の話のように感じられた。
化け物と呼ばれ続けた。腐食の魔女と呼ばれ続けた。その言葉が、骨の中まで染み込んでいた。
私は、レーヨンだ。
迷いの森に棲む、腐食の魔女。
それだけが、残った。
感情は、少しずつ薄れていった。怒りも、悲しみも、懐かしさも。
ただ、一つだけ残っていた。
あの剣を、朽ちさせてはいけない。
理由はわからない。でも、それだけは。
それだけは、消えなかった。
◇
久しぶりに、大きな音がした。
木が倒れる音。爆発の音。地面が揺れる音。
(……剣の近くだ)
警戒した。あの場所を荒らされたくない。
音の方へ向かうと、巨大な魔族が人間たちと戦っていた。
見ていると、一人の男が魔族に掴まれ、投げ飛ばされた。男は木々をなぎ倒しながら転がり、剣の近くに倒れ込んだ。
(……あの男)
何かが、微かに揺れた。
少し、老けた気がする。あの時の男だろうか。
考える間もなく、魔族が男の方へ歩いてきた。剣に近づいてくる。
(やめろ)
私は動いた。
魔族の体を掴んだ。過剰な回復が走る。細胞が急速に更新され続け、魔族の体が内側から朽ちていく。やがて、動かなくなった。
男の仲間が三人、こちらを見ていた。剣を構えている。魔法を構えている。
でも、私は興味がなかった。
ただ、倒れている男を見ていた。
その男が、目を開けた。
剣を見つけた。手に取った。
それからこちらを見た。
そして。
駆けてきた。
(……なぜ)
怖くないのだろうか。周囲の木々が過剰に育ち、老いて朽ちていく。地面が枯れていく。
それでも、男は止まらなかった。
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