15年前の剣
森に入った瞬間、空気が変わった。
湿度が重い。木々は黒く変色し、踏みしめる土がどこかぬかるんでいる。鳥の声がない。虫の音もない。
生きているものの気配が、ひどく薄い森だった。
「……久しぶりだな、ここ」
誰にともなく呟いた。
十五年前と、何も変わっていない。
◇
道中、誰もほとんど喋らなかった。
ミラは前を向いたまま歩いている。シアは無言で槍を携えている。レザードは少し後ろで、周囲に目を配りながらついてくる。
俺も黙っていた。
黙っていられるのは、頭の中がひどく静かだからだ。
(……この森で終わってもいい)
いつからそう思っているのか、自分でもわからない。シルクを探せないまま終わるのだけは嫌だった。一ヶ月、毎日動き続けた。それでも何も見つからなかった。
手がかりがない。行き先もわからない。
探し続ける理由は、まだある。でも続ける力が、どこかで底をついていた。
(……もういいかもな)
その考えが、足を軽くしていた。
軽くなっていることが、自分でも少し怖かった。
◇
魔族の痕跡を見つけたのは、森の中程だった。
折れた木。抉れた地面。黒い魔力の残滓が、空気に滲んでいる。
「最近のものですわね」
レザードが周囲を見回しながら言った。
「奥から来てる」
シアが痕跡を辿るように視線を走らせた。
俺たちは無言で奥へと進んだ。
やがて開けた場所に出た。
そこにいたのは、ナイロスだった。
三メートルを超える巨躯。岩のような筋肉。古い傷の刻まれた顔。
十五年前の戦争でも刃を交えた、魔族の幹部の一人。そして、森の入口で俺をたたきのめした相手でもある。
「……またお前か、人間」
ナイロスの視線が、俺たちを順番に舐めた。ミラで止まった。
「……貴様がカセンを仕留めたか」
「そうだけど」
ミラが剣を構えながら答えた。
ナイロスの目が、わずかに細くなった。警戒の色が滲んでいる。だがすぐに、その目が緩んだ。
「……魔眼がない」
「関係ない」
「関係大いにある」
ナイロスが地を蹴った。轟音。地面が揺れる。
「散れ!」
シアの声と同時に、俺たちは左右に飛んだ。
◇
戦いは、最初から苦しかった。
ミラは強い。魔眼がなくても、剣技と魔法で十分な戦力だ。シアの槍はナイロスの巨体を確実に削っている。レザードの氷結魔法が動きを鈍らせる。
それでも、ナイロスは止まらなかった。
一撃が重すぎる。シアが受け流しても、衝撃が腕に残る。ミラの魔法を正面から受けても、ひるまない。レザードの氷結を力任せに砕いて前進してくる。
「硬い……!」
ミラが歯を食いしばりながら後退する。
「当たり前だ。こいつは十五年前から化け物だった」
俺は二本の剣でナイロスの腕を受け流しながら言った。
「智さん、無理しないで!」
「無理じゃない」
嘘だった。
右腕がまだ完全じゃない。受け流すたびに、骨が軋む音がする。
それでも止まる気はなかった。
(……どうせ終わるなら、ここで終わってもいい)
その考えが、俺を前に進ませていた。
おかしいことだとわかっていた。でも止められなかった。
◇
転機は、突然来た。
ナイロスの巨腕が、俺を掴んだ。
「っ……!」
抵抗する間もなかった。そのまま真横に投げ飛ばされた。
「智さん!!」
ミラの声が遠のいていく。
体が宙を舞い、木々をなぎ倒しながら転がった。
「ぐ……ッ」
地面に叩きつけられ、意識が遠のく。
遠くで轟音が響いている。戦いはまだ続いているようだ。
(……立てるか)
体に力を入れようとして、腕が動かなかった。
痛みが、どこか遠い。
(……まあ、いいか)
そのまま目を閉じた。
不思議なほど、穏やかだった。
◇
次に気づいたのは、異様な静けさだった。
さっきまでの轟音が、嘘のように消えている。
代わりに、ぞわりとした空気が肌を撫でた。
重い瞼を持ち上げる。
視界に、見覚えのある景色が広がっていた。
朽ちた木々。腐食した地面。
でも。
目の前だけ、違った。
青かった。
草が生えていた。木の葉が青々としていた。腐食していない。周囲と明らかに異質な、小さな「生きている場所」がそこにあった。
その中心に、一本の剣が地面に刺さっていた。
「……あ」
体が動く前に、声が出た。
見覚えがあった。
十五年前、この森で落とした剣だ。腐食の魔女に触れられ、手首が朽ちかけて、手から滑り落ちた。そのまま地面に刺さって、拾えなかった。
ずっと、ここにあったのか。
体を引きずって、近づいた。
一歩。また一歩。
剣に近づく。
刃に経年劣化の錆はある。でもそれだけだ。腐食していない。
この森の中で、十五年間、腐食されずにいた。
(……なんで)
レーヨンが通るだけで、周囲のものは朽ちていく。木も、草も、石も。この森全体が、その腐食に蝕まれている。
なのに。
なぜここだけ、青々としているんだ。
剣の周りだけ、なぜ腐食していないんだ。
剣を見つめたまま、しばらく動けなかった。
森の腐食した空気の中に、この小さな場所だけが、ずっと生きていた。
誰かが、守っていた。
(……待て)
何かが、頭の中で繋がった。
十五年前。レーヨンに触れられた瞬間、あいつは俺の手を放した。
理由がわからなかった。致命傷を与えられる距離にいたのに、唐突に手を放して、ただ剣を見つめていた。
熱い鉄に触れたような、無機質な拒絶。
あのとき感じた、説明のつかない違和感。
そして今、この剣の周りだけが腐食していない理由。
(なぜ)
俺は剣を握ったまま、立ち上がった。
遠くで、ナイロスの断末魔が聞こえた。
レーヨンが来ている。
その方向へ向かって、駆け出した。




