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お茶の香り

 朝になった。

 

 それだけが、わかった。

 

 窓の外が明るい。鳥が鳴いている。どこかで誰かが話している声がする。

 

 世界は普通に動いていた。

 

 俺だけが、動けなかった。

 

 

 最初に気づいたのは、静けさだった。

 

 いつもなら、この時間には廊下に足音がある。お湯を沸かす音がある。お茶の支度をする、あの規則正しい音がある。

 

 何もなかった。

 

 ただ静かだった。

 

(……そうか)

 

 頭では理解していた。昨日から理解していた。

 

 それでも体は、まだ信じていなかった。

 

 

 起き上がれたのは、昼を過ぎた頃だった。

 

 壁に手をついて立ち上がり、廊下に出る。足が重い。右腕がまだ痛む。

 

 昨日、シルクが使っていた部屋の前を通った。

 

 扉が少し開いていた。

 

 覗くつもりはなかった。ただ通り過ぎようとしただけだ。

 

 でも、隙間から漏れてくる香りが、足を止めた。

 

 お茶の香りだった。

 

 昨日、シルクが淹れたお茶の香りが、まだそこに残っていた。

 

「……っ」

 

 胃の中身が、一気に逆流した。

 

 壁に手をついて、しゃがみ込む。何度も、何度も。出るものがなくなっても、体が止まらなかった。

 

 ただの香りだ。お茶の香りだ。

 

 なのに。

 

 体が、勝手に泣いていた。

 

 

 部屋に戻って、椅子に座った。

 

 探したい、と思う。

 

 でも。

 

(どこを探す)

 

 長老はこう言った。霧散した魔力はどこかで再構築される。時を超える場合もある、と。

 

 過去か。未来か。

 

 この世界のどこかか、それとも全く別の場所か。

 

 手がかりが、何もない。

 

 剣を握ろうとして、右腕が言うことを聞かなかった。シルクがいれば、すぐに治してくれた。

 

(……シルクがいれば)

 

 また、胃が痛くなった。

 

 俺はただ、窓の外を見ていた。

 

 何も変わっていない。

 

 シルクがいないこと以外、何も。

 

 

「智さん」

 

 扉が開いた。ミラだった。

 

 入口に立っている。その目が赤い。昨日からずっと泣いていたのか、あるいは今も泣いているのか。

 

 そして。

 

 フードを被っていなかった。

 

 額に、角はない。腰の辺りに、尻尾もない。昨日まであった赤みがかった肌が、今は元の色に戻っている。

 

 人間の、ミラの顔だった。

 

「……戻ったのか」

 

「うん」

 

 ミラは小さく頷いた。その声に、喜びはなかった。

 

「シルクのおかげで」

 

 それだけ言って、唇を噛んだ。

 

 人間に戻れた。魔族化が解けた。それは間違いなく良いことのはずだ。

 

 なのにミラの顔は、泣きそうなまま崩れなかった。

 

 喜べるわけがない。その代償が何だったか、誰よりもわかっているから。

 

「……ご飯、食べた?」

 

「食えない」

 

「そう」

 

 ミラが部屋に入ってきた。俺の向かいの椅子を引いて、座った。

 

 しばらく、二人とも黙っていた。

 

「私のせいだ」

 

 ミラが、静かに言った。

 

「シルクが消えたのは、私のせいだ。私が魔族化しなければ、シルクはあんなことしなかった」

 

「……」

 

「だから、私が取り戻す。絶対に」

 

「どこを探すんだ」

 

「わかんない。でも、探す」

 

「手がかりもない。時を超えてるかもしれない。どこへ行けばいい」

 

「わかんないって言った」

 

「わかんないで動けるか」

 

「わかんないよ!」

 

 ミラの声が、大きくなった。

 

「わかんないけど、じっとしてたら絶対に後悔する。智さんだってそうでしょ」

 

「……」

 

「シルクは行ったんだよ。手がかりも、行き先も、何もわからないまま。それでも行ったんだ」

 

 俺は答えられなかった。

 

 ミラが立ち上がった。

 

「智さん」

 

「……」

 

「智さん!」

 

 パン、と乾いた音が鳴った。

 

 頬が、熱かった。

 

 ミラが、泣きながら俺を見ていた。手が震えている。

 

「動いてよ」

 

 掠れた声だった。

 

「動いてよ、智さん。私一人じゃ、絶対に取り戻せないから」

 

「……」

 

「シルクはずっと、智さんのそばにいたかったんだよ。それを私が……私が全部……っ」

 

 ミラの声が、途切れた。

 

 俺は頬に手を当てたまま、しばらく動けなかった。

 

 じっとしていても、シルクは戻ってこない。

 

 手がかりがなくても、動かなければ何も始まらない。

 

「……わかった」

 

 俺は立ち上がった。

 

 まだ足が重い。右腕も痛む。頭も回っていない。

 

 それでも、立てた。

 

 

 長老のところへ行くと、シアとレザードがすでにいた。

 

 シアは腕を組んで壁に寄りかかっていたが、俺たちが入った瞬間、真っ先に長老へ向き直った。

 

「……一個だけ聞かせろ、じじい」

 

「なんだ」

 

「なんでシルクの言うことを聞いた」

 

 低く、静かな声だった。怒鳴っていない。だからこそ、重かった。

 

「止められたはずだろ。お前はここの長老だ。力だってある。なのになんで」

 

「……」

 

「なんで止めなかった」

 

 長老は少しの間、黙っていた。それから、静かに口を開いた。

 

「……あの娘に、懇願された」

 

「懇願?」

 

「お前たちが部屋を出た後、二人きりになった時だ。あの娘は俺に言った。『ミラ様を助けてください。私にしかできないなら、やらせてください』と」

 

 シアが、唇を噛んだ。

 

「断れなかったのか」

 

「断った。二度断った」

 

「三度目は」

 

「……あの娘は笑っていた」

 

 長老の声が、わずかに低くなった。

 

「泣きもせず、怒りもせず、ただ笑って言った。『私はやります。長老様が手伝ってくださらなくても、一人でやります。その場合、確実に失敗します。ミラ様も、私も、両方駄目になります』と」

 

 部屋が静まり返った。

 

「……脅したのか、あいつ」

 

「脅しではない。事実だ。あの娘一人では、術の制御が効かない。両方駄目になっていた可能性は高い」

 

「だから手伝ったのか」

 

「……熱意に負けた」

 

 長老が、珍しく視線を落とした。

 

「あれほどの覚悟を持った人間を、俺は久しぶりに見た。止めることが、できなかった」

 

 シアはしばらく長老を見ていた。

 

「……この老害め」

 

 吐き捨てるように言った。でもその声は、震えていた。

 

「だからこの里は嫌いなんだ」

 

 長老は何も言わなかった。反論しなかった。

 

 それが、答えだった。

 

 レザードが、静かに口を開いた。

 

「……私は、何もできませんでした」

 

 誰も返事をしなかった。

 

「あの場にいたのに。シルク殿が動き出した時に、止められなかった。智さまの傍にいながら、何も」

 

「お前のせいじゃない」

 

「でも」

 

「誰のせいでもない」

 

 俺はそれだけ言った。

 

 自分に言い聞かせるようでもあった。

 

 

 王国に戻ったのは、それから二日後だった。

 

 謁見の間で、俺たちは淡々と報告した。

 

 魔王の子孫カセン、討伐完了。魔族幹部レタンも同様。ミラの魔族化は解除された。

 

 そして。

 

「回復術師シルクは、任務中に行方不明となりました」

 

 ミラが、感情を押し殺した声で言った。

 

 王はしばらく黙っていた。それから「ご苦労だった」とだけ言った。

 

 謁見の間を出た後、誰も何も言わなかった。

 

 行方不明。

 

 その言葉が、ひどく空虚に感じた。

 

 

 それからひと月が過ぎた。

 

 俺たちは手分けして探した。王国の記録を漁った。古い文献を読み漁った。霧散した魔力の再構築について知っている者を探した。魔法学者に当たった。古い遺跡を調べた。

 

 何も出なかった。

 

 手がかりが、一つも出なかった。

 

「時を超える場合もある」という長老の言葉が、頭から離れなかった。

 

 過去に飛ばされているなら、記録に残っていないはずがない。でも何もない。未来なら、もっとわからない。

 

 俺は毎日、夜明け前に起きて動いた。食事は最低限だけ取った。眠れない夜は剣を握った。

 

 シルクがいた頃と、外側だけは変わらない生活をしていた。

 

 ただ。

 

 お茶だけは、飲めなかった。

 

 誰が淹れても、口をつけることができなかった。

 

 香りを嗅ぐだけで、あの朝のことを思い出すから。

 

(……どこにいるんだ)

 

 答えは返ってこない。毎日、同じ問いを繰り返した。

 

 それだけが、俺が動き続けられる理由だった。

 

 

 王国から呼び出しがかかったのは、そんな頃だった。

 

「任務どころじゃない」

 

 ミラが苛立った声で言った。珍しい。彼女がそういう言い方をするのは。

 

「でも行かないわけにもいかないわよ」とシアが続ける。

 

 謁見の間に通されると、王が地図を広げていた。

 

「迷いの森に、魔族の残党が逃げ込んでいる。討伐を頼みたい」

 

 迷いの森。

 

 その名前を聞いた瞬間、十五年前の記憶が蘇った。



腐食の魔女レーヨン。



あの森に棲む、近づくものすべてを朽ちさせる存在。

 

「……レーヨンがいる森ですよね」

 

 ミラが確認するように言った。

 

「承知している。だからこそ、勇者パーティーに頼みたい」

 

 俺は何も言わなかった。

 

 迷いの森。十五年前、あの森で俺は剣を落とした。腐食の魔女に触れられ、手首が腐りかけて、剣が手から滑り落ちた。あの剣は、今もあの森のどこかに刺さっているはずだ。

 

(……死ぬには、いいかもな)

 

 その考えが、静かに頭の隅に浮かんだ。

 

 それだけだった。

 

 不思議なほど、静かだった。

 

「……行きます」

 

 俺は答えた。

 

「私も」

 

 ミラが即座に続けた。

 

「あたしも」

 

 シアも続く。

 

 二人の声に迷いはなかった。でも俺とは、たぶん理由が違う。

 

 口には出さないけれど、わかる。

 

 あいつらは俺を、ほっとけないんだろう。

 

「……私も、よろしいでしょうか」

 

 レザードが、静かに手を挙げた。

 

「退職が、先日ようやく受理されまして」

 

「おめでとう」とシアが棒読みで言った。

 

「ありがとうございます。つきましては、どこへでも参ります」

 

 それから少し間を置いて、付け足すように言った。

 

「それと……回復魔法、一応使えます。シルク殿には遠く及びませんが」

 

 部屋が、一瞬だけ静かになった。

 

 シルクの名前が出るだけで、空気が変わる。

 

「……助かる」

 

 俺はそれだけ言った。

 

 謁見の間を出る時、シアが俺の隣に並んだ。

 

 何も言わなかった。ただ、俺から一歩も離れずに歩いた。

 

 その視線の意味に、俺は気づかないふりをした。

 

 気づいていたけれど。


幕間 腐食の魔女レーヨン

https://ncode.syosetu.com/n9958lx/33/

↑この話と繋がります

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