お茶の香り
朝になった。
それだけが、わかった。
窓の外が明るい。鳥が鳴いている。どこかで誰かが話している声がする。
世界は普通に動いていた。
俺だけが、動けなかった。
◇
最初に気づいたのは、静けさだった。
いつもなら、この時間には廊下に足音がある。お湯を沸かす音がある。お茶の支度をする、あの規則正しい音がある。
何もなかった。
ただ静かだった。
(……そうか)
頭では理解していた。昨日から理解していた。
それでも体は、まだ信じていなかった。
◇
起き上がれたのは、昼を過ぎた頃だった。
壁に手をついて立ち上がり、廊下に出る。足が重い。右腕がまだ痛む。
昨日、シルクが使っていた部屋の前を通った。
扉が少し開いていた。
覗くつもりはなかった。ただ通り過ぎようとしただけだ。
でも、隙間から漏れてくる香りが、足を止めた。
お茶の香りだった。
昨日、シルクが淹れたお茶の香りが、まだそこに残っていた。
「……っ」
胃の中身が、一気に逆流した。
壁に手をついて、しゃがみ込む。何度も、何度も。出るものがなくなっても、体が止まらなかった。
ただの香りだ。お茶の香りだ。
なのに。
体が、勝手に泣いていた。
◇
部屋に戻って、椅子に座った。
探したい、と思う。
でも。
(どこを探す)
長老はこう言った。霧散した魔力はどこかで再構築される。時を超える場合もある、と。
過去か。未来か。
この世界のどこかか、それとも全く別の場所か。
手がかりが、何もない。
剣を握ろうとして、右腕が言うことを聞かなかった。シルクがいれば、すぐに治してくれた。
(……シルクがいれば)
また、胃が痛くなった。
俺はただ、窓の外を見ていた。
何も変わっていない。
シルクがいないこと以外、何も。
◇
「智さん」
扉が開いた。ミラだった。
入口に立っている。その目が赤い。昨日からずっと泣いていたのか、あるいは今も泣いているのか。
そして。
フードを被っていなかった。
額に、角はない。腰の辺りに、尻尾もない。昨日まであった赤みがかった肌が、今は元の色に戻っている。
人間の、ミラの顔だった。
「……戻ったのか」
「うん」
ミラは小さく頷いた。その声に、喜びはなかった。
「シルクのおかげで」
それだけ言って、唇を噛んだ。
人間に戻れた。魔族化が解けた。それは間違いなく良いことのはずだ。
なのにミラの顔は、泣きそうなまま崩れなかった。
喜べるわけがない。その代償が何だったか、誰よりもわかっているから。
「……ご飯、食べた?」
「食えない」
「そう」
ミラが部屋に入ってきた。俺の向かいの椅子を引いて、座った。
しばらく、二人とも黙っていた。
「私のせいだ」
ミラが、静かに言った。
「シルクが消えたのは、私のせいだ。私が魔族化しなければ、シルクはあんなことしなかった」
「……」
「だから、私が取り戻す。絶対に」
「どこを探すんだ」
「わかんない。でも、探す」
「手がかりもない。時を超えてるかもしれない。どこへ行けばいい」
「わかんないって言った」
「わかんないで動けるか」
「わかんないよ!」
ミラの声が、大きくなった。
「わかんないけど、じっとしてたら絶対に後悔する。智さんだってそうでしょ」
「……」
「シルクは行ったんだよ。手がかりも、行き先も、何もわからないまま。それでも行ったんだ」
俺は答えられなかった。
ミラが立ち上がった。
「智さん」
「……」
「智さん!」
パン、と乾いた音が鳴った。
頬が、熱かった。
ミラが、泣きながら俺を見ていた。手が震えている。
「動いてよ」
掠れた声だった。
「動いてよ、智さん。私一人じゃ、絶対に取り戻せないから」
「……」
「シルクはずっと、智さんのそばにいたかったんだよ。それを私が……私が全部……っ」
ミラの声が、途切れた。
俺は頬に手を当てたまま、しばらく動けなかった。
じっとしていても、シルクは戻ってこない。
手がかりがなくても、動かなければ何も始まらない。
「……わかった」
俺は立ち上がった。
まだ足が重い。右腕も痛む。頭も回っていない。
それでも、立てた。
◇
長老のところへ行くと、シアとレザードがすでにいた。
シアは腕を組んで壁に寄りかかっていたが、俺たちが入った瞬間、真っ先に長老へ向き直った。
「……一個だけ聞かせろ、じじい」
「なんだ」
「なんでシルクの言うことを聞いた」
低く、静かな声だった。怒鳴っていない。だからこそ、重かった。
「止められたはずだろ。お前はここの長老だ。力だってある。なのになんで」
「……」
「なんで止めなかった」
長老は少しの間、黙っていた。それから、静かに口を開いた。
「……あの娘に、懇願された」
「懇願?」
「お前たちが部屋を出た後、二人きりになった時だ。あの娘は俺に言った。『ミラ様を助けてください。私にしかできないなら、やらせてください』と」
シアが、唇を噛んだ。
「断れなかったのか」
「断った。二度断った」
「三度目は」
「……あの娘は笑っていた」
長老の声が、わずかに低くなった。
「泣きもせず、怒りもせず、ただ笑って言った。『私はやります。長老様が手伝ってくださらなくても、一人でやります。その場合、確実に失敗します。ミラ様も、私も、両方駄目になります』と」
部屋が静まり返った。
「……脅したのか、あいつ」
「脅しではない。事実だ。あの娘一人では、術の制御が効かない。両方駄目になっていた可能性は高い」
「だから手伝ったのか」
「……熱意に負けた」
長老が、珍しく視線を落とした。
「あれほどの覚悟を持った人間を、俺は久しぶりに見た。止めることが、できなかった」
シアはしばらく長老を見ていた。
「……この老害め」
吐き捨てるように言った。でもその声は、震えていた。
「だからこの里は嫌いなんだ」
長老は何も言わなかった。反論しなかった。
それが、答えだった。
レザードが、静かに口を開いた。
「……私は、何もできませんでした」
誰も返事をしなかった。
「あの場にいたのに。シルク殿が動き出した時に、止められなかった。智さまの傍にいながら、何も」
「お前のせいじゃない」
「でも」
「誰のせいでもない」
俺はそれだけ言った。
自分に言い聞かせるようでもあった。
◇
王国に戻ったのは、それから二日後だった。
謁見の間で、俺たちは淡々と報告した。
魔王の子孫カセン、討伐完了。魔族幹部レタンも同様。ミラの魔族化は解除された。
そして。
「回復術師シルクは、任務中に行方不明となりました」
ミラが、感情を押し殺した声で言った。
王はしばらく黙っていた。それから「ご苦労だった」とだけ言った。
謁見の間を出た後、誰も何も言わなかった。
行方不明。
その言葉が、ひどく空虚に感じた。
◇
それからひと月が過ぎた。
俺たちは手分けして探した。王国の記録を漁った。古い文献を読み漁った。霧散した魔力の再構築について知っている者を探した。魔法学者に当たった。古い遺跡を調べた。
何も出なかった。
手がかりが、一つも出なかった。
「時を超える場合もある」という長老の言葉が、頭から離れなかった。
過去に飛ばされているなら、記録に残っていないはずがない。でも何もない。未来なら、もっとわからない。
俺は毎日、夜明け前に起きて動いた。食事は最低限だけ取った。眠れない夜は剣を握った。
シルクがいた頃と、外側だけは変わらない生活をしていた。
ただ。
お茶だけは、飲めなかった。
誰が淹れても、口をつけることができなかった。
香りを嗅ぐだけで、あの朝のことを思い出すから。
(……どこにいるんだ)
答えは返ってこない。毎日、同じ問いを繰り返した。
それだけが、俺が動き続けられる理由だった。
◇
王国から呼び出しがかかったのは、そんな頃だった。
「任務どころじゃない」
ミラが苛立った声で言った。珍しい。彼女がそういう言い方をするのは。
「でも行かないわけにもいかないわよ」とシアが続ける。
謁見の間に通されると、王が地図を広げていた。
「迷いの森に、魔族の残党が逃げ込んでいる。討伐を頼みたい」
迷いの森。
その名前を聞いた瞬間、十五年前の記憶が蘇った。
腐食の魔女レーヨン。
あの森に棲む、近づくものすべてを朽ちさせる存在。
「……レーヨンがいる森ですよね」
ミラが確認するように言った。
「承知している。だからこそ、勇者パーティーに頼みたい」
俺は何も言わなかった。
迷いの森。十五年前、あの森で俺は剣を落とした。腐食の魔女に触れられ、手首が腐りかけて、剣が手から滑り落ちた。あの剣は、今もあの森のどこかに刺さっているはずだ。
(……死ぬには、いいかもな)
その考えが、静かに頭の隅に浮かんだ。
それだけだった。
不思議なほど、静かだった。
「……行きます」
俺は答えた。
「私も」
ミラが即座に続けた。
「あたしも」
シアも続く。
二人の声に迷いはなかった。でも俺とは、たぶん理由が違う。
口には出さないけれど、わかる。
あいつらは俺を、ほっとけないんだろう。
「……私も、よろしいでしょうか」
レザードが、静かに手を挙げた。
「退職が、先日ようやく受理されまして」
「おめでとう」とシアが棒読みで言った。
「ありがとうございます。つきましては、どこへでも参ります」
それから少し間を置いて、付け足すように言った。
「それと……回復魔法、一応使えます。シルク殿には遠く及びませんが」
部屋が、一瞬だけ静かになった。
シルクの名前が出るだけで、空気が変わる。
「……助かる」
俺はそれだけ言った。
謁見の間を出る時、シアが俺の隣に並んだ。
何も言わなかった。ただ、俺から一歩も離れずに歩いた。
その視線の意味に、俺は気づかないふりをした。
気づいていたけれど。
幕間 腐食の魔女レーヨン
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