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いつもの笑顔で

 シルク視点


 夜が明けるまで、私は眠れなかった。

 

 天井を見つめながら、何度も何度も同じことを考えた。

 

 答えは、もうとっくに出ていた。

 

 問題は、それを実行する勇気があるかどうかだけだ。

 

 起き上がり、窓の外を見る。エルフの集落は静かで、遠くの木々の間から朝の光が細く差し込み始めていた。

 

 智様の部屋は、廊下を挟んだ向こうだ。

 

 扉の前まで行った。何度も行った。今夜だけで、三回。

 

 でも毎回、ノックできなかった。

 

 何を言いに行くんだろう、と思うから。

 

 「行ってきます」を言いに?

 

 「ありがとうございました」を言いに?

 

 それとも、ただ顔を見たくて?

 

(……最後の一つが、正解ですわね)

 

 私はそれを認めた上で、扉に背を向けた。

 

 顔を見たら、やめてしまいそうだから。

 

 

 朝食の支度を始めたのは、夜明けと同時だった。

 

 宿の厨房を借りて、お湯を沸かす。お茶の葉を量る。鍋の火加減を整える。

 

 手が動いている間は、余計なことを考えずに済む。それだけの理由だった。

 

 でも、お茶の葉を量りながら、ふと手が止まった。

 

 智様のお好みの量より、少しだけ多く入れていた。

 

 気づいても、直さなかった。

 

「……シルク? もう起きてたの?」

 

 眠そうな顔のミラ様が、厨房の入口に立っていた。髪が少し乱れている。フードを被り忘れたのか、額の角が朝の光に晒されていた。

 

 彼女は気まずそうに、すぐにフードを引き下ろした。

 

「おはようございます、ミラ様」

 

「……おはよう。なんか、今日のシルク、変じゃない?」

 

「そうですか?」

 

「なんか、丁寧すぎるっていうか」

 

「いつも丁寧ですわよ、私」

 

 ミラ様が首を傾げながら、椅子を引いて座った。湯気の立つお茶を出すと、両手で包むように受け取った。

 

 その手が、少し赤みがかっている。魔族化の進行だ。

 

 ミラ様はそれに気づいているのか、そっと袖を引き下ろした。

 

「……ねえ、シルク」

 

「はい」

 

「私のせいで、みんな大変だよね」

 

 お茶を両手で包んだまま、テーブルを見つめている。その声に、いつもの弾けるような明るさがない。

 

「そんなことはありませんわ」

 

「でも……」

 

「ミラ様」

 

 私は彼女の正面に座った。

 

「私のことは、心配しないでください」

 

 ミラ様が顔を上げた。

 

「……どういう意味?」

 

 その目が、私の目をまっすぐに見ていた。

 

 この子は、気づいている。なんとなく、わかってしまっている。

 

 だから私は、笑った。一番完璧な笑顔で。

 

「なんでもありません。お茶、おかわりはいかがですか」

 

 ミラ様はしばらく私を見ていたが、やがて視線を落とした。

 

 その横顔が、ひどく疲れて見えた。

 

(……ごめんなさいね、ミラ様)

 

(でも、もう少しだけ待っていてください)

 

 

 智様が起きてきたのは、それから少し後だった。

 

 右腕を庇いながら歩いてくる。昨日の戦いのダメージがまだ残っている。私の回復魔法では、完全には治しきれなかった。

 

「……おはようございます、智様」

 

「ああ」

 

 智様はテーブルにつき、お茶を一口飲んだ。それから少しだけ目を細めた。

 

「……いつもより濃いな」

 

「お好みでしたでしょう?」

 

「好みだけど」

 

 智様が私を見た。何かを確かめるような目だった。

 

「……シルク」

 

「はい」

 

「今日、何か変じゃないか」

 

 ミラ様と同じことを言う。

 

 私は笑った。いつも通りの、完璧な笑顔で。

 

「何もありませんわ。さあ、召し上がってください。今日も長くなりますから」

 

 智様はしばらく私を見ていたが、やがて視線を落とした。

 

(……気づかないでください、智様)

 

(気づいたら、止めてしまうから)

 

 

 午前中は、長老を交えた話し合いだった。

 

 シアが文献を漁り、智様が長老に質問を重ねる。

 

 ミラ様は黙って俯いていた。時折、自分の手を見ては、また目を逸らす。その繰り返し。誰かが自分の名前を呼ぶたびに、申し訳なさそうに肩を縮める。

 

 当事者として、ここにいることが苦しいのだろう。

 

「他に方法はないのか」と、智様は何度でも聞いた。

 

 長老はそのたびに、静かに首を振った。

 

「……今のところ、ない」

 

「まだ探せばあるはずだ」

 

「時間がない」

 

「時間を作る」

 

「智様」

 

 私が静かに呼びかけると、智様が振り返った。

 

「少し、休んでください。右腕、まだ痛むでしょう」

 

「そんな場合じゃ」

 

「休まなければ、いざという時に動けませんわ。シアさんと交代で調べましょう。私がここに残ります」

 

 智様は何か言いかけて、止まった。

 

 その目が、また何かを探すように私を見る。

 

(……お願いですから、今は行ってください)

 

「……わかった。一時間だけだ」

 

 智様が部屋を出た。シアもミラ様も連れて。

 

 扉が閉まった。

 

 静かになった部屋で、私はしばらく動けなかった。

 

 智様の飲みかけのお茶が、まだテーブルに残っていた。

 

 

「……覚悟は決まっているのか」

 

 長老が、文献から目を上げずに言った。

 

「はい」

 

「あの男が許さんぞ」

 

「知っています」

 

「止められたら?」

 

「……止められないようにします」

 

 長老がようやく顔を上げた。深い皺の奥の目が、静かに私を見ている。

 

「後悔しないか」

 

 私は少しだけ考えた。

 

 本当のことを言うなら、後悔はある。智様のそばにいたかった。もっとわがままを言いたかった。ミラ様に意地悪をしながら、それでも仲良くやっていきたかった。

 

「……後悔は、します」

 

 正直に答えた。

 

「それでも、やりますわ」

 

 長老は何も言わなかった。ただ、静かに頷いた。

 

「準備を始める。一時間もあれば十分だ」

 

 私は立ち上がる前に、一度だけ窓の外を見た。

 

 智様たちが歩いているのが見えた。ミラ様が何か言って、シアさんが呆れた顔をして、智様が苦笑している。

 

 いつもの、三人だった。

 

 私は目を細めて、それから窓から離れた。

 

 

 智様が戻ってきたのは、ちょうど一時間後だった。

 

 部屋に入った瞬間、空気の違いに気づいたのだろう。足が止まった。

 

 部屋の中央に、魔法陣が展開されている。ミラ様が陣の中心に座っている。長老がその傍らに立っている。

 

 そして私が、陣の前に立っていた。

 

「……シルク」

 

 智様の声が、低くなった。

 

「これは」

 

「智様」

 

「これは何だ」

 

「ミラ様を戻す準備です」

 

「お前が、やるのか」

 

「私にしかできませんから」

 

 智様が一歩踏み出した。

 

「やめろ」

 

「智様」

 

「やめろと言っている」

 

「……聞こえています」

 

「他の方法を探す。時間を作る。だからやめろ」

 

「時間がないんです」

 

「作る」

 

「ミラ様の体が、もう——」

 

「うるさい」

 

 智様が踏み出した。私は後退しながら、陣の縁に足をかけた。

 

「シルク、そこから出ろ」

 

「……嫌です」

 

 初めて、はっきり言った。

 

 智様の目が、揺れた。

 

「嫌です、智様。今回だけは、言うことを聞きません」

 

「なんで」

 

「……なんでって」

 

 私は笑った。

 

「これが私にできる、一番のことだから」

 

「っ……」

 

「智様、来ないでください」

 

 智様が走った。

 

 私は迷わず、術を行使した。

 

 魔力が一気に溢れ出す。足先から、腰から、胸から。体が光に変わっていく。

 

「シルク!」

 

 智様の手が、私の腕に向かって伸びてくる。

 

 届く、と思った。

 

 届いてほしい、とも思った。

 

 指先が、触れた。

 

 でも、その手を包もうとしたとき、私の輪郭はもう崩れていた。

 

「……智様」

 

 最後に一度だけ。

 

 いつもの笑顔で。

 

「私を探してください、智様」

 

「待て——シルク——」

 

 声が、遠くなる。

 

 智様の顔が、光の中に滲んでいく。

 

 怒っているのか、泣いているのか。

 

 最後まで、読めなかった。

 

 光が、弾けた。


日曜日に落ち着いて完結させたいので調整で本日2話投稿させてもらいました

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