いつもの笑顔で
シルク視点
夜が明けるまで、私は眠れなかった。
天井を見つめながら、何度も何度も同じことを考えた。
答えは、もうとっくに出ていた。
問題は、それを実行する勇気があるかどうかだけだ。
起き上がり、窓の外を見る。エルフの集落は静かで、遠くの木々の間から朝の光が細く差し込み始めていた。
智様の部屋は、廊下を挟んだ向こうだ。
扉の前まで行った。何度も行った。今夜だけで、三回。
でも毎回、ノックできなかった。
何を言いに行くんだろう、と思うから。
「行ってきます」を言いに?
「ありがとうございました」を言いに?
それとも、ただ顔を見たくて?
(……最後の一つが、正解ですわね)
私はそれを認めた上で、扉に背を向けた。
顔を見たら、やめてしまいそうだから。
◇
朝食の支度を始めたのは、夜明けと同時だった。
宿の厨房を借りて、お湯を沸かす。お茶の葉を量る。鍋の火加減を整える。
手が動いている間は、余計なことを考えずに済む。それだけの理由だった。
でも、お茶の葉を量りながら、ふと手が止まった。
智様のお好みの量より、少しだけ多く入れていた。
気づいても、直さなかった。
「……シルク? もう起きてたの?」
眠そうな顔のミラ様が、厨房の入口に立っていた。髪が少し乱れている。フードを被り忘れたのか、額の角が朝の光に晒されていた。
彼女は気まずそうに、すぐにフードを引き下ろした。
「おはようございます、ミラ様」
「……おはよう。なんか、今日のシルク、変じゃない?」
「そうですか?」
「なんか、丁寧すぎるっていうか」
「いつも丁寧ですわよ、私」
ミラ様が首を傾げながら、椅子を引いて座った。湯気の立つお茶を出すと、両手で包むように受け取った。
その手が、少し赤みがかっている。魔族化の進行だ。
ミラ様はそれに気づいているのか、そっと袖を引き下ろした。
「……ねえ、シルク」
「はい」
「私のせいで、みんな大変だよね」
お茶を両手で包んだまま、テーブルを見つめている。その声に、いつもの弾けるような明るさがない。
「そんなことはありませんわ」
「でも……」
「ミラ様」
私は彼女の正面に座った。
「私のことは、心配しないでください」
ミラ様が顔を上げた。
「……どういう意味?」
その目が、私の目をまっすぐに見ていた。
この子は、気づいている。なんとなく、わかってしまっている。
だから私は、笑った。一番完璧な笑顔で。
「なんでもありません。お茶、おかわりはいかがですか」
ミラ様はしばらく私を見ていたが、やがて視線を落とした。
その横顔が、ひどく疲れて見えた。
(……ごめんなさいね、ミラ様)
(でも、もう少しだけ待っていてください)
◇
智様が起きてきたのは、それから少し後だった。
右腕を庇いながら歩いてくる。昨日の戦いのダメージがまだ残っている。私の回復魔法では、完全には治しきれなかった。
「……おはようございます、智様」
「ああ」
智様はテーブルにつき、お茶を一口飲んだ。それから少しだけ目を細めた。
「……いつもより濃いな」
「お好みでしたでしょう?」
「好みだけど」
智様が私を見た。何かを確かめるような目だった。
「……シルク」
「はい」
「今日、何か変じゃないか」
ミラ様と同じことを言う。
私は笑った。いつも通りの、完璧な笑顔で。
「何もありませんわ。さあ、召し上がってください。今日も長くなりますから」
智様はしばらく私を見ていたが、やがて視線を落とした。
(……気づかないでください、智様)
(気づいたら、止めてしまうから)
◇
午前中は、長老を交えた話し合いだった。
シアが文献を漁り、智様が長老に質問を重ねる。
ミラ様は黙って俯いていた。時折、自分の手を見ては、また目を逸らす。その繰り返し。誰かが自分の名前を呼ぶたびに、申し訳なさそうに肩を縮める。
当事者として、ここにいることが苦しいのだろう。
「他に方法はないのか」と、智様は何度でも聞いた。
長老はそのたびに、静かに首を振った。
「……今のところ、ない」
「まだ探せばあるはずだ」
「時間がない」
「時間を作る」
「智様」
私が静かに呼びかけると、智様が振り返った。
「少し、休んでください。右腕、まだ痛むでしょう」
「そんな場合じゃ」
「休まなければ、いざという時に動けませんわ。シアさんと交代で調べましょう。私がここに残ります」
智様は何か言いかけて、止まった。
その目が、また何かを探すように私を見る。
(……お願いですから、今は行ってください)
「……わかった。一時間だけだ」
智様が部屋を出た。シアもミラ様も連れて。
扉が閉まった。
静かになった部屋で、私はしばらく動けなかった。
智様の飲みかけのお茶が、まだテーブルに残っていた。
◇
「……覚悟は決まっているのか」
長老が、文献から目を上げずに言った。
「はい」
「あの男が許さんぞ」
「知っています」
「止められたら?」
「……止められないようにします」
長老がようやく顔を上げた。深い皺の奥の目が、静かに私を見ている。
「後悔しないか」
私は少しだけ考えた。
本当のことを言うなら、後悔はある。智様のそばにいたかった。もっとわがままを言いたかった。ミラ様に意地悪をしながら、それでも仲良くやっていきたかった。
「……後悔は、します」
正直に答えた。
「それでも、やりますわ」
長老は何も言わなかった。ただ、静かに頷いた。
「準備を始める。一時間もあれば十分だ」
私は立ち上がる前に、一度だけ窓の外を見た。
智様たちが歩いているのが見えた。ミラ様が何か言って、シアさんが呆れた顔をして、智様が苦笑している。
いつもの、三人だった。
私は目を細めて、それから窓から離れた。
◇
智様が戻ってきたのは、ちょうど一時間後だった。
部屋に入った瞬間、空気の違いに気づいたのだろう。足が止まった。
部屋の中央に、魔法陣が展開されている。ミラ様が陣の中心に座っている。長老がその傍らに立っている。
そして私が、陣の前に立っていた。
「……シルク」
智様の声が、低くなった。
「これは」
「智様」
「これは何だ」
「ミラ様を戻す準備です」
「お前が、やるのか」
「私にしかできませんから」
智様が一歩踏み出した。
「やめろ」
「智様」
「やめろと言っている」
「……聞こえています」
「他の方法を探す。時間を作る。だからやめろ」
「時間がないんです」
「作る」
「ミラ様の体が、もう——」
「うるさい」
智様が踏み出した。私は後退しながら、陣の縁に足をかけた。
「シルク、そこから出ろ」
「……嫌です」
初めて、はっきり言った。
智様の目が、揺れた。
「嫌です、智様。今回だけは、言うことを聞きません」
「なんで」
「……なんでって」
私は笑った。
「これが私にできる、一番のことだから」
「っ……」
「智様、来ないでください」
智様が走った。
私は迷わず、術を行使した。
魔力が一気に溢れ出す。足先から、腰から、胸から。体が光に変わっていく。
「シルク!」
智様の手が、私の腕に向かって伸びてくる。
届く、と思った。
届いてほしい、とも思った。
指先が、触れた。
でも、その手を包もうとしたとき、私の輪郭はもう崩れていた。
「……智様」
最後に一度だけ。
いつもの笑顔で。
「私を探してください、智様」
「待て——シルク——」
声が、遠くなる。
智様の顔が、光の中に滲んでいく。
怒っているのか、泣いているのか。
最後まで、読めなかった。
光が、弾けた。
日曜日に落ち着いて完結させたいので調整で本日2話投稿させてもらいました




