代償
最初に感じたのは、揺れだった。
規則的な、大きな揺れ。
(……誰かに、運ばれてる。……やわらかい)
重い瞼を持ち上げると、見慣れた蒼い髪が目の前にあった。
「……シア」
「あ、生きてた」
シアが振り返らずに言った。俺は自分がおぶられていることに、一拍遅れて気づいた。
「……降ろせ」
「やだ」
「降ろせって言ってる」
「うるさい。ミラとの戦いで何発もらったと思ってんだ。シルクに回復してもらってるとはいえ、蓄積がある。大人しくしてろ」
反論しようとして、体を動かした瞬間、右腕に鈍い痛みが走った。思わず声が出なかった。
「……ほら」
シアが小さく鼻を鳴らす。
「少しくらい、人に頼れ。お前はいつもそれが下手なんだよ」
返す言葉がなかった。
「智様……」
横からシルクの声がした。見ると、彼女は少し蒼い顔をしていた。目の下に、うっすらと隈がある。
「……無理させたな、シルク」
「いいえ。智様が生きていてくださっているので」
それだけ言って、シルクはいつもの笑顔を見せた。
その横顔が、どこか遠くを見ているような気がした。
何かを言おうとして、背後から声がかかった。
「……起きたんだ」
振り返ると、フードを深々と被ったミラが歩いていた。
「ミラ……」
「うん。……心配かけてごめん」
その声は、いつものミラの声だった。ただ、少しだけ、掠れていた。
「良かったですわ、智様」とシルクが微笑む。
「全く、心臓に悪い戦い方しやがって。さすがにヒヤヒヤしたぞ」とシアが毒づく。
ミラはフードの奥で、小さく笑った。
笑顔だった。でもその端に、まだ拭いきれない何かが残っていた。不安なのか、気まずいのか。おそらく、両方だろう。
俺は何も言わなかった。ただ、ミラがここにいることを確認して、静かに息を吐いた。
シアの故郷、エルフの集落に着いたのは、夕暮れ前だった。
老人は俺たちを見るなり、シアに視線を向けた。
「……連れてきたな。見せろ」
ミラが少し躊躇って、それでもゆっくりとフードを外した。
角。尻尾。赤みがかった肌。
老人は顔色一つ変えなかった。
「……ふむ」
「あの……」
ミラが小さく声を出す。
「……怖くないですか」
「怖くはない。ただ、急がないといけない」
老人が振り返り、積み上げられた古い文献の山を示した。
「お前たちが行っている間、調べた。昔の文献に、似たような事例がいくつかあった」
「それで……治るんですか?」
シルクが静かに聞いた。
「……治る。回復魔法で元に戻せる。ただし」
老人が一呼吸置いた。
「途方もない魔力が必要になる」
沈黙。
「どのくらい……ですか」
「トップクラスの回復術師が、全力を出しても足りるかどうか、という話だ」
シルクの手が、膝の上でそっと握られた。
「……シルクなら届くんじゃないか?」
シアが言った。
「シルクの回復魔法は、俺が今まで見た中で一番だ」
老人がシルクをじっと見た。
「あんたの力は本物だ。だが、それでも足りない」
「足りなかったら」
ミラが、静かに言った。
「足りなかったら、どうなりますか」
「……あと一日、二日で手を打てなければ、戻れなくなる。魔族化が完全に固まれば、外見だけじゃない。思考まで変わる」
「テンセルみたいに、ってこと?」
シアの声が、低くなった。
老人が無言で頷く。
「その娘の力の規模から言えば……本当の意味での魔王になる可能性がある」
部屋が、静まり返った。
ミラが笑おうとして、笑えなかった。
「じゃあ……どうすれば」
「足りない分の魔力を補う方法が、一つだけある」
老人がゆっくりと言った。
「術者自身の体を、魔力に変換する」
「……どういうことですか」
シルクが聞いた。その声は、穏やかだった。
「そのままの意味だ。足りない魔力を、術者の肉体が補う。……結果として、術者は霧散する」
「霧散」
「魔力の霧になって、消える。肉体がなくなる」
「死ぬってこと?」
ミラの声が、震えた。
「死とは少し違う。文献によれば、霧散した魔力はどこかで再構築される。ただし、どこで再構築されるかはわからない。……時を超える場合も、ある」
「時を……超える?」
「過去や未来に飛ばされた例もある、ということだ」
沈黙が、また落ちた。
「……それは」
シアが、珍しく言葉を選ぶように間を置いた。
「二度と会えないかもしれない、ってことじゃないか」
「そういうことになる」
「じゃあ論外だ」
俺が即座に言った。
「ミラを戻すためにシルクが消えるなんて、そんな話があるか」
「智様……」
「うるさい。そんな方法は認めない」
ミラが唇を噛んだ。
「……私も、嫌だ」
掠れた声だった。
「シルクに、そんなことさせたくない。絶対に嫌だ」
シルクは何も言わなかった。
ただ静かに、ミラを見ていた。
俺はそのとき、シルクの目に気づいた。
泣いてもいない。取り乱してもいない。
ただ、穏やかだった。
穏やかすぎた。
何かを決めた人間の目だ、と思った。何かを諦めた目じゃない。選んだ目だ。
「……他に方法はないんですか」
シルクが老人に聞いた。
「今のところ、文献にはない」
「そうですか」
その「そうですか」の軽さが、逆に重かった。
「シルク」
俺が呼ぶと、シルクはこちらを向いた。
「……何かあったら、ちゃんと言え。一人で決めるな」
シルクは少しの間、俺を見ていた。
それから、ふわっと微笑んだ。
完璧な笑顔だった。
だが、その目だけは。
いつもより、少しだけ遠かった。
「……はい。智様」
俺の言葉を、聞いていたのか。
いなかったのか。
わからなかった。
老人は、その様子をずっと黙って見ていた。
部屋を出る俺たちの背中に、老人の低い声が一度だけかかった。
「……時間は惜しい。急げ」
それだけだった。
だが、シアだけが足を止めて、小さく頭を下げた。
老人は何も言わなかった。
俺は廊下を歩きながら、シルクの横顔をもう一度だけ見た。
笑っていた。
いつもと同じ、完璧な笑顔で。
(頼む)
心の中だけで、言った。
(一人で決めるな)
でも、その言葉が届いているかどうか。
俺には、わからなかった。
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