頭を下げに来ました
老人は、しばらくシアを見ていた。
皺の刻まれた顔に、感情らしい感情はない。ただ、長く生きた者だけが持つ、静かな重さがある。
「……どの面下げて戻ってきた」
「お久しぶりです、おじいさま」
シアの声は、相変わらず丁寧で、穏やかで、いつもの毒舌とは別人のようだった。
「魔法は暴発させ、生まれつき視力が弱く、弓は味方に向ける。眼鏡のエルフなんて聞いたこともない。……エルフの恥が、よりによって人間どもを連れて帰ってくるとは」
「耳が遠くなりましたか、おじいさま。お久しぶりですと申し上げました」
俺とシルクとレザードは、黙って顔を見合わせた。
老人の視線が、俺たちへと移った。値踏みするような、深い目だ。
「……用件を言え。お前が戻ってくるとすれば、よほどのことだ」
「はい」
シアは一歩前に出た。いつもの不遜な態度はなく、ただ真っすぐに老人を見ている。
「仲間が、魔族化しています。原因と、止める方法を知りたい」
老人の眉が、わずかに動いた。
「……魔族化」
「自我はあります。ただ、角と尻尾と翼が生えている」
「人間が、か」
「勇者です」
長い沈黙が落ちた。
森の奥で、鳥が鳴いた。
老人はゆっくりと目を閉じ、そして開いた。
「……中へ入れ」
案内された部屋は、木の香りがした。天井まで届く棚に、古い書物が隙間なく並んでいる。老人は上座に座り、俺たちはその前に腰を下ろした。
「アラミド教団を知っているか」
開口一番にそう言った。
「……名前くらいは」
俺が答えると、老人は短く頷いた。
「王都で最も勢いのある宗教団体。戦災孤児の支援、無償の炊き出し、世界平和を謳う清廉な組織。……表向きはな」
「裏がある、ということですか」
シルクが静かに聞いた。
「裏どころではない」
老人は書棚から一冊の古い本を取り出した。表紙に文字はない。ひどく古い。どれくらいの年月をかけて、この部屋に眠っていたんだろう。
「あの組織の本質はこうだ。世界平和のためには、人間こそが障害である。欲深く、愚かで、争いを止められない。ならば、強大な魔族によって滅ぼされるべき——そう信じる者たちの集まりだ」
誰も、すぐには声を出せなかった。
「……それが、国民的な宗教の正体だと」
レザードが低く言った。その声は平静を保っていたが、目の奥が違った。
「組織が大きすぎる。告発しようとした者は何人もいた。だが、全員もみ消された。私も、長い間黙っていた。言えば殺される。それだけのことだ」
「……」
「責めるなら責めろ。反論はしない」
老人の声は淡々としていた。後悔がないわけではないだろう。ただ、長く生きた者の諦観が、その声に滲んでいた。
「話を続けてください」
シルクが静かに言った。老人は一度だけ目を細め、それから続けた。
「アラミド教団の中には、二つの派閥がある。純魔族魔王派と、魔王因子派だ」
「魔王因子、とは」
「魔族も人間も、誰もが持っている素質のようなものだ。多く持っていても、それだけで魔族になるわけではない。ただ、因子が高ければ魔族との親和性が上がる」
俺はそこで、ある記憶が繋がった。
ミラのオッドアイ。片方が金色。
魔族の瞳は、金色だ。
「……ミラは、因子が高いということか」
「勇者がそうであれば、そういうことになる」
「なぜ魔族化した」
「順を追って話す」
老人は茶を一口飲んだ。
「魔王因子派は、人間の中から因子の高い者を探し、それを強制的に活発化させる。魔族の呪いを使ってな。活発化した因子は、宿主の肉体を少しずつ魔族へと変えていく」
「……テンセルも、そうされたのか」
レザードの声が、低く沈んだ。
「近衛兵が魔族化したという話は聞いている。おそらくそうだろう。傷心した者、救いを求めた者。そういう人間が狙われやすい。アラミド教団は救済の場所だからな。近づきやすい」
レザードの拳が、膝の上でわずかに握りしめられた。
俺は、その手を見ないようにした。こいつが今、何を堪えているか、わかりすぎるから。
「……そして勇者も、同じことをされた」
「レタンという魔族幹部と戦ったと言ったな」
シアが頷いた。
「石化の魔眼を食らったはずだ。あれは単なる石化ではない。魔族因子を刺激し、活性化を促す呪いが込められている」
「戦いの後、ミラ様が苦しんでいました」
シルクの声が、かすかに震えた。
「あのときに」
「そうだ。そしてテンセルとの戦いの後、さらに呪いが重ねられた。一度活性化した因子は、刺激を受けるたびに加速する」
部屋の中が、静かになった。
俺は黙って、天井の木目を見ていた。
ミラが魔眼を使うたびに、体に負担がかかっていたと言っていた。あの疲れは、そういうことだったのか。戦えば戦うほど、呪いが進んでいた。それなのにあいつは、ずっと前線に立ち続けていた。
「……なぜ、ミラは自我を保っているんですか」
シルクが聞いた。
「近衛兵は暴走した。でもミラ様は、ちゃんとミラ様のままで」
「因子の量だ」
老人は短く答えた。
「因子が高ければ、肉体が魔族化しても自我が崩壊しにくい。器が大きいほど、中身が溢れにくい。勇者はおそらく、相当量の因子を持っていたのだろう」
「それは、ミラにとってよかったことなんですか」
「どちらとも言えん」
老人の声が、わずかに落ちた。
「自我があるということは、自分が変わっていく過程を、すべて意識したまま経験するということだ」
誰も、何も言えなかった。
俺も、黙っていた。
ミラがローブを羽織り、フードを被り、笑いながら「大丈夫」と言い続けていた日々。
あいつは全部、わかっていたんだ。自分の体が変わっていくのを、止められないのを、ちゃんと感じながら。それでも毎朝起きて、討伐に出て、俺たちの前で笑っていた。
(どれだけ、怖かったんだろう)
その答えは、もう想像したくなかった。
「止める方法は」
俺が聞いた。
老人は少しの間、黙っていた。
「……ある。ただし、簡単ではない」
シアはそこで、一度だけ眼鏡を外した。
そのまま、老人の目をまっすぐに見た。
「……おじいさま」
「なんだ」
「私は、エルフとして恥ずかしい人間です。魔法は暴発させ、弓は味方に向けた。里の恥だということも、わかっています」
老人は何も言わなかった。
「それでも、仲間が困っています。私一人の力では、どうにもならない。だから、頭を下げに来ました」
シアは深く、頭を下げた。
「……お力を、貸していただけますか」
沈黙が続いた。
木々の揺れる音だけが、静かに部屋に流れ込んでくる。
老人はしばらく、シアの頭を見ていた。何も言わなかった。ただ、孫の頭を、静かに見ていた。
その目が、最初に見たときより、少しだけ違う色をしていた。
やがて、低い声が落ちてきた。
「……その勇者を、連れてこい」
顔を上げたシアに、老人は続けた。
「魔族化の解除、調べておく。できるかどうかは、約束せん。だが、やれることはやろう」
「……ありがとうございます」
「礼はいらん」
老人は立ち上がり、書棚へと向かった。
「さっさと行け。時間は惜しい」
シアは眼鏡をかけ直した。
その横顔を、俺はちゃんと見ていた。
里を出るとき、来たときと同じ視線が集まった。
でもシアは、今度は立ち止まらなかった。
まっすぐ前を向いて、歩いていた。
今日はブクマしてくださった方がいたので二本目投下します
ありがとうございます!




