有給消化 と ただいま
振り返ると、廊下の奥に直立不動で立っていたのはレザードだった。
近衛の制服を着ているが、階級章がない。
「……お前、まだ退職できてないのか」
シアが開口一番に言った。
「副団長職というのはなかなか辞表が受理されないものでして」
「じゃあなんだその格好は」
「有給消化中です」
「有給が何日あるんだ」
「あと三十日分ほど」
沈黙。
「……働きすぎだろ」
「お褒めの言葉として受け取っておきます」
シアが盛大に舌打ちをした。
「で、何の用だ」
「聞こえていました。全部」
レザードはそれだけ言って、まっすぐ俺を見た。
「連れて行きなさい」
「断る理由を三つ言えますわ」
シルクが一歩前に出た。普段の柔らかな声ではない。芯の入った、静かな声だ。
「第一に、今回の件はミラ様の個人的な事情に関わることです。部外者を連れていく理由がありません。第二に、あなたは先日まで私たちと敵対していた近衛の人間です。信用の根拠がない。第三に」
一拍。
「智様の隣に立てる人間は、そう簡単には増やせません」
レザードはシルクを一瞥した。それからまた、俺を見た。
「……テンセルのことは、まだ決着がついていません」
俺は黙った。
その言葉の重さを、静かに受け取った。
テンセルはレザードの部下だった。人を守るために剣を握っていた近衛兵が、気づけば魔族になっていた。その原因も、意味も、まだ誰にもわかっていない。こいつはそれをずっと、一人で抱えてきたんだ。
口には出さない。出せない。だからああいう言い方をした。
「……勝手にしろ」
シルクが「智様!」と声を上げた。
「シルク」
「でも」
「来たいなら来ればいい。足手まといになるかどうかは、本人が決めることだ」
シルクは唇を引き結んだ。それ以上は言わなかった。
レザードは短く頭を下げた。
「ありがとうございます」
こうして、一人増えた。
出発してしばらくで、俺はある事実に気がついた。
レザードが、近い。
「……少し離れろ」
「適切な護衛距離です」
「近すぎる」
「これが私のスタンダードです」
シルクの目が、細くなった。
「……レザード様」
「シルク殿」
「智様の右側は、私の定位置ですの」
「左側に移動しましょうか」
「左も、です」
レザードは少しだけ考えてから、俺の後ろについた。
「後方の護衛も重要ですね」
「…………」
シアが前を歩きながら、一度だけ振り返った。その目が「ご愁傷様」と言っていた。
夜営の焚き火は小さく、森の暗さをかえって際立たせていた。
シルクとレザードが休んでいるのを確認して、焚き火の前に座った。ミラのことを考えると、眠れる気がしなかった。
足音が近づいてきた。
シアだった。訓練用の槍を持ち、手袋をはめている。俺の顔をちらりと見て、黙って木剣を一本、放り投げてきた。
受け取った。
「……来い」
それだけ言って、焚き火から離れた場所へ歩き出した。
否定しなかった。立ち上がって、後についた。
月明かりがある。動くには十分だ。
「行くぞ」
シアが踏み込んできた。速い。以前と変わらず、無駄のない直線の突き。俺は半身を外し、槍の側面を掌で軽く叩いた。軌道がわずかにそれる。
一本、二本、三本。
シアは表情を変えない。ただリズムを変えながら突き続ける。
(前と同じだ。直線の突きは横からの力に弱い)
そう思っていた。
シアが一度、息を吸った。
来る。
踏み込みが、今までより深い。槍が伸びてくる。俺は同じように、槍の横を叩こうとした。
——手に、感触がなかった。
槍が、曲がらない。
いや、違う。回転している。槍の軸ではなく、シアの親指を中心に、外側へ向かって回転している。だから俺の横からの力が、…負ける
(しまっ——)
訓練用の槍の先が、腹に突き刺さった。
「ぐっ……!」
思わず膝をついた。
シアが槍を引いた。
「……一本」
満足そうに言って、手袋を外し始めた。
「寝る」
「……そうか」
シアが歩きながら、振り返りもせずに言った。
「ミラのことは、必ず取り戻す。それだけだ」
それだけ言って、消えていった。
俺はしばらく、腹を押さえたまま空を見上げた。
月が出ている。
負けた。シアに。悔しいことは悔しい。でも、さっきの槍の回転は——純粋に、すごかった。
(あいつ、いつの間にあんな技を)
気がつくと、少し笑っていた。
さっきまで眠れないと思っていたのに、いつの間にか瞼が重くなっていた。
たぶんシアは、そのことも計算していたんだろう。
二本取られたな、と思いながら、目を閉じた。
翌朝。
森の深部に入るにつれ、木々の密度が増していった。獣道さえも消えかかるような、人の気配のない場所。それでもシアは迷いなく進んでいく。
「……本当に知ってるのか、道」
「うるさい」
「生まれ育った場所だろ」
「うるさいと言っている」
やがて、木々の間から淡い光が漏れてきた。
足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。湿度が、温度が、音の響き方が。まるで別の場所に来たような、静かで深い空気。木造の建物が木々に溶け込むように立ち並んでいて、その間を細い耳を持つ人影がいくつか行き交っていた。
視線が集まる。
見慣れない人間たちを測るような、静かな目。
シアは立ち止まった。眼鏡のブリッジを押し上げ、一度だけ深く息を吸った。
その背中が、さっきまでとほんの少し、違う気がした。
そして、集落の奥に向かって、まっすぐに歩き出した。
大きな木の根元に、白い髪の老人が座っていた。
シアはその前で立ち止まった。
一瞬だけ、躊躇うような間があった。
老人はシアを見ていた。何も言わなかった。ただ、見ていた。
それから。
「ただいま戻りました、おじいさま」
流暢な、丁寧な声だった。
いつもの毒舌は、どこにもなかった。
老人の目が、細くなった。怒っているのか、それとも別の何かなのか、俺には読めなかった。
沈黙が、長かった。
俺とレザードとシルクは、揃って同じ顔をしていた。たぶん三人とも、息を止めていた。




