それは、音もなく降ってきた
朝、ミラの部屋の前を通ったとき、廊下に置いたままの食事が手つかずで残っていた。
昨夜置いたものだ。
俺はしゃがんで椀を手に取り、冷え切ったスープを見つめた。
(……いつから食えてなかったんだ、あいつ)
ノックをした。返事がなかった。もう一度。やはり、ない。
「ミラ」
沈黙だけが返ってきた。
嫌な予感がした。昨夜とは質の違う、もっと重たい種類の予感が。
ドアに手をかけると、鍵がかかっていなかった。
押し開けた先は、無人だった。
ベッドは乱れていた。荷物の一部がなくなっていた。窓が、わずかに開いていた。
(え?……どこに)
胸の中で何かが、静かにずれた。
あいつがいない部屋の空気が妙に薄い気がした。それだけだ。それだけなのに、気づいたら廊下を走っていた。
シルクとシアに伝えると、二人とも顔色が変わった。
「……いつからいないんですの」
「わからない。昨夜か、明け方か」
シルクの手が、法衣の裾をぎゅっと握りしめる。
「行き先は」
「手がかりなし。置き手紙もない」
シアが舌打ちをした。
「あのバカ……」
珍しく、声に苛立ちじゃなくて焦りが滲んでいた。
「探す。俺が出る」
「あたしも行く」
「いや、お前たちは王都に残れ。万が一ミラが戻ってきたときに誰もいなかったら意味がない」
シアが眉を吊り上げた。
「一人で行くつもりか。ミラがどこにいるかもわからないのに」
「心当たりを当たる。一人の方が動きが速い」
「……智様」
シルクが静かに言った。その目が、俺をまっすぐに見ている。
「ミラ様は……ずっと、何かを一人で抱えていましたわ。私にも、誰にも言えないまま」
「わかってる」
「あの子は、追い詰められると笑うんです。本当は怖くて泣きそうなのに、笑って『大丈夫』って言うんです」
「……わかってる」
「だから」
シルクの声が、少し震えた。
「必ず、連れて帰ってきてください」
俺は答える代わりに、剣を手に取った。
まず酒場を当たった。
ミラがよく顔を出していた店だ。カウンターの親父に聞くと、「昨日の夜更けに一人で来て、エールを一杯だけ飲んで出ていった」と言った。
「様子は?」
「……フード被ったまま、ずっとカウンター見てたよ。飲み干したら一言も喋らずに出ていった。あの子らしくなかったな」
それだけで十分だった。
次に訓練場の裏手、ミラが魔法の出力調整によく使っていた空き地。次に、王都の外壁沿いの見晴らし台。以前、二人で夜の王都を見下ろしながら他愛もない話をした場所だ。
どこにも、いなかった。
王都の外に出た。
足が、自然と森の方角に向いていた。
(あいつが一人でいるとしたら、人目のないところだ)
歩きながら、あの夜のことを思い出した。薄暗い廊下で、ローブの腰の辺りが不自然に膨らんでいた。あれはなんだったんだろう。そのときは追わなかった。
追えなかった、が正確か。
(……あれと、今回のことは繋がってるのか)
答えは出ないまま、足だけが前に進んだ。
ヤバい、と思っていた。根拠はない。ただ、あいつが一人でいる時間が一刻でも伸びることが怖かった。
森に入ったのは、夕刻を過ぎた頃だった。
静かだった。静かすぎた。
森の動物たちの気配が、どこかに消えている。
俺は足を止め、剣の柄に手をかけた。
(……いる)
木々の奥、複数の影が動いていた。足音がない。統率が取れている。一般の魔物じゃない。
魔族の小隊だ。王都に向かっている。
舌打ちしながら目を凝らした瞬間、その中に見知った影を見つけた。
細身の体躯。両手に細剣。あの独特の動き。
(……レタン)
両目を潰して牢に放り込んだはずの女が、魔族の小隊に混じって歩いている。
今度こそ仕留める。
息を殺し、木々の間を縫って距離を詰めた。地面を蹴る。
一閃。
袈裟懸けの斬撃が、レタンの背中を狙う。
「……っ!」
レタンが反応した。体を捻り、紙一重でかわす。
だが。
(読んでた)
――我流、燕返し……弐式。
通常の燕返しは超高速の上下二連撃だ。一撃目を避けた先に二撃目が来る。
弐式は違う。
一撃目を避けるであろう「その場所」に、あらかじめ刃を「置く」。
避けた先が、すでに死地になっている。
「な――」
レタンの目のない顔が、それでも確かに驚愕に歪んだ。
体が、斜めに裂けた。
音もなく、彼女は地に伏した。
俺は剣を引き、残りの魔族たちに向き直った。
数体。レタンがいなければ、なんとかなる。
そう判断した、次の瞬間。
首根っこを、巨大な手が掴んだ。
「……ッ!?」
地面から足が離れた。
後ろにいた。気配すら感じなかった。
引き上げられ、顔だけで背後を見る。
巨躯。三メートルはある。岩のような筋肉。その顔に刻まれた古い傷は——
(ナイロス……!)
十五年前の戦争で刃を交えた、魔族の幹部の一人。一度も勝てなかった相手だ。
「……久しぶりだな、人間」
低い声が、腹の底に響く。
次の瞬間、地面に叩きつけられた。
「がっ……!」
肺から空気が消える。起き上がろうとした瞬間、巨大な足が背中を踏みつけた。
「ぐ……ッ」
肋骨が悲鳴を上げる。
「十五年で少しは強くなったかと思えば……」
足が離れたと思ったら、蹴り上げられた。体が宙を舞い、木の幹に叩きつけられる。
「ぅ……ッ!」
視界が明滅する。剣を握る手に力が入らない。
ナイロスが、ゆっくりと歩み寄ってくる。急ぐ必要がないからだ。
(まずい……本当に、まずい)
立ち上がろうとして、膝が笑った。
ナイロスの手が、再び俺の首に伸びてくる。
——そのとき。
上空から、何かが降ってきた。
音もなく。ただ、凄まじい速度で。
ナイロスの巨体が、真横に吹き飛んだ。
地響きが森に轟く。木々が数本、根ごと薙ぎ倒される。
何が起きたか、わからなかった。
理解する前に、視界が暗くなっていた。
俺は静かに、森の地面に倒れ込んだ。
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