来てくれたじゃん
目が覚めたとき、最初に感じたのは土の匂いだった。
次に、体中の痛みがやってきた。
「……っ」
起き上がろうとして、肋骨が悲鳴を上げる。ナイロスに踏みつけられた箇所だ。深呼吸するたびに鈍い痛みが肺の奥まで刺さってくる。
あたりを見回した。
薙ぎ倒された木が数本。岩のように転がっているのはナイロスの巨体だ。ぴくりとも動いていない。魔族の小隊も、全滅していた。
誰かが、助けた。
(……誰だ)
ゆっくりと立ち上がりながら、視線だけで周囲を探る。
いた。
木々の間、少し離れた場所に小さな影が立っていた。フードを目深に被り、ローブを自分に巻きつけるようにして。こちらに背を向けている。
「……ミラ」
声をかけた瞬間、その背中がびくりと震えた。
逃げようとしている。それだけはわかった。
「待て」
足が止まった。でも振り向かない。
「見ないで」
低い声だった。いつものあの、弾けるような声じゃない。
「……ミラ」
もう一度呼んだ。今度は答えがなかった。
俺はゆっくりと近づいた。体が悲鳴を上げていた。それでも足を動かした。
ミラの正面に、回り込む。
フードの奥。前髪の隙間から覗く生え際のすぐ上に、皮膚が左右対称にわずかに盛り上がっていた。ローブの腰のあたりが、不自然に持ち上がっている。
(……何だ、あれは)
思考が、止まった。
角だ。尻尾だ。翼も、生えていた。
魔族の、特徴だ。
(待て。待て待て待て。ミラが、なんで)
頭の中で何かが高速で回転する。テンセルのことが、一瞬よぎった。あのときも最初は些細な変化だった。でもあれは——ミラは——
「……智さん」
ミラの声で、思考が戻った。
俺は息を、静かに吐いた。
今ここで動揺を顔に出すのは違う。そう判断したのは、計算じゃなかった。ただ、ミラの目が俺の顔をじっと見ていたからだ。
怖がっているのか確かめるように。
拒絶されるのを、待っているように。
「……気持ち悪い?」
その一言で、全部わかった。
こいつはずっと、この瞬間を恐れていたんだ。一人で抱えて、笑いながら、ずっとこの瞬間を。
「いや」
それだけ言った。
ミラはしばらく黙っていた。それから、小さく息を吐いた。
「……そっか」
笑い方だけは、いつもと同じだった。
でもその笑顔の端が、ほんの少しだけ、震えていた。
「ずっと隠してた。ごめん」
「いつからだ」
「少し前から。最初は尻尾だけだったんだけど、だんだん……角も。翼も」
淡々と話した。まるで他人事みたいに。でもその目はずっと、俺の顔を見ていた。俺がどんな顔をするか、確かめるように。
「なんで言わなかった」
「……言ったら、どうなると思う?」
俺は黙った。
「勇者が魔族化してるって知られたら、前線には出られなくなる。下手したら討伐対象にだってなるかもしれない」
一瞬、間があった。
「でも、それより」
ミラの声が、少しだけ小さくなった。
「シルクたちの顔が、どうなるか。想像するだけで……怖くて」
「それが一番怖かったんじゃないのか」
ミラの目が、一瞬だけ揺れた。
「……うん」
今まで聞いたことのない、小さな声だった。
「うん。そっちの方が、ずっと怖かった」
俺はしばらく、黙っていた。
こういうとき、気の利いたことを言える人間じゃない。それは自分が一番よくわかっている。何かを言おうとするたびに、言葉が空回りする。気の利いた慰めも、正しい答えも、何一つ持っていない。
それでも口を開いた。
「戻ってこい」
結局、それしか出てこなかった。
ミラの顔が、かすかに歪んだ。
「……智さん」
「戻って、みんなに話せ。隠し続けるより、そっちの方がずっとましだ」
「でも」
「でも、じゃない」
「でも、だよ」
ミラの声が静かになった。
「私はね、智さん。勇者なんだよ」
「知ってる」
「魔族を倒すために、ここにいる。それだけは変わらない」
俺は何も言えなかった。
「こんな体になっても、それだけは変わってないんだ」
ミラは一度、目を伏せた。
「こうなったから、わかることもある。魔族の気配が前よりずっとよくわかる。どこにいるか、どう動くか」
少し間があった。
「今日だって、智さんが危ないのがわかったから来られた。この体じゃなかったら、間に合わなかったかもしれない」
顔を上げた。
その目に、迷いはなかった。
「私が行く。私にしかできないことが、たぶんある」
「たぶん、か」
「うん、たぶん」
少しだけ、笑った。
「根拠は?」
「ない。でも、それが勇者ってもんでしょ」
俺は止める言葉を探した。
でも、見つからなかった。
こいつの目を見ていると、言葉が出てこない。迷いのない目をしているくせに、その奥に何か必死に隠しているものがある。それがなんなのか、俺にはわかってしまっていた。
だから余計に、何も言えなかった。
「迷惑でもいい」
絞り出すように、それだけ言った。
「よくない」
「俺が決める」
ミラがまっすぐ俺を見た。
何かを言いたそうだった。唇が、かすかに動いて、止まった。
それから、ゆっくりと目を細めた。
「……ねえ、智さん」
「なんだ」
「私さ、ずっと怖かったんだ」
俺は黙って続きを待った。
「みんなに言ったら終わりだって思ってた。テンセルみたいに……って。だから一人でいなくなれば、みんなは安全だって。そう思ってた」
ミラの声は、ずっと静かだった。泣いてもいなかった。ただ、話した。
「でも智さん、来てくれたじゃん」
そう言って、笑った。
「それだけで、よかった。それだけで十分だった」
俺は何も言えなかった。
「だから行ける。ちゃんと、行ける」
足元に魔力が渦巻いた。
「ミラ——」
「行ってきます」
フードが風に揺れた。その隙間から、小さな角の膨らみが一瞬だけ見えた。
光が、爆ぜた。
一瞬で木々の上へ躍り出て、そのまま夜空へと消えていく。
最後に見えたのは、ローブの裾だった。
俺はその場に立ち尽くして、暗くなった空を見上げた。
追えない。この体では無理だ。
わかっていた。それでも、足が動かなかった。
(馬鹿野郎)
心の中でだけ、言った。
来てくれたじゃん、とあいつは笑っていた。
それだけで十分だと、笑っていた。
俺は何もできていない。見つけただけだ。止められなかった。正しい言葉も引き留める力も、何一つ持っていなかった。
なのに、あいつは笑って行った。
(……次は、ちゃんと間に合う)
王都への帰り道、俺はずっと黙っていた。
シルクとシアに何を話せばいい。「見つけた。でも、行かせた」——そう言うしかない。
うまくやれたとは思っていない。
ただ。
(必ず迎えに行く)
それだけは、決まっていた。
どこにいても。どんな姿になっていても。
それだけは、変わらない。
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