尻尾が動いた それでも笑っていた
調子がいい、と気づいたのは、ある朝の討伐からだった。
魔眼が、澄んでいた。
以前は長時間使い続けると、左目の奥に鈍い熱が溜まる感覚があった。焼けた炭を眼窩に押し込まれるような、あの不快な疲労感。それが、ある日を境にぴたりと消えていた。
(……なんか、軽い)
試しに魔眼を開いたまま、敵の動きを追い続けてみる。一体、二体、五体、十体。魔力の流れが手に取るようにわかる。どこに力が集まっているか、次の瞬間どう動くか、全部見える。
以前の私なら、ここで眉間を押さえながら「ちょっと休憩……」と情けない声を出していたはずだ。
なのに今は、まだ余裕がある。
「すっご……」
思わず呟いてしまった。
その日の討伐は、自分でも驚くくらいうまくいった。魔眼で前衛を縫い止め、爆轟で一掃する。そのリズムが今までになくなめらかで、気持ちよくて、もっとやれる気さえした。
「ミラ様……今日は特に凄まじかったですわね」
帰り道、シルクが目を丸くして言った。
「ほんと? なんか今日、調子よかったんだよね! 魔眼が全然疲れなくて」
「以前より格段に練度が上がっていますわ。まるで……ミラ様がさらに進化されたようです」
進化。
その言葉が、胸の中でぽわんと温かく広がった。
(強くなれてる。ちゃんと、強くなれてる)
智さんが立ち直った。みんながまた笑えるようになった。私はちゃんと戦えている。
何もかもが、うまく回りはじめている気がした。
あの頃は、本当に。
何もかもが、眩しかった。
最初の違和感は、ひどく地味なかたちで訪れた。
尾てい骨の、少し上。
じんわりとした、鈍い圧迫感。
(腰、凝ってるのかな)
討伐続きで体を酷使してるし、特に気にしなかった。ストレッチをすれば治るだろうと思っていた。
でも三日経っても消えなかった。一週間経っても、むしろじわじわと、何かが押し出されるような感覚に変わっていった。
ある夜、一人で部屋に戻り、着替えようと服を脱いだとき。
腰の後ろに手を当てたら。
指先に、何かが触れた。
「……え」
細い。柔らかい。でも確かにそこにある、何か。
手鏡を持って、何度も角度を変えて確かめた。
背中の、腰のすぐ上。スカートの腰布に隠れるギリギリの位置から、薄い茶色の、細い何かが伸びていた。
長さは、まだ十センチもない。
でもそれは、紛れもなく。
「……尻尾」
声に出したら、現実になった気がして、すぐに口を塞いだ。
手が震えていた。鏡を持つ指先が、冷たくなっていく。
撫でると、ぴくりと動いた。
自分の意思で。
「……っ」
床にへたり込んだ。
しばらく、何も考えられなかった。
翌朝から、ローブを羽織るようになった。
「最近ちょっと寒くて」と言ったら、誰も疑わなかった。みんな優しいから。
討伐には出た。出なければならなかった。
魔族の侵攻が活発化している今、私が戦線を離れるわけにはいかない。でも魔族を狩りながら、ずっと考えていた。
(私、なんで尻尾が生えてるんだろう)
魔族の特徴だ。それは知っている。テンセルも、そうだった。人間だったはずの彼女が、気づけば魔族になっていた。暴走して、仲間を傷つけて、最後は……。
(私も、同じになるの?)
答えは、出なかった。
相談できる相手も、いなかった。
だって、もし言ったら。
テンセルのときみたいに、私も……。
(嫌だ)
食事が、喉を通らなくなってきた。
シルクが「顔色が悪いですわ」と心配そうに言ってくれる。智さんが「食欲ないのか」と気づいてくれる。
でも、答えられない。
笑うしかない。「大丈夫だよ」と言うしかない。
この笑顔だけは、まだ私のものだから。
額に痛みを感じたのは、それからさらに数日後だった。
おでこの、やや上。生え際のすぐ内側。
ずきずきと脈打つような、鈍い痛みがある。
何気なく指で押さえたとき、硬いものに触れた。
皮膚の下に、何か固いものがある。
(なんで頭痛がこんなピンポイントに……)
震える手で、前髪をかきあげた。
部屋の小さな鏡に、顔を近づける。
生え際のすぐ上、左右対称に、皮膚がわずかに盛り上がっている。赤みを帯びて、固く、まるで何かが内側から押し上げているような膨らみが。
「……角」
また、声に出してしまった。
今度は口を塞ぐのも忘れた。
前髪に隠れているから、まだ外からは見えない。でも確実に、そこにある。生えてきている。
寒気がした。体の芯から、じわじわと冷えていくような寒気が。
(私は、人間だ)
心の中で、必死に繰り返す。
(私は人間で、勇者で、仲間がいて、みんなを守りたくて、魔族なんかじゃない)
でも鏡の中の私には、尻尾があって、額に角が生えかけていて。
どう見ても、人間じゃない何かに、なりかけていた。
その夜から、フードを被るようになった。
「なんか最近コスプレっぽいな」とシアに言われた。
「うるさい」と笑って返した。
笑えた。まだ笑えた。
尻尾は、最初より少し長くなっていた。ローブで隠せているうちはまだいい。でも角は、時間の問題だと感じていた。
討伐に出るたびに、魔族を狩りながら思う。
(私は、お前たちの仲間になるのだろうか)
目の前の魔族は、迷わず人間を傷つける。私はそれを、魔眼で止めて、爆轟で消す。
でも。
(テンセルも、最初はそうじゃなかったはずだ)
彼女だって、元は近衛兵だった。人を守るために剣を握っていたはずだ。なのに最後は……。
(私もそうなる? 気づかないうちに、みんなを傷つける側に?)
智さんを。シルクを。シアを。
(嫌だ。絶対に、嫌だ)
その恐怖だけが、胸の中で膨らみ続けた。
ある朝、起き上がれなくなった。
体が重いわけじゃない。どこかが痛いわけでもない。
ただ、外に出たら誰かに見られる気がして。フードを被っていても、いつかばれる気がして。
そのとき、みんなの顔がどうなるか、想像するだけで。
ベッドから、出られなかった。
智さんがドアをノックしてくれた。
「メシ、持ってきた。食えないなら食わなくていい。ただ、声だけ聞かせてくれ」
泣きそうになった。
智さんの声は、いつも静かで、押しつけがましくなくて、でもちゃんとそこにいてくれる感じがして。
ドア一枚隔てただけなのに、ひどく遠かった。
「……ちょっと、だるいだけだよ。心配しないで」
精一杯、明るく言った。
「そうか。……無理に出てこなくていい。でも、何かあったら言ってくれ」
「……うん」
足音が遠ざかっていく。
私はベッドの上で膝を抱えて、ローブの上から尻尾のあたりをぎゅっと押さえた。
泣いた。声を殺して、ずっと泣いた。
何かあったら言ってくれ、と智さんは言った。
でも、これは言えない。
言ったら、終わりだと思った。
私がこのまま制御を失ったら、みんなを傷つけてしまうかもしれない。
テンセルみたいに。
(だったら)
天井を見上げた。窓の外は、まだ暗い。
(私がいなくなれば、みんなは安全だ)
答えは、静かに、ひどく静かに出てきた。
ここにいてはいけない。
自分が自分でなくなる前に、自分の意思があるうちに。
私は、ここを去らなければならない。
荷物をまとめながら、何度も手が止まった。
智さんの顔が浮かんだ。シルクの声が聞こえる気がした。シアの、照れ隠しの悪態が。
(好きだよ、みんな)
でも、だから。
「……ごめんね」
誰もいない部屋で、小さく呟いた。
夜明け前の王宮を、私は一人、足音を殺して歩いた。
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