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入り込む何か

地下牢の最深部を支配していた暴力的な魔力の奔流が、ぷつりと途絶えた。

後に残ったのは、耳が痛くなるほどの静寂と、鼻を突く鉄錆の匂いだけだった。


「……はぁ、……はぁ、……っ」


俺は膝をつき、激しく上下する肩を押さえた。右手の剣が重い。魔力を持たぬ俺にとって、魔族化したテンセルの猛攻を防ぐのは綱渡りの連続だった。一歩間違えれば、今頃転がっていたのは俺の方だ。

 

足元には、先ほどまで「怪物」だったテンセルが横たわっている。絶命と同時に、彼女の肉体を蝕んでいた異形が崩壊を始めていた。頭部を突き破っていた漆黒の角が乾いた音を立てて砕け散り、石床を叩いていた尾が煤のように霧散していく。

 

やがてそこには、見覚えのある銀髪の女騎士が、静かに横たわっていた。

 

「……終わった、のね」

 

ミラの震える声が、暗い通路に響く。前髪の隙間から漏れていた金色の光が、ゆっくりと収束していく。俺は立ち上がり、ふらつく彼女の肩を支えた。

 

「ああ。……だが、これじゃあ何も聞けそうにないな」

 

奪還された魔族レタンの行方。そして、なぜ一介の近衛兵に過ぎなかった彼女が、これほどの化け物に変貌したのか。

 

「智様、見てください」

 

背後から歩み寄ったシルクが、テンセルの亡骸を指差した。死してなお、彼女の右手は何かに縋るように強く握りしめられていた。俺がその指を一本ずつ解くと、血に汚れた小さなネックレスが床に零れ落ちた。

 

銀色の鎖の先に揺れるのは、翼と天秤を象った精緻なエンブレム。

 

「……アラミド教団の聖印ですね」

 

「アラミド教団? ああ、あの王都の救済組織か」

 

名前には聞き覚えがあった。ミラも前に何か買ってたしな。戦災孤児の支援や無償の炊き出し、「この戦争に真の平和と祈りを」と謳う、今や王都で最も勢いのある宗教団体だ。

 

「……あいつ、本当に通い詰めていたんだな」

 

低く、地這うような声がした。レザードがテンセルの遺体の傍らに膝をついていた。いつもの不遜な自信は影を潜め、その瞳には部下を守れなかった後悔が滲んでいる。

 

「レザード、何か知っているのか?」

 

「……あいつは、真面目すぎたんだ。貴方に負けた後、自分の弱さが許せなかったんだろう。非番の日はいつもアラミド教団の礼拝堂へ行っていた。あそこに行けば心が安らぐ、平和のために自分がなすべきことが見えてくるって……そう言っていた」

 

レザードは震える指先で、床に落ちた聖印を拾い上げた。

 

「アラミド教団は救いの場所だ。傷ついた騎士や、明日をも知れぬ民草に、無償の愛を説く。テンセルは誰よりも平和を愛していた。だからこそ自分の不甲斐なさを神に懺悔し、救いを求めたはずなんだ。それが、なんで……なんでこんな……っ!」

 

握りしめられた拳が、石床を叩く。平和を願ったはずの少女が、なぜ異形の怪物となり果てたのか。その矛盾に、誰もが言葉を失っていた。

 

「……なあ、レザード」

 

シアが槍を背負い直しながら、冷めた目で死体を見下ろした。

 

「なんであいつは、あんな姿になっちまったんだ? 魔法も魔力も、人間じゃありえねえ質だった。魔族にでも魅入られたのか?」

 

「……わからない」

 

レザードは短く、絞り出すように答えた。

 

「昨日あの後、日課の礼拝に向かったはずだ。魔族と接触する隙など、どこにもなかった。あいつが魔族と通じるなど万に一つもありえない。誰よりも魔族を憎み、平和を希求していたんだからな」

 

「……智様、私にも分かりかねますわ」

 

シルクがテンセルの遺体に手をかざし、残留魔力を精査する。だがすぐに、絶望的な表情で首を振った。

 

「呪いや契約の痕跡ではありません。ただ、彼女自身の魔力が根源から『作り替えられた』ような形跡があります。まるで内側から全く別の生き物へと変異したような。このような事象、王立図書館の禁書にすら記されてはいません」

 

沈黙が地下牢を支配した。

 

平和を謳う清廉な教団と、その熱心な信者が迎えた無惨な最期。その二つを結ぶ線は、今は誰の目にも見えていない。

 

「多分、隠し通路から逃げてるはずよ。ここまで出くわさなかったもの。問題はなぜ魔族が隠し通路の入り方を知っているか、だけど」

 

ミラが考え込む。

 

「ダメだ。お前は頭脳労働に向いてないんだから、無駄なことにカロリー使うな」

 

「……行こう。ここにいても答えは出ない。レタンを追うぞ」

 

シアがシルクの回復を受けながら言い放った。俺たちは奪還されたレタンの足跡を追うべく、地下牢のさらに奥へと続く隠し通路へと足を踏み出した。

 

背後で、レザードがテンセルの目を閉じさせ、短く祈りを捧げる。傍らに落ちた銀の聖印だけが、冷たい地下牢の底で、場違いなほど清らかに輝き続けていた。

 

「ミラ、どうした?」

 

ふいに隣を歩くミラの足取りが、目に見えて乱れた。俺が声をかけた瞬間、彼女は自分の左目を爪が石床を掻きむしるような勢いで押さえ、その場に崩れ落ちた。

 

「あ、……ぁ、……っ!!」

 

喉の奥から絞り出されるような、悲痛な喘ぎ。俺が駆け寄るよりも早く、押さえた指の隙間からドロリとした不気味な光が漏れ出す。

 

「ミラ! しっかりしろ!」

 

「い、痛い……っ!!」

 

見開かれた右目が、かつてないほどの恐怖に染まる。

 

「入って……くる。さっきの彼女と同じ……冷たくて、真っ黒な『ナニカ』が……私を、壊しに……っ!」


完結まで執筆完了しました


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