幕間 腐食の魔女レーヨン
「ああ……智さま。見て、この手首の血管。まるで美しい彫刻のようだわ……。この下を流れる熱い拍動を、私の指先で一生閉じ込めてしまいたい……」
王都の宿屋、その一室。 レザードは智の右腕を後方から抱え込むようにして、その手首に執執に指を這わせていた。
智は顔を引きつらせ、文字通り「おぞましいもの」を見る目で彼女を見やる。
「おい、レザード。さっきから言ってるだろ、離せ。血管を愛でさせる趣味はないし、何よりお前の吐息が耳にかかって、さっきから鳥肌が止まらないんだ」
「ふふ、照れないで。あなたの拒絶すら、私の肌には心地よい愛撫だわ……」
「……レザード様」
低く、温度のない声が部屋に響いた。 シルクが、いつものように完璧な手際で淹れたての茶をテーブルに置く。だが、その瞳には一切の光が宿っていない。
「智様がそう仰っているのです。今すぐその薄汚い手を離さないのであれば、あなたのその長い髪を一本残らず引き抜き、その口の中に詰め込んで差し上げますが……いかがかしら?」
「あらシルク、過激ね。でもこれは、彼の健康状態をチェックしているだけ――」
「三秒待ちますわ。……三、二、一……」
シルクが、ティーカップを置く際に使った小ぶりな銀のナイフを指先で弄ぶ。その所作があまりに「慣れて」いて、レザードも流石に微かな寒気を感じたのか、しぶしぶと手を離した。
「……冗談よ。そんなに怖い顔をしないで。……あ?」
レザードの視線が、智の右手首で止まった。 抵抗の拍子にめくれた袖の向こう。そこには、赤黒く、皮膚が引き攣ったような歪な痕が残っていた。
「……智さま。それ、どうしたの? 火傷……にしては、少し様子がおかしいけれど」
シルクもナイフを置き、その痕を覗き込む。 「……私も前から気になっていましたわ。智様、この際伺っても?」
智は、忌々しそうに袖を乱暴に戻した。 「……15年前の、ただの古傷だ。俺がまだ、向こう見ずな勇者パーティの一員だった頃のな」
◇
15年前。 勇者一行は、戦略的要衝である「迷いの森」を強行突破していた。
そこは、緑が豊かな森ではない。 大気には鼻を突く腐敗臭が漂い、樹木は生気を失って黒く変色している。
踏みしめる土壌は粘土のようにドロドロと溶け、まるで森全体が巨大な胃袋の中にあるようだった。
「……来るぞ」
リーダーの警告と同時に、霧の向こうから「それ」が現れた。
腐食の魔女、レーヨン。
それは、かつては人間だったはずの女性の姿をしていた。 だが、その肌は月光を透かすように半透明で、内側を流れる血液は黒く濁り、脈打っている。
浮遊する長い髪は意志を持つ蛇のように蠢き、空っぽの眼窩からは、ただ冷たい「無」が溢れていた。
精霊のような神秘性を纏いながら、同時に肉体を持った幽霊のような生々しさが同居している。
彼女は、ただそこに在るだけで周囲を「腐食」させる、歩く厄災だった。
「聖なる光よ、不浄を討て! ――エクス・パニッシュ!」
勇者の魔導師が放った極大魔法が、レーヨンの胴体を真っ向から消し飛ばした。
だが、次の瞬間には、欠損した部位が「煙が固まるように」瞬時に再生する。聖剣の斬撃も、どれだけ貫いても、彼女は痛みを感じる素振りも見せず、ただ機械的に再生を繰り返すだけだった。
レーヨンはおれを目視してから、なぜか執拗にこれに攻撃を仕掛けてくる。
「チッ……」
俺は魔法や斬撃の砂塵に紛れ、音もなくレーヨンの背後を取った。 一瞬の隙を突き、当時愛用していた剣を、レーヨンの心臓があると思われる位置へ向けて、その背から深々と刺し貫く。
確かな手応え。 だが、レーヨンはゆっくりと首を180度回転させた。 のっぺりとした、表情のない顔。その口が、微かに開く。
次の瞬間、レーヨンの白い手が、俺の手首を掴んでいた。
「……い゛っ!?」
激痛。 掴まれた場所から、色が失われていく。 防具の籠手は錆びた紙のように崩れ、智の手首の皮膚が、内側からドロドロと腐り始めた。細胞が悲鳴を上げ、脳が「そこから逃げろ」と最大級の警鐘を鳴らす。
だが。 智の手首が致命的に腐蝕しかけたその瞬間、レーヨンは、熱い鉄に触れたかのような、唐突で無機質な反射動作で、智の手をパッと放した。
そこに「驚き」や「恐怖」といった感情はない。 ただ、何らかのエラーを検知した機械のように、唐突な拒絶。
智は激痛に膝をつき、手から剣が滑り落ちた。 地面に突き刺さったその剣を、レーヨンは首を傾げ、ただ無機質にじっと見つめていた。
俺を見るでもなく、ただそこに残された「剣」という物体を観察するかのように。
「……退け! 全員退避だ!」
聖剣の勇者の怒号。 俺は仲間に担ぎ上げられ、煙幕と共にその場を離脱した。 背後で、魔女レーヨンが一度も追いかけてくることなく、ただ霧の中に消えていくのを、俺は薄れゆく意識の中で見ていた。
◇
「……その後、パーティの回復担当に何度も魔法をかけてもらったが、驚くほど効きが悪かった」
俺は、静まり返った室内で淡々と語った。
「回復の光を注がれても回復の兆しがなかったんだ。結局、腐り落ちた肉を削ぎ落として、自然治癒するのを待つしかなかった。その結果が、このザマだ」
レザードは、先ほどまでのふざけた様子を完全に消し、智の手首を見つめていた。
「腐食の魔女レーヨン……近づくもの全てを朽ち果てさせる、災厄。いつ現れたかも不明とされています。でも、おかしいわね。彼女に触れられて、その程度で済むなんて」
「……智様」
シルクが、震える指先でその傷痕を撫でようとして、躊躇った。 「なぜ、その魔女はあなたの手を放したのでしょうか」
智は自嘲気味に笑い、窓の外を見やった。 「さあな。……ただ、あの時、俺の剣を見ていたあの女の目は、今でもたまに思い出す」
(――あいつは俺に、何かを感じていた……?)
その答えは今も出ない。
「……さて、しん気臭い話は終わりだ。腹が減った。飯にしよう」
あいつは、おれに何を伝えたかったのか。今となってはわからない。
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