分からせた剣
静寂。
それは、あまりに一方的な幕引きがもたらした、理解を拒むための時間だった。
大広間の石畳に叩きつけられた近衛騎士副団長、レザード。その傍らに、一振りの鉄剣を携えて立つ"最弱勇者"と呼ばれた男、智。
広間を埋め尽くす数百の兵士たちの頭脳は、今、目の前で起きた事象を処理できずにフリーズしていた。
「……おい、さっきの。……何が、起きた?」
一人の兵士が、自身の震える声を抑えきれずに隣の仲間に問いかけた。
「わからない……。レザード様の猛攻を、あいつ、ただ一本の剣で……全部、撫でるみたいに受け流して……」
ざわり、と波紋のように動揺が広がっていく。
「最後の一撃、見たか? 上段からの振り下ろしをレザード様が防ごうとした瞬間、同時に下からも刃が走ってなかったか? 物理的にありえないだろ、あんなの」
「あんな剣技、見たこともない……。王国のどの流派にも、あんな『音も置き去りにする連撃』なんて存在しないはずだわ。まるで……世界そのものがバグったみたいな動きだった……」
嘲笑の対象だった男。
15年前に「魔法が使えない」という理由だけで、ゴミのように見捨てられたはずの男。
その男が、王国最強の一角であり、不落の盾と称えられた近衛副団長を、魔法すら使わず、魔力すら纏わせぬ「純粋な剣」一本で粉砕したのだ。
「私たちは……一体、誰を『最弱』なんて呼んでいたんだ?」
兵士たちの顔から血の気が引いていく。
智が軽く鞘を鳴らして剣を収めた――ただそれだけの、日常的な金属音にすら、最前列の者たちはビクッと肩を震わせ、数歩後退した。その圧倒的な「格の違い」に、今さらながら彼らの生存本能が、最大音量の警鐘を鳴らしていた。
「……お見事です、智さま」
そんな絶望的なまでの静寂を、シルクの涼やかな声が切り裂いた。彼女は倒れたレザードの横に膝をつき、透き通るような聖なる光をその手に宿す。
「智さまの剣をまともに受けて、この程度で済んでいるのは……さすが、近衛の副団長様と言うべきでしょうか。急所に当たる直前、刃を寝かせたのですね? すぐに意識は戻ります」
シルクは淡々と語りながら、智を見上げて悪戯っぽく微笑んだ。だが、その瞳の奥には「そんな加減などせず、もっと徹底的に壊してしまっても良かったのですよ?」という、底知れない独占欲と期待が透けて見える。
「……智、少しやりすぎだぞ。相手はこれでも一応、国を護る大事な盾なんだからな」
シアが肩をすくめて歩み寄ってくる。口では嗜めているが、その表情は愉快で仕方ないといった様子だ。
「……悪かったよ。さすがに手練れだった。15年ぶりの対人戦で、加減するほどの余裕がなくてな」
少しだけ申し訳なさそうに頭を掻いた。
だが、その「加減する余裕がなかった」という言葉こそが、周囲の兵士たちをさらに戦慄させる。彼らにとってはつまり、「本気を出せばレザードの命など一瞬で消し飛ばしていた」と告げられたも同然だったからだ。
やがて、シルクの高度な回復魔法がレザードの肉体に浸透し、彼女の指先がピクリと動いた。
「う……あ……」
低い呻き。レザードがゆっくりと、重い瞼を開ける。
シアやミラ、そして周囲の近衛兵たちが、彼女から発せられるであろう「怒り」や「屈辱」、あるいは「再戦の要求」を予想して身構えた。プライドの塊のような彼女だ。敗北を喫したとなれば、狂乱して剣を取るか、あるいは騎士としての死を望んで絶望に打ちひしがれるかのどちらかだろう――誰もがそう確信していた。
だが。
「……あ、あぁ……っ」
レザードは立ち上がろうとせず、地面に伏したまま、自身の胸元を抱きしめるようにして小刻みに震えていた。その頬は、戦いの高揚とは明らかに質の異なる朱を帯び、瞳は潤んでいる。
「副団長! 大丈夫ですか! すぐに予備の武器を――」
駆け寄ろうとした部下を、レザードが鋭く、かつどこか艶を帯びた声で制した。
「……来るな。触れるな……っ! 私の中の……『余韻』を、乱すな……!」
彼女は這いずるようにして視線を上げ、智を見つめた。そこには憎悪も、屈辱も、怒りも、微塵も存在しなかった。あるのは、狂おしいほどの情熱と、魂を根こそぎ奪われた者の熱情。
「28年……。生まれてから今まで、これほどの『重み』を……己を貫く圧倒的な『他者』を、感じたことはなかったわ……」
レザードが熱っぽい、吐息に近い声を漏らす。
「魔力でごまかさない、純粋で、鋭利で……暴力的なまでに洗練された『技』。私の防具も、魔法も、積み上げてきたプライドも……すべてを粉々に砕いて、私の『芯』にまで届いたのは……貴方が初めてよ……智さま……」
智は直感的に、生存本能が全力で逃走を促すような、背筋が凍る危うさを感じた。
「え、あ……レザード副団長?」
「あぁ……たまらないわ。あの瞬間、私の命は確かに貴方の掌の中にあった……。貴方に斬られている間、私は……私は、生まれて初めて、自分が生身の女であることを、生の実感を、骨の髄まで叩き込まれていたの……っ!」
レザードはうっとりと、神々しくも異様な恍惚とした表情を浮かべた。
彼女は、あまりに強すぎたのだ。近衛の頂点に立ち、誰にも傷をつけられず、誰にも見下ろされることのなかった、寒々しいほどの孤独。
それが今、智という絶対的な「格上」の存在によって、文字通り完膚なきまでに破壊された。彼女にとって、この敗北は屈辱ではなく、28年間の渇きを癒やす極上の「救い」であった。
レザードはそのまま、主君に対する礼を遥かに超えた、求愛に近い姿勢で智の前に進み出た。
「智さま……。私を、貴方のパーティーに加えなさい。いいえ、貴方の剣の一部にして。私をこれほどまでに『分からせて』くれた男を……私は一生、放さないわ……!」
「…………は?」
智の口から、情けないほど間の抜けた声が漏れる。
周囲の空気は、先ほどの恐怖とは全く別の、社会的な死を予感させるような意味で凍りついた。近衛兵たちは「俺たちの……俺たちの凛々しかった副団長が、あんな……あんなマゾみたいな顔をして告白してる……」と、現実逃避するように天を仰ぎ、ドン引きしていた。
「ちょっと待ちなさいよ、この女……!」
真っ先に動いたのはシルクだった。先ほどまでの余裕のあるメイドの仮面はどこへやら、彼女は弾かれたように智の前に割り込み、レザードを蛇のような鋭い眼光で射抜く。
「治療してあげた恩を、智さまへのストレートな誘惑で返すつもりですか!? 恥を知りなさい、この欲求不満変態兵士!」
「ふん、治療など頼んでいないわ。……智さま…あなたの一撃…もう一度、私の心と体に、深く、深く刻んで……」
「変態だ! この人、完全に手遅れの変態だ!」
本気で引き、思わず数歩後退した。
その横で、現役勇者であるミラは、手で顔を覆いながらも、指の隙間から智をジト目で見つめていた。その顔は髪の毛の先まで真っ赤に染まり、羞恥と憤怒が混ざり合ったような複雑な震えを見せている。
「……バカ。最低。……なんで、なんでそんな……変な女を釣るような、エッチな剣を振ってるのよ……っ!」
「俺のせいかよ!?」
魂の叫びは、レザードの狂熱を帯びた求愛と、シルクの罵声、そしてミラの泣きそうな怒鳴り声にかき消され、大広間の空に虚しく響くだけだった。
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