2.擬態
一週間前の朝、僕は違和感とともに自室で目を覚ました。
母親は素っ頓狂な言動を繰り返す僕のことを、最初は寝ぼけているのだろうと思いまともに取り合ってくれなかった。
しかし、完全に日が昇りきった頃になってもチンプンカンプンな息子の有り様を見て、化粧の上からでもわかるほどに顔の色を青くし僕を病院に連れて行った。
昼過ぎに始まった診察は幾度もの問診や検査を経て、日が暮れる頃になりようやく終了した。
『突発性解離性健忘が疑われます』
医者は僕と母親にそう告げ、ミミズのような文字でカルテに何かを書き込んだ。
聞き覚えのまったくないその病気は、何年か前に名前がついたばかりの新しい症例だという。
十代後半の少年少女にのみ発症するそれは、主な症状として記憶の欠落、夢を見ているようなフワフワとした感覚、空間や時間などの認識の乱れなどがあるのだそうだ。
医者が羅列したそれらは、僕が感じている違和感を箇条書きにしたようなものだった。
『治療法はまだ確立されていませんが、症状の改善を目的とした施設があります』
その施設の名称は、『独立行政法人青少年特定疾患支援機構附属かささぎ学園』と言い、国の試験的なプログラムで設立されたものだという。
当事者であるはずの僕は蚊帳の外に置かれたまま、医師と母親の話し合いが行われ、その日のうちにその施設に身を置くことが決められていた。
元いた学校には籍を残したままなので、症状が改善されれば戻ることができるとも説明された。
母親が運転する車はエンジンを唸らせながら、夏の緑が深く連なる急勾配の山道を上っていく。
自宅を出てから高速道路を二時間走り、そこから更に山奥に分け入った場所に目的の学園はある。
辺鄙な場所に建てられた施設だと聞いてはいたが、まさかここまでだとは思ってもみなかった。
出発してから母親とはひと言も口を利いていない。
もっともそれ以前にあっても、母親を母親として認識することのできなくなった僕は、彼女との会話を避けたまま今日という日を迎えていた。
「圭佑、着いたわよ」
母親の声に顔を上げると、いつの間にかタイヤが回転を止めていた。
車のフロントガラスのすぐ向こう側には黒くて大きな鉄製の門がある。
その両脇には鳥が翼を広げたような形をした白い壁がどこまでも続いていた。
壁の向こう側に三階建ての建物が二つ建っているのが見える。
その白い建物こそが目的地の学園なのだろう。
深い森に囲まれた近代的な校舎は、教育機関というよりは病院や研究施設のように見えた。
「良くなったらまた迎えに来るから」
母親は悲しげな顔でそれだけ言うと、車をUターンさせて山道を下っていった。
到着して最初に案内されたのはこの学園の保健室だった。
「これに着替えてちょうだい」
白鳥と名乗った中年の大柄な女性養護教諭は、ビニール袋に入った服を僕に渡すとベッドサイドの長いカーテンを引いた。
胸ポケットに鳥のようなワッペンがあしらわれた白いワイシャツは、どういうわけか随分とサイズが大きかった。
紺色のスラックスも同じで、歩くだけで床の拭き掃除ができそうだった。
「開けるわよ」
言うやいなやカーテンが音もなく引かれる。
「あら、似合ってるじゃない」
白髪混じりのひっつめ髪の校医は口に手を当てて笑った。
僕は作り笑顔で応じつつ、内心では違和感と戦っていた。
サイズの合わない制服は、例えるなら他人の靴を履いているような、そんな気持ち悪さがあった。
「それじゃ次は生徒指導室まで行ってくれる? ここの廊下をまっすぐに進んだ突き当りにあるから」
保健室から足を踏み出した途端、自分が今どこで何をしていたのかを忘れてしまいそうになる。
白線がまっすぐ引かれた床や白い塗料で塗られた壁は、たしかに前の学校と雰囲気がよく似ている。
しかしそれは似ているというだけで、やはりどこかが間違っているように感じた。
――擬態。
そんな言葉が脳裏に浮かぶ。
それはこの場所の印象だけではなく、僕という存在そのものを端的に表していた。
自分がどこの誰であったのかを、僕はいまだに思い出すことができないでいた。
母親が圭佑と呼んでいるのだから、それが僕の名前なのは間違いない。
だがその響きには一切の馴染みがなかった。
僕は本当に圭佑で、本当に十七歳の学生なのだろうか?
こんな根本的なパーソナリティーにまで疑いを持ちながら、今日からこの知らない場所で生活を送ることは不安でしかなかった。
廊下は無音だった。
時間的に授業中なのかもしれないが、それにしても静かすぎる。
窓の外には大きな杉の木や桜の木が、手を伸ばせば触れることができそうなほど近くに生えているのに、セミの声ひとつ聞こえてこない。
上靴のゴム底が床のリノリウムと擦れるキュっという小さな音だけが、廊下の四角い断面を行き来している。
突き当たりのドアには、『生徒指導室』と書かれたプレートが取り付けられている。
すでに開け放たれている引き戸を拳で三回たたくと即座に、「どうぞ」と落ち着いた声が返ってくる。
室内には男がひとり背筋を伸ばして椅子に座っていた。
三十代半ばほどの細身のその男は、教師というよりテレビドラマの弁護士のように見えた。
黒色のスーツに白いシャツと、それにえんじ色のネクタイ。
短い髪は七対三で左右に分けられ、リムレス眼鏡の奥に見える眼光がやけに鋭い。
「君が杉卜圭佑か」
黙ってうなずくと、男は手元のファイルとこちらを交互に見ながら口を開いた。
「私は宗方といって、この学園で生徒指導を担当している」
口調は丁寧だが、彼の言葉には温度が感じられなかった。
「もっとも君たちを直接指導する機会はそう多くはない。この学園の代表のような仕事だと思ってくれてもいい」
そう言いながら宗方先生はファイルの中から一枚の紙を抜き取り、僕とその紙とを見比べるように視線を上下させる。
「……そうか」
「はい?」
「どうやら君は少し特別な生徒のようだ。だがまあ、それはいい。その制服、やはり少し大きかったか」
「……はあ」
肯定とも否定ともつかない僕の返事を聞き流した宗方先生は、靴音を響かせてすぐ正面まで歩み寄ってくる。
僕の身長が同年代の平均よりだいぶ小さいせいもあるが、首をほとんど真上に向けて彼を見上げた。
宗方先生はいつの間にか手にしていた茶封筒の中身を確認してから、「学生証と部屋のカードキーが入っている。今日はこのまま寮に戻りなさい」といい、大きな封筒をまっすぐこちらに向けた。
「私からは以上だ。なにか質問は?」
なにかも何も、何もかもがわからない。
それが本音だった。
だがそれを彼に問うたとしても、僕には理解できない答えが返ってくるのはわかりきっていた。
なので今はただ言われるがままに動くのが正解に思えた。
彼は静かに僕に背を向けると、壁際のデスクの椅子に腰を下ろした。
それが退室の合図だと気づき、封筒を両手で抱えながら部屋を出る。
『今日はこのまま寮に戻りなさい』と言われはしたが、そもそも寮の場所を僕はまだ知らない。
貰った物の中に地図か何かがあるかもしれない。
茶封筒を左右に広げて覗き込んでみる。
しかし残念なことに、そこには生徒手帳とカードキーしか見当たらなかった。
仕方なく突き当たるまで廊下を進んでみることにする。
異様に広い廊下の両側の壁にずらりと並んだドアは、どれもこれも似たような形をしており、その用途を示すような案内はどこにも見つけることができない。
ただ、雰囲気からして教室ではなさそうだった。
寮というからには、校舎とは別の建物があるのかもしれない。
そう当たりをつけて廊下を進んで行くと、進行方向の右手の屋外に開けた場所が見えてきた。
たぶん中庭かなにかだろう。
そこはコンクリートブロックが敷き詰められており、広さはテニスコート一面分くらいありそうだ。
中央に植えられたイチョウの大木には、人の手のひらのような形をした緑色の葉が、これでもかという勢いで茂っている。
その根本に置かれた木製のベンチに、夏服の白いセーラー服を着た少女の姿があった。
肩の上あたりで切り揃えられた淡い色の髪が日に透け、肌の色は驚くほど白い。
大きな瞳を縁取るまつ毛はまるで平筆のように長く、その視線の先は辿るまでもなく僕のほうに向けられており思わず息を呑む。
なぜだか逃げ出したくなるような気持ちと、引き寄せられるような気持ちが同時に込み上げてくる。
少女は立ち上がるとスカートの後ろをパンパンと両手で叩きながら、おもむろに形の良い唇を開いた。
「こんにちは」
彼女の声は真鍮でできた風鈴のように透き通っていた。
ほとんど同じ高さにある黒く澄んだ瞳が、まるで値踏みでもするかのように僕の顔を覗き込んでくる。
「……こんにちは。あの、君は?」
少女は僕の問いには答えずに笑みを浮かべたままで、「迷子だったんでしょ?」と言った。
「なんでわかったの?」
「この学園にくる生徒はみんな同じだから。ここの人たちってね、黙っていたらなにも教えてくれないの」
いつの間にか隣に立っていた少女は、セーラー服の青いリボンを指に巻き付けながら続けた。
「だからここでは自分から誰かに聞くか、それでもわからないことは自分で調べないとね」
彼女は立てた人差し指を左右に振ると、なぜだか得意げな顔をして見せた。
「それじゃ、いこっか?」




