第十一話 条約の意味
どれだけの山を乗り越えてきたのか、もう覚えていなかった。天候の移り変わりも、景色の移り変わりも何度も何度も繰り返されて、距離感が麻痺し始めてきた頃だったのは分かる。
地面のぬかるみにはまって、動けなくなったりした。山と山の間に入ってしまって身動きが取れなくなってしまった時があった。途中で、食料を別の山から調達すべく半日近くその場にとどまったという事もあった。
とにかく、色々なことがありつつも結果的に辿り着いた時には既にマナゴ跡地から離れて一週間近くが経過していた。色々とあったその七日間を振り返りつつ、しかしリュカは安堵の息を吐いた。ようやく、たどり着くことができた、この場所、イェンエンを目視することのできる一番近い山へと。
だが安心するのもわずかばかりと、一気に顔を引き締めたリュカは改めて出発点から腰に帯びた鞘に手をかけ、今にも飛び出したい気持ちを押さえつけながら背後に控えている二人に問う。
「鉄仮面、レラ、この一週間でこの国から降りた人間は?」
「……」
「ゼロよ」
レラのどこか小ばかにしたような報告に、リュカもまた額に指を付け乍らため息を吐いた。まったく、こんな愚策に付き合う物好きばかりのこの国の人間ときたら、本当に、誇らしくて涙が出て来る。
「まったく、本当に馬鹿ばっかりだよね。あれから一週間もあれば、心変わりの一つや二つしてもいいのに」
「そうね、誰一人降りることなく死刑台への一本道をかけ歩いている……でも、それが誇りなのでしょう?」
「フッ、あるいているというより、この山を動かしているのはウワン殿のケモンスターですよ」
「えぇ、そうだったわね」
鉄仮面のどうでもいい様な指摘に対してレラはそれまで見せなかったような笑みを見せた。
本当、この国の人間は馬鹿ばっかりだ。自分がレラに提示した作戦が、国内にいる全ての人間に伝わっていてよく誰も逃げなかったものとつくづく呆れはてる。
本来こういった国の行く末を暗示するような作戦という物は、軍の上層部の人間、主に大将級の人間だけが知っておくだけで構わない者。だが、この特殊な国にいる人間の多くは元々そう言った集団に馴染むことができずに国からはぐれた者たち。形骸化しつつあった制度は廃止の意向をリュカは示しており、元より軍に所属していたイホから来た人間たちもまたそれに従い、それぞれがそれぞれの役割を果たせばいいという大まかな作戦を守っていれば比較的自由に動けるようにしているのだ。
情報漏洩の問題に関しても、ウワンの絶対的な監視の目が光っているため諜報や間者を心配する必要がないと言うのが功を奏した。おかげで、この作戦を国の戦闘、非戦闘員問わずとして浸透させることができていたのだから。
それはそれで、問題があるのは事実なのだが。リュカは、手に携えた刀の柄を撫でながら愛おしそうに国の中をみる。
「鉄仮面……国を降りるだけならまだしも、もし向こうの国に行くような人がいたら……」
勿論信じたい。だが、信じ切った結果痛い目を見てきた人間を大勢知っている。故に、彼女は自分自身も国内のあちらこちらに赴き囮をし、裏では鉄仮面に国民感情の調査をしてもらっていた。監視していたと言ってもいいのかもしれない。
そう、国を降りる≪だけ≫ならまだいい。だが、もしも敵に情報が流れるような真似をさせてしまったら。けど、それを公に罰することなんてできない。自分が、その自由意志を奪ってはならないのだ。独裁者となってしまってはならないのだ。その戒めの中にいるから。
だが、もし裏切り者という物が出てしまったその時には、鉄仮面に処理をしてもらう様にしていた。引き留めるか、あるいはその手を国のために、自分のために汚してもらうか。
何とも自分勝手な指示であると自分でも思う。こんな両立しない意見しか頭にない人間どうかしていると思う。でも、全ては国のためなのだと自分自身に言い訳をしながら彼女は鉄仮面に再度の確認をした。
鉄仮面は、冷たい鉄の面の下で一瞬笑みをこぼすと呟いた。
「汚れ仕事も、私の使命です」
その言葉が、とても頼もしかった。
幸か不幸か、そのような事態にはなっていないらしく現状彼女の手は一切汚れてはいないのは、今のところの安心材料だ。しかしもしこの作戦が上手くいったとしても、その先に待っているだろう≪大量の人員流入≫に伴う情報の漏洩は逃れることができないだろう。
油断は禁物、そう心に刻みながら、彼女はこれから行う愚かなる戦争の最終確認を行うために天幕の中に入った。
そこには、トアやリーゼ等と言ったいつもの面子が揃っていた。いない人間と言えば、自由に山を駆けまわっているケセラ・セラとそして親友のエイミーくらいだろう。
彼女は、強がりにも見える笑みを浮かべながらその少女たちに言う。
「で、いつ攻撃を仕掛ける?」
「早い方が良いと思うわ」
「理由は?」
「援軍が来るから、ね」
トアはそう言いながらこの周辺の地図を広げ、イェンエンから一番近い国を指す。
「この国がイェンエンに最も近くて、イェンエンと条約を結んでいると≪表≫で出ている国。ここからイェンエンまででそうね……装備を整える時間込みで三日ほどかしら?」
「つまり、イェンエンに攻撃に手間取っていたらその国を含めた各国の援軍が来て……」
「私たちは一巻の終わり、か」
リーゼは、目をつぶりながらさもありなんといわんばかりの表情を浮かべる。
元々国力としての差や周辺国との同盟の数も質も比べ物にならない程の劣勢なのだ。もしも援軍が雇用者なら自分たちはたちどころに殲滅させられてしまうだろう。
同盟を破棄させられる決定的な証拠があれば、話は別なのだが。
「リィナさんたちは?」
期待を込めた言葉に対して、カインは首を振りながら返答する。
「行ったっきりよ。多分今夜中には帰って来れるんじゃないかしらね」
「何か朗報を持ってきてくれればいいのだけれどね……」
諜報に出した人間の成果次第ではその時点での同名の破棄を周辺国が宣言できる。今は、彼女たちの頑張りを信じるしかない。
「前々から気になっていたことがあるんだけど」
「何?」
砂粒を噛んだような苦い顔をするリュカに対して、ヴァーティーがちょっと前から疑問に思っていたことがあったらしいと問う。
「貴女、元々イェンエンの中に大規模な軍隊がある事を前提にしているわよね」
「うん、そうだね」
「その国は、大きな軍隊を置かないことで条約を締結しているわけよね」
「まぁそうだね」
「だったらその軍隊が出てきた時点で条約破棄の理由になるんじゃないの?」
「……」
彼女の言う通りだったらどれだけ良い事か。リュカは頭を抱えた。
「確かにその通りだけど、問題は≪イェンエンがそれぞれの国と具体的にどんな条約を結んでいるのか≫がよく分からないって事」
「確かにそうだ」
と、引き継ぐようにリーゼが立ち上がった。
「君の言う様に大規模な軍隊を持っている時点で条約破棄には十分だ。しかし、もし条約の中身に≪自衛のための部隊の保有の可否≫について書かれていた場合事態はややこしい事となる」
「というと?」
「言い逃れができてしまう、という事だ」
自分とて真っ先に考えたことだ。それは、かの国が自分の前世の、まぁ、某国としておくがそれと似ているが故に思い付いていたこと。軍を持っていないと言え軍に似たそれらを所有している。そしてイェンエンが大規模な軍を出してきた時点で、同盟の破棄を宣告することができるのではないか。
言われてみなくても一番楽で一番被害のなさそうな答えなのだが自衛のための≪部隊≫となって来るといわゆる≪義勇兵≫見たいなものであれば自分たちは関知していない、のような言い訳をされてしまう恐れがある。
自分たちが唯一知っているのがイェンエンが他国との絶対的不可侵の条約を結んだことという大まかな内容だけ。軍を持ってはならないと言うのも神様を祀るような神聖なる国が軍を持ってはいないだろうと言う≪思い込み≫が引き出している答えの可能性もある。
自分たちは何も知らない。何も知りえない。だからこその諜報の力が必要なのだ。
リーゼの言葉になんとなく腑に落ちないような表情を浮かべたヴァーティー。彼女の考えも分かるのだが、国と国との間の決まりごとは外交上に置ける重要な取引、切り札の一つ。ソレを安易に公開しないのもまた策士のやる事であるのだ。
取り決めという物は絶対的な物である。それがこの世界の大前提であり、なおかつソレがあるからこそこの世界は安定しているのだ。
かくいう自分たちですら、人質交換のない≪不平等な同盟≫を各国と結んでいるに過ぎず、その条約の交渉に関してはある人物を通してでしかやっていないから、完全に理解している人間はこの国でも数人しかいない。
それほど、条約や同盟という物は重い物であり、そして切り札としてはうってつけなのである。
「ん……?」
「この揺れは……」
それからしばらくああでもないこうでもないと色々と意見を行っている時だった。突如として地面が揺れた。
これは、ウワンが動き出したのか。いや、そんな指示誰も出していないはずだ。という事は。
『リュカ』
「ウワンさん。どうしたの?」
半透明のウワンが、あまり慌ててもない様子で言う。
『この国に獣が近づいているわ。それも……』
というと、ウワンは言うべきか、言わざるべきかと悩む様に一度目を閉じてから邪悪な笑みを浮かべた。
『とびっきり危険な獣……貴方たちが≪接触禁止生物≫と呼ぶ獣が』
「……」
不謹慎な事に、この時リュカは心の中でほくそえんでいたと言う。




