予期せぬ出来事・1
辺りは異常なほどに静まり返っていた。
否、喧騒を好まないゼルラーデルが統治するズルファウスの森においては、今の状況が常であり、先ほどまでの騒ぎの方がむしろ異常なのかもしれない。
少し前まであちらこちらで紅い舌を揺らめかせていた火炎の残骸は、地場のバランスが崩れた際に、魔術の封印が解けたらしいゼルラーデルが生み出した水により、完全に消火されている。
辺りに潜んでいるはずの妖属も、恐らくは息を殺してこちらの様子を窺っているに違いない。しかしズルファウスの支配者であるゼルラーデルの魔術が回復した今、一頭として自らその姿を彼の前に晒しはしないだろう。
圧倒的な力の差を、到底敵わない相手と言うものを、妖属は本能で感じ取ることが出来る。本能に忠実な彼らと、欲望に目が眩み自らの力を過信する人間、いったいどちらが愚かだと言えるだろうか。
ゼルラーデルは薄い唇に皮肉めいた笑みを浮かべて、ぬかるんだ地面に膝をつき項垂れる男に目を向けた。黒いローブは泥に塗れ、自慢の杖も既に彼の手には握られていない。
「モーリス・アジェ。貴様の身柄は一連の騒動の首謀者として国王陛下へ引き渡す」
良く通る声で朗々と告げられた言葉に、アジェは僅かに顎を持ち上げてゼルラーデルを見上げた。その落ち窪んだ双眸から陰湿な光は消え失せ、まるで洞のような黒い二つの穴が、底の見えない虚無を表すだけだ。
「いつもいつもお前は私の邪魔ばかりをする……私の欲する女はみなお前を選び……欲しかった力さえも……なぜだ……どうして敵わない……どうして私では駄目なのか……」
虚ろな顔をして、まるで独り言のようにブツブツと呟きを漏らすアジェの異様な姿に、リリアの背筋に冷たいものが走り抜ける。
乱れた毛髪が血の気の失せた頬や額にかかり、もはや初見の際には多少なり感じた威厳や品位はどこにも見当たらない。
(こんなに短時間でまるで別人みたいだわ)
そんな感想を抱きつつ、リリアは一連の事件が解決したことに、ほっと胸を撫で下ろしていた。もちろん首謀者モーリス・アジェを国の兵士へ引き渡すまでは、ゼルラーデルも気は抜けないだろうが、少なくともこれでズルファウスの森を通る旅人が妖属に襲われることはなくなるだろう。
湿った土を蹴る蹄の音が近づき、にわかに辺りが騒がしくなってきた。
シモンを介し手配した兵士がこちらへ向かってきているのだろう。その状況に恐らく、この場にいる誰もが安堵し油断したのかもしれない。
ただ一人、モーリス・アジェを除いて。
ひゅん。という空気を裂く音が耳を掠めたかと思うと、捕縛したアジェの傍らに立つゼルラーデルの身体が前後に揺れた。その不自然な動きにリリアは瞳を瞠った。
「ご主人、さま?」
瞠目するリリアの眼前で、ゼルラーデルは白皙の美貌を歪め、朽ち葉の積もる地面に膝を着く。
「ご主人様!!」
「リリア動いちゃだめだ」
ゼルラーデルの許へ駈け出そうとするリリアを、クロゲンが常にない切迫した声で制す。
(何が起こったというの?)
「クロゲンさん、これはいったい――」
傍らにいたはずのクロゲンは既にそこには居らず、彼を探して彷徨わせた視線が、あり得ない光景を捉えリリアは更に瞳を瞠ることになった。
「クロゲンさん!! なにをやってるんですかっ!!」
不吉な気配に暴れる鼓動を宥めるように、胸を押さえていた手がぶるぶると震え出す。
(いったい。いったい何が起こってるの?)
涙の膜が張った瞳を揺らすリリアの視線は、エメラルドの小さな体を片手で捉え、その細い首に鋭い鉤爪を衝きたてるクロゲンの姿を捉えていた。
「ふふ、ふふふ……」
成す術もなく佇立するリリアの耳に、嗄れた忍び笑いが聞こえてきた。




