森の決戦・3
「止めておけ」
静謐な一言で自分の動きを制した声と、黒いマントを翻しながら現れたその姿に、リリアは目を丸くする。
「ご主人さま……」
「上級妖属は嘘が得意だからな」
「嘘?」
リリアは安堵のため思わず潤んでしまった瞳を瞬いて、その顔をセシリアの方へ向けた。
ゼルラーデルが現れたことで、一気に形勢が逆転したのを感じたのだろう、セシリアが忌々しげに唇を噛んでじりじりと後退する。
「無能な王国軍の魔術師どもが、その手段で何人も殺されていた」
「おやおや。無能とは心外ですね」
リリアへと歩み寄るゼルラーデルとは逆の方向から別の声が届いた。
鼻にかかった高い声がやけに耳障りに聞こえる。
「あれでも、優秀な私の部下だったのですがねぇ」
リリアが声のする方へ目を向けると、黒いローブを纏った男が、無駄に長い裾で枯葉を掃きながら木陰から姿を現した。
フードを被っていて、はっきりとした面貌は窺えないが、落ち窪んだ双眸がぎらりと陰湿な眼光を放っている。
言葉の内容からして、元王国軍の隊長――つまりセシリアの主人なのだろう。
かさり、かさりと音をたてながら、セシリアの許へ向かう男の言葉を黙殺して、ゼルラーデルはリリアの傍らへ歩み寄ると、徐に肩から掛けていたマントを取り去った。
「着ていろ」
そう言って差し出されたマントに、リリアは『なぜかしら?』と首を傾げ、次いで自身の格好に視線を落として瞠目した。
「わっ! ……何この服!? ……ボロボロ……」
そう言えばセシリアの鋭い爪に掠められたり、引き裂かれたり、逃げる際に木の枝に引っ掛けたりと、心当たりは充分すぎるほどある。むしろ今まで気が付かなかったことが不思議、というか間抜けなくらいだ。
それに、安心したせいか、今まで感じる余裕もなかった寒気まで襲ってくる。
「あぁあの……それでは、遠慮なくお借りします」
声を上擦らせながらリリアがずしりと重いマントを受け取ると、ゼルラーデルは彼女を背に庇うようにして、黒ローブの男を険しく見据えた。
「バトンに雇われた魔術師と言うのが、まさか貴殿だったとは……モーリス・アジェ。元王国軍の隊長殿が一介の貴族の飼い犬に成り下がるとは奇怪千万な話だな」
「いえね。バトン伯爵とは利害が一致しましてねぇ。それに、肩書きが如何に没意義かと、私は貴方に教わったと記憶しておりますがね。グレヴィリウス公爵」
どうやら二人は知り合いのようだ。
アジェという魔術師は何が可笑しいのか、くくく。と喉の奥で笑いを漏らした。
「私としても貴方との手合わせは、避けたいところでしてね。ここは穏便に話し合いで決めると言うのは如何なもんでしょう?」
「これが穏便に済ませたいと思っている者のやり方とは思えないが?」
「まぁまぁ。そう怖い顔なさらずに」
アジェは、おー怖い。などとうそぶき言葉を継いだ。
「バトン伯爵は、まぁつまり、領地の返還をお望みでしてね。いいえ、決して全部とは仰っておられませんよ。その辺りも話し合いで。ということですが。どうですかねえ?」
「このような僻地まで足を運んでもらって恐縮だが。あいにく私はバトン伯爵に返還すべき領地など持っていない」
「おやおや。そうでしたか。ここまで来て無駄足というのも困りましたねぇ。それでしたらどうでしょう。私の嘆願だけでもお聞き入れ頂けないでしょうかね」
アジェの鋭く細められた瞳が、真っ直ぐリリアへと据えられた。
目が合ったリリアは、背筋を駆け上がった寒気に身震いをする。
「そのお嬢さん。私の使い魔のお気に入りでしてね。それに魔術師としての素質も少なからずお持ちのようです。どうでしょう。是非とも私の弟子に――」
「断る!」
アジェの言葉を全て聞くことなくゼルラーデルは短く言い放った。
その返答にリリアは安堵した。いくら優秀な魔術師だとしても、彼から魔術を教わりたいとは、到底思えない。
(生理的に無理だわ)
「それは。困りました。私の右腕となるティルダ以来の逸材だと思ったのですがねぇ……はぁ困りました。またしても貴方に阻まれてしまうとは」
ティルダの名を聞きとめてリリアは瞳を瞠った。
(ご主人様の奥様はこの男の部下だったの?)
「穏便に済ませる気は更々ないらしい」
ゼルラーデルは地を這うような声音で吐き捨てる。
「まぁ。貴方がそう思われるのも無理からぬことでしょうね」
アジェの纏う気ががらりと変貌した。
もとより重たかった空気が一瞬にして緊張を孕み、リリアは唾を飲み込んだ。
暗雲漂う空気を感じ取った少女がリリアの肩を抱く。
「小屋に隠れていましょう」
「だけど、あたしのせいなのに……」
「それはどうかなぁ~? 多分、リリアのせいじゃないと思うよ?」
小屋の前でゼルラーデルの背中を心配げに見つめるリリアは、頭上から聞こえた場違いなのんびりとした声に眼を丸くする。
「クロゲンさん!? いつの間に来てたんですか?」
「あら? リリアったら気付いてなかったの?」
見上げるほど高い木の枝にぶら下っていたクロゲンが、大きく翼を上下させて二人の前に降り立った。
「あの二人はもともと、ものすご~く中が悪いの。だから、リリアには関係ないと思うよ?」
「でも……」
「アジェはティルダがゼルさんと結婚したのが気に入らないんだよ。だけどティルダはアジェを尊敬してたし、魔術師としての経歴とか地位も捨てたくなくて、結婚した後も王国軍に残って、そして死んだんだ。だから、あの二人の仲が悪いのはリリアの責任じゃないの。リリアは気にしなくていいの」
それでも逡巡するリリアを、少女が小屋へと押し込んだ。
「とにかくリリアは中へ入って、それからクロゲン。そろそろ私、限界」
何が限界なのかと首を傾げたリリアは、しかし直ぐに言葉の意味を知ることとなった。
少女の身体が見る間にぼやけ、収縮して行った。そして瞬き三回分ほどの後には、両手に収まるほどの大きさになっていたのだ。
今は人形のように小さな身体が、淡い緑色の光を放っている。
「これが本来の姿なのよ。エメラルドって呼んでね」
エメラルドは鈴を転がすような声でそう言うと、クロゲンの肩に載りにっこりと微笑んだ。
「いい名前でしょう? ボクが付けたんだよ」
自慢げに胸を張っているクロゲンの肩の上で、エメラルドは和らげていた表情を、可愛らしい外見からは想像できないほど厳しいものへと変えていった。
「ちょっと待って! 空気がおかしい。ああ。何てこと! 人型になってたから感覚が鈍ってたんだわ」
エメラルドは探るように辺りに視線を送って、静かにクロゲンの名を呼ぶ。
「クロゲン。気が付かない?」
「うん。何だか嫌な感じはするけど……もしかして、不可侵域がまた破られた?」
慎重に辺りの気配を感じ取っていたクロゲンが、不意に黒曜石のような瞳を瞠った。
「あーゼルさんが危ないね。リリア行ってくるよ?」
口にするより早く飛び立ったクロゲンの身体は、リリアが言葉の意味を理解するより先に、ゼルラーデルの傍らへと移動している。
「リリア。クロゲンに許すって言って」
「ええと……クロゲンさん。許します!」
エメラルドに瞳で急かされて、リリアは訳が分からないままそう口にした。
「結界が張られてるの。ゼルラーデルはたぶん魔術を封じられてると思うわ。特定の人だけを対象に術を使えなくする類の結界は、封じられた本人はそれに気付かないのよ。……でも、こんな大掛かりな術をいつの間に施したのかしら? もしかしたら、最初から仕掛けてあったのかもしれないわね」
「最初から?」
「そう。リリアを餌にして引き寄せたのかも……」
クロゲンが出ていったことで均衡が崩れ戦闘の口火が切られた。




