森の決戦・1
目が覚めたリリアは、後頭部に鈍い痛みを感じ、くぐもった呻きを漏らして柳眉を寄せた。
(ええと。ここはどこかしら?)
お屋敷の寝台の上でないのだけは確実だろう。横たわる床は冷たくてごつごつしていて、お世辞にも寝心地が良いとは言えなかった。
それに、湿った土と苔生した青臭い匂いがする。
薄暗くてはっきりとは分からないが、森にあった小屋に似ているような気がした。
自分がなぜこのような所で眠っていたのか、覚醒直後の靄がかった意識の元、記憶を辿っていたリリアは、ややあって中庭での出来事に思い至った。
上体を起こしかけ、そこでようやくリリアは身体の自由が利かないことに気がついた。
首から下の感覚がなくなっているのだ。
(あら……身体が動かないわね)
「お目覚めかしら?」
頭上から覗き込んでくる顔と、舌足らずな甘い声が、曖昧な記憶を現実へと結びつける。
「ごめんなさいね。このローブ。痺れ蜘蛛の糸が編込んであるの。身体動かないでしょう?」
何とか動かすことの出来る頭を僅かに持ち上げると、中庭で彼女が持っていた灰色のローブがすっぽりと身体を覆っているのが見えた。
なぜセシリアはこんなことをしたのだろうか? 魔術師が嫌いだと言いながら、それでも魔術の勉強をする自分を陰ながら応援してくれていると思っていたのに。
「……どうして?」
知らず漏れた言葉に、セシリアは華が綻ぶような笑顔を浮かべる。
「魔術を使えないようにしてるの。取ってしまえば、身体に影響はないから心配しないで」
「そうじゃなくて。どうしてこんなことをするんですか?」
声が震えるのは、怒りのせいなのか悲しみのためなのか自分でも分からない。
「そうするように、わたしのご主人様に命令されたからよ」
「……ご主人様?」
「誤解しないでね。わたし、ゼルラーデル様には従属していないから。わたしは本当のご主人様に命令されて、あのお屋敷で働いていたのよ。ゼルラーデル様の弱点を調べるためにね。そうしたらリリアちゃんがやって来たじゃない。リリアちゃんはまだ見習いさんだけど、でもねぇリリアちゃんがゼルラーデル様のお屋敷にいたままじゃ都合が悪いのですって」
セシリアはそう言って桜色の唇を尖らせた。そしてリリアの背中を抱え上げて岩壁にもたせかける。
土の上に寝かされているよりは幾分か楽な体勢になり、リリアは唇の隙間から細く息を吐き出した。
「ご主人様って……東屋で言っていた魔術師ですか?」
「ええそうよ。ね。リリアちゃん。もう一度訊くけど、わたしたちの仲間にならない?」
「嫌です!」
リリアは彼女にしては珍しく、嫌悪を孕んだ声音できっぱりと言い放った。
力づくで無理やり仲間に引き入れようなどと考えるような人の事を、どうすれば信頼できるというのだろうか?
ゼルラーデルを貶めようとしているのなら、尚のこと仲間になるなどありえない。
それにしても、なぜ元とは言え王国軍の魔術師ともあろう者が、そのような卑怯な真似をするのだろう。
瞳に力を込めてセシリアを見据えていると、金色の瞳がまたも怪しい煌めきを纏っていく。
「もともとリリアちゃんはこの森で死ぬはずだったのよね? 運良く生き延びていたけれど、やっぱりここで妖獣に喰い殺される運命だったんだわ。本当に残念だけれど」
まるでおとぎ話でも読み聞かせるかのように、甘ったるい声が残酷な言葉を紡ぐ。
「不可侵域で立て続けに二度も妖属による事故が起こったら、ゼルラーデル様の信用も丸潰れでしょうね?」
うふふと、笑うセシリアの無邪気な表情に、ぞわりと肌が粟立ち背中を嫌な汗が伝った。
「もしかして。あれはあなたたちの仕業だったの?」
「ふふふ。そうよ。あの黒い坊やに責任を押し付けるつもりだったのに、リリアちゃんが助けたりするから計画が狂っちゃったのよ」
「あなたたちの計画のために、ヴァンさんたちを殺したの……?」
彼女の思いやりだと思っていたことも全て、自分を取り込むための芝居だったってことだ。
あの控えめで可憐な花たちに、自分がどれほど励まされてきたかを想うと、胸がきゅっと痛み瞼の奥がじんじん痺れを帯びてくる。
リリアは奥歯を噛み締め今にも溢れだしそうな涙をこらえて、セシリアを睨みつけた。
「この場所を覚えている? 貴女のお仲間が下級妖属に食べられちゃった小屋よ? 貴女もここで食べられてみる? ふふふ。誰に食べてもらおうかしら」
口の端を上げるセシリアの表情からは、罪悪感の欠片も見られない。物語の少女のような愛らしさもそのままに、桜色の唇で人間を甚振るのを楽しむ残虐な言葉を放っているのだ。
もちろんリリアとしても、大人しく甚振られてやるつもりはない。けれど、身体の自由を奪われたままで、いったいどうすれば良いのだろう。
その時、きりきりと奥歯を噛み締めていたリリアの耳に、聞き覚えのある声が飛び込んできた。
「あらま。本当にここだったわ。さすがはシモンさんねぇ」
入口に背を向けていたセシリアが、はっとした様子で後ろを振り返る。
「アンナさ……ぎゃ……」
叫ぶより早く、何者かに顎を掬うように掴み上げられる。
次いでがっつりと両足首を纏めて持ち上げられて、宙に浮いた身体が弾丸の如く小屋を飛び出していく。 驚きと恐怖でリリアは声も出せない。
「悪ぃ。そのローブ触っと痺れっかんな」
声の主であるシモンの謝罪も今の状態のリリアには、たとえ声が届いていても、その内容を理解するまでには至らないだろう。案の定、恐怖に顔を引きつらせるリリアは、今にも失神寸前といった体である。
シモンが速度を緩め、ゆっくりと下降しながらリリアの足首だけを放していく。
頭だけを掴まれて、身体をぶらんぶらんと振り子のように揺らしながら、リリアはアンナの目の前まで下ろされていった。
「シモンさん。ありがとうね。リリアさん。お怪我はない?」
アンナのいつもと変わらないにこやかな顔を目にして、ようやくリリアの緊張と恐怖が解れていく。
状況は今一つ飲み込めないが、どうやらアンナとシモンに助けられたらしいと悟ったリリアは、地面すれすれの所でつま先をぶらぶらさせながら、二人にお礼を言った。
「アンナ様。シモンさん。ありがとうございます。それにしてもどうしてここが?」
アンナはうふふと笑い、何事かを口の中で呟いた。
すると、不思議なことにリリアの肩からローブがするりと落ちて、同時に麻痺していた身体の感覚が、何事もなかったかのように元に戻った。
それを確認したらしいシモンが頭を離し、宙に浮いていた足の裏が湿った地面の感触を履物越しに捉える。
だらりと降ろしていた両手を持ち上げて、本来の動きを取り戻した指をグーパーさせるリリアに、アンナが「大丈夫そうね」と笑って声を掛ける。
「ア、アンナ様って魔術師だったんですか!?」
「うふふ。さ、今の内に――」
目を丸くするリリアの腕を、アンナが引いた。
その時――
「そうはさせないわ」
甘い声に不釣り合いなトゲを孕ませて、小屋の中からセシリアが姿を現した。
「あらま。もう破られちゃったわ。即席の結界なんてこんなものかしらねぇ?」
アンナが手を頬に添えてほうっとため息を漏らす。その呑気な姿にリリアは目を丸くし、次いでぷっと噴き出した。
(アンナ様が居てくださって良かった……)
リリア一人だったら、怒りと恐怖で、きっと平常心を保っていられなかっただろう。
「何を笑っているの? 死を目前にして気がふれたのかしらね? ふふふ」
言いながらセシリアは大きく腕を振った。その指先が微かに煌く。
リリアはほとんど本能でアンナを突き飛ばし、自らも横に飛び退いた。刹那。背後の樹木に縫い針のようなトゲが次々と突き刺さり、幹に亀裂が走った。
「まあまあ。物騒なこと」
間を置かずアンナが撃ち込んだ空気の弾を、セシリアは寸でのところで回避し、すぐさまトゲを放って反撃する。連続で放たれるトゲを避けきれないアンナを、シモンが抱え上げ跳び退った。
「あらあら。ありがとうシモンさん」
直撃すればそこそこの威力がありそうな空気の弾を、鮮やかに作り出し放っているアンナだが、致命的に動きが遅い。身軽なセシリアは、白いエプロンのフリルを翻しながら、それらを避け絶え間なく攻撃を仕掛けてくる。
三対一とは言え、いかんせん動きが遅いアンナと、それを庇いながらの応戦を強いられているシモン。そして、魔術も使いこなせず、力もなく防戦一方のリリアでは勝敗は目に見えている。
妖属と人間との体力差を考えると、逸早く対策を講じなければならない。
けれど、最善策は見当たらない。ならば最悪の事態だけは避けなければならなかった。
リリアはシモンに駆け寄り、彼にだけ聞こえる声で告げた。
「シモンさん。アンナ様を連れてここから逃げて下さい」
「何言ってやがんだ!」
シモンが黄色と黒の目を剥いて、そんなことは出来ないと首を振る。
「アンナ様をこんな所で死なせるわけにはいかないんです。ゼルラーデル様もきっと同じお考えです。ゼルラーデル様の命令だと思って、シモンさん。お願いします」
「けどよ、そんなことしたら、お前ぇ……」
リリアの剣幕にシモンは困ったように目をはちぱちする。
「お願いします」
「……分かった。アンナを置いたら直ぐ戻って来っかんな。お前ぇは時間だけ稼ぇどきゃ良いかんな? 分かったな?」
「あたしがセシリアの気を逸らします。その隙にお願いします」
シモンの目を見つめながらしっかりと頷いた後、リリアはそう言って、二人から距離を置くように駆けだした。
「あらま。シモンさん。何をする気です? あっ! リリアさん気をつけて!」
珍しく切迫したアンナの声に振り返ると、こちらに駆け寄るセシリアの姿が見えた。その向こうでは、シモンが無理やりアンナを背中に乗せている所だ。
アンナはひな鳥のように産毛の生えたシモンの頭をぺしぺしと叩きながら、しきりに下ろすようにと言っている。
「シモンさん! 行って下さい!」
声に頷き、シモンは木の枝を器用に避けながら、あっという間に上空高く消えていった。
「あら? 随分と余裕なのね?」
ほっとしたのも束の間、気が付くと直ぐ後ろにセシリアの姿が迫っていた。
リリアは身体ごとセシリアに向き直り、じりじりと後退する。
セシリアはこの状況をまるで楽しむかのように口の端を上げて、リリアとの距離をゆっくりと詰めていく。
瞳に力を込めるが、もちろんセシリアは歯牙にも掛けない。歪な微笑を面貌に宿し、じわりじわりと間合いを詰めていく。
そして、とうとうリリアは小屋の外壁に追い詰められてしまった。
「もう少し楽しめると思っていたけれど」
まるで両刃の剣のような爪が音をたてて風を斬る。成す術もなく顔を背けたリリアの頬を鋭い切っ先が掠め、鬢の毛が一房、地面に舞い散る。
「あら残念」
地面に散らばった毛髪にセシリアがほんの一瞬気を取られた隙に、リリアは脱兎の如く駆け出した――つもりだった。しかし、あっさりと腕を掴まれてしまったのだった。




